第3話 洋館の怪物と、糊のきいた鎧。
「聡! 恥ずかしい真似したら承知しないからね! 門をくぐる時は『お邪魔します』って、お腹から声を出すのよ!」
駅の改札まで付いてきて、俺の襟元をこれでもかと引っ張って整えたお袋は、八百人の外堀を埋めきった達成感からか、鼻息荒く去っていった。
残された俺の体は、文字通り「硬直」している。
お袋が前日に地元のデパートで急遽買い揃えた、妙に派手なチェック柄のよそ行きシャツ。それが問題だった。
お袋の狂気じみた気合いのせいで、これでもかと洗濯糊がぶち込まれており、生地が布というよりは、もはや薄いプラスチックの板のようになっているのだ。
(……動け、俺の体)
四十代の脳が「右手を振れ」と命令を出しても、ガチガチに固まった脇の下の生地がパキパキと音を立てて抵抗してくる。
歩くたびに、首回りがヤスリのように皮膚を削りにくる。これは服ではない。昭和のお袋の執念が編み上げた、息もできない「呪いの鎧」だった。
そんなロボットのようなギクシャクした歩みで、俺は高級住宅街の坂を登り、指定された住所の前に立った。
そこにあったのは、昭和の小学生の目から見れば、テレビのサスペンスドラマでしか見たことがないような、重厚なレンガ造りの洋館だ。
門構えだけでウチの借家がすっぽり入りそうだった。
インターホンを押すと、カシャリと電子音が鳴って重い鉄の門が開く。広い庭の奥にあるのは、立派なマホガニーの玄関扉。
それが開くと、そこには学校の体操着姿とは打って変わって、上品な刺繍の入ったブラウスを着た美香が立っていた。
「~子」のつかない上流者のオーラが、今日ばかりは本物の「お嬢様」のそれになって輝いている。
「……遅い。待ちくたびれたんだけど」
相変わらずツンと強気な口調。だけど、その耳のあたりがほんのりと赤い。どうやら俺が来るのを本当に楽しみにしていたらしい。
「ごめん。お袋が駅で襟元をうるさく直してきてさ」
俺が苦笑いしながら玄関に入ると、美香は俺のガチガチに糊のきいたシャツを見て、一瞬だけ目を見開いた。
パキッ、と。俺が靴を脱ぐたびにシャツの背中が悲鳴を上げる。
「……何それ、ロボットみたい」
美香はこらえきれずに、小さく吹き出した。
「ふふ、でも、ちょっと格好いいかも。ほら、パパが奥のレッスン室で待ってるから、付いてきて」
完全なる、スルー。
美香が今日のために、密かに髪型まで少し変えてきたことなんて、俺の目には微塵も入っていなかった。
中身は四十代の男のくせに、俺は美香の後ろを歩いて洋館の長い廊下を進みながら、頭の中はあの音のことで一杯だった。
家の中は静まり返っていて、高級な絨毯を踏む自分の足音さえ吸い込まれていく。
歩くたびに「パキ、パキ」と俺の服の音だけが廊下に虚しく響き渡る。
美香は少しだけ不満そうに、けれど俺を案内するその歩調を緩めることはなかった。
廊下の突き当たりにある、防音仕様の大きな両開きの扉。それを美香が開けた。
その瞬間、俺はパキパキの襟元が喉に刺さるのも忘れて、思わず息を呑む。
高い天井から柔らかな光が差し込むレッスン室の真ん中に、それは鎮座していた。
「……ローズウッドの、マリンバ」
思わず声が漏れた。
学校の音楽室にあった、あのおもちゃのような小さな木琴とは訳が違う。
普通の木琴が、高く、硬く、パタパタと乾いた音を鳴らす楽器だとするならば――マリンバは、木の音色を極限まで深く、豊かに響かせるために生まれた「巨大な怪物」だ。
重厚なパドゥックや、最高級とされるホンジュラス・ローズウッドの長大な鍵盤が並び、その下には鈍い金色に光る共鳴管が、大聖堂のパイプオルガンのように美しく整列している。
学校の木琴が「小さな水たまり」なら、これは「どこまでも深い底なしの沼」だ。
中身が四十代の俺でなければ、その威容だけで気圧されていただろう。
五オクターブはあるだろうか。本物の、怪物だ。
「よく来たね」
部屋の奥のソファから、学芸会で見かけたあの世界的な指揮者――美香の父親が立ち上がった。
「音楽室の小さな木琴であれだけの音を出したんだ。本物のマリンバの響きを聴いたら、君がどんな顔をするか、楽しみにしていたよ」
男はそう言うと、ラックからずらりと並んだ見たこともないような上質なマレットを一本、俺に手渡した。
「さあ、叩いてごらん。君の本当の音を」
中身が四十代の俺の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がる。
呪いのシャツに締め付けられながらも、ついに、俺の手は本物の楽器に届いたのだ。
隣では美香が、学校でリコーダーを持っていた時よりもずっと真剣な目で、俺がマレットを握る手元をじっと見つめている。
髪型すら気づかないほど楽器に狂っている俺の横顔を、彼女はどんな思いで見つめていたのだろう。
だが、この時の俺はまだ知らなかった。
この最高級の楽器を前にして、俺の四十代の脳が、このあと指揮者の男に向かって「とんでもないお断り」をブチかますことになるのを――。




