第4話 音楽家の業、そして乾いた渇望。
「さあ、叩いてごらん。君の本当の音を」
世界的な指揮者が手渡してきた極上のマレットを握り、俺は五オクターブのマリンバの前に立った。
お袋の執念が揉み上げた呪いのシャツは、ガチガチに固まったまま俺の首回りを締め付けている。
だが、目の前の鍵盤を見つめた瞬間、そんな肉体の不条理すら俺の意識から消え失せた。
俺は静かに一礼し、一本のバチを振り下ろす。
ポーン――。
天井の高い防音室に、豊潤で、どこまでも深く、部屋全体の空気を優しく包み込むような完璧な和音が響き渡った。
楽器に詳しくない素人が聴いても、一瞬で「極上の音」だと平伏するような、そんな神聖な響きだった。
ただ、その完璧な音が出た瞬間、俺の胸に突き刺さったのは、底冷えするような落胆――。
(……これじゃない)
世間一般の人間なら、誰もがこの音を絶賛するだろう。
だが、俺の魂を狂わせたのは、あの情報の飢餓感に満ちたアナログな学校の音楽室で、埃をかぶっていた安い木琴の音なのだ。
あの不自由な肉体と40代の理性をギリギリで繋ぎ止めてくれた、泥臭くて、乾いていて、どこか哀愁を帯びた木の響き。
それと比べれば、この最高級のマリンバが奏でる完璧な響きは、俺にとってはあまりにも贅沢で、あまりにも「遠い」ものだった。
世間がどれほどこっちが良いと言おうが、これだけは譲れない。俺の魂が、この贅沢な音を拒絶している。
望んだ音が出ないという圧倒的な落差。俺の顔は、自然と苦痛に歪んでいた。
「……ねぇ、どうしたの?」
隣で俺の手元をじっと見つめていた美香が、不安そうに声を漏らす。
「そんなにすごい楽器なのに、なんで……なんでそんなにつらそうな顔をしてるの?」
子どもである美香には、目の前の少年がなぜ絶望しているのかが全く理解できなかった。いつもは冷めている彼が、見たこともないほど切ない目で鍵盤を睨みつけている。
「美香、静かにしなさい」
部屋の奥から、父親の静かな、しかし重みのある声が響いた。
世界的な指揮者であるその男は、ソファからゆっくりと立ち上がり、俺の横顔を見つめながら言う。
「彼はね、楽器の値段に怯えているわけでも、音の大きさに驚いているわけでもないんだよ。……むしろ逆だ。自分の魂に鳴り響いている『あの音』と、この楽器の音が違いすぎて、孤独に苦しんでいるんだ」
男の言葉が、俺の胸に痛いほど刺さる。流石は本物の音楽家だ。俺の脳内にある40代の頑ななこだわりを、一瞬で見抜いてみせた。
「世間がどれほど至高と讃えようが、表現者には、絶対に譲れない自分だけの原点がある。……そうだね、聡くん」
「……はい」
俺はマレットを強く握り締め、正面に立つ指揮者の男を真っ直ぐに見据えた。
「音は、学校にある普通のもので満足しています。高級な音は、僕にはいりません。それよりも、叩き方の技術を教えてください」
「技術、だと?」
「はい。バチの正確な振り方、一撃で深い鍵盤へ軸を運ぶための、身体の運動のさせ方です。僕のこの10代の体は、まだ俺の思い通りに動いてくれない。それを力づくで飼い慣らすための、本物の技術が欲しいんです。お願いします!」
俺はパキパキの襟元が喉元に深く刺さるのも構わず、直角に深く頭を下げた。
小学生の口から出たとは信じられない、あまりにもストイックで、泥臭い要求。
道具の豪華さに目を奪われることなく、己の肉体と技術の限界だけを凝視している俺の姿に、世界的な指揮者は一瞬だけ呆気に取られる。
しかし次の瞬間、男の唇が、見たこともないほど深く、不敵に吊り上がった。
「……面白い。機材の良さに溺れる凡百の演奏家より、君の方がよほど本物の表現者だ。いいだろう、言葉通り、君のその未熟な肉体を徹底的に叩き直してあげるよ」
「ありがとうございます!」
頭を上げた俺の目に、ようやく本当の熱が灯る。
これでいい。八百人の外堀も、お袋のドタバタも関係ない。
俺は一刻も早く、この言うことを聞かない肉体を飼い慣らし、あの学校の木琴の音を支配してやる。
そのやり取りを、部屋の隅でじっと見ていた美香が、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、変なやつ」
呆れたような口調。だけど、父親と対等に「音楽の業」をぶつけ合っている俺の横顔から、彼女の目は、もう完全に離れなくなっていた。
私のパパを、世界がひざまずく指揮者を、たった一言で夢中にさせてみせた少年。
学校ではただの「奇妙な木琴バカ」だと思っていた彼は、自分の想像を遥かに超える、眩しくて恐ろしい別の何かの輝きを放っていた。
(絶対に、逃がさない)
周囲の噂を操り、親を動かし、自分の檻へ誘い込んだはずの少年。
だが今、彼女の瞳の奥に灯ったのは、彼を飼い慣らし、その魂ごと自分だけのものにしたいという、底知れない支配の欲求だった。
髪型すら気づかないほど音楽に盲目な彼の横顔から、美香の目は、もう二度と離れなくなっていた。




