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初恋のつもりが初恋されてた 主人公のつもりが主役にされてた• 【音楽タイムリープ劇/完結済み】  作者: 癒されたい年頃


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第2話 誤解の四重奏

 学芸会の熱気がまだ冷めやらぬ体育館の裏。

 薄暗い渡り廊下で、俺は世界的な指揮者であるその男と相対していた。



「本物のマリンバを聴きに来ないか」という、乾ききった渇望を突くような誘いに、俺は「はい、行きたいです」と食い気味に即答する。



 だが、その光景を少し離れた場所から凝視していた俺の母親の顔は、完全に引きつっていた。



 ――というのは一瞬のことで、次の瞬間には、持ち前の凄まじい昭和の「思い込みエンジン」がフルスロットルで火を噴く。



 一学年十クラスもあるこのマンモス校の時代、三人きょうだいは当たり前だった。そんな中で、俺たち高橋家は珍しい「一人っ子」だ。



 お袋は日頃から、近所の母親たちに「一人しかいないから過保護に育つ」「きょうだいがいないと我慢が足りなくなる」と、事あるごとに理屈のない弾圧(マウント)を受け、辛酸を舐め続けてきた。



 その抑圧された年月が、一瞬にして爆発する。



 三百人の学年、その大合奏のど真ん中で、我が子が全体の音を止めてピンでソロを張り、千人の観客から地鳴りのような拍手を浴びたのだ。お袋の脳内フィルターは、すでに限界を超えて歪んでいた。



 ――ウチの聡(さとし)が、学年一の美少女を引っ掛けた。あの子が父親を引っ張ってきた。そして、あの威厳のある男が、我が子を直々に呼び出している!



「あ、あの! 先生! いえ、先生とお呼びしてよろしいのかしら!」



 お袋は割れんばかりの勢いで俺たちの間に割って入ると、揉み手せんばかりの、しかし眼光だけは異様にギラついた笑顔で指揮者の前に立ちふさがった。



「うちのバカ息子、普段はパッとしない子なんですけどねえ、私がつきっきりで厳しく仕込みましたから、カラーテストがありましても毎回クラスで一人だけ百点満点なんですのよ! やっぱりきょうだいがいない分、集中力が違いますのねえ、ほほほ! でも木琴なんてウチみたいな狭い家にはありませんから、毎日放課後も言われるまで音楽室に居座って……本当にこの子は、一度決めたら寝食を忘れて熱中する恐ろしい子なんですのよ!」



 頼んでもいない「うちの子すげぇ自慢」を、必死の形相でノンストップで浴びせかけるお袋。

 中身が40代の俺は、隣で頭を抱えるしかなかった。(頼むからお袋、一回黙ってくれ)



 その学年トップはお前が「勉強しろ」って怒るから、木琴を叩く免許を手にするために大人の能力で力技で獲っただけだし、自慢のせいで話がどんどんややこしくなっている!



 しかし、この昭和の母親の凄烈な圧に、世界的な指揮者は圧倒されるどころか、深く感心したように頷いた。



「ほう、それほどの執念ですか。素晴らしい。やはり私の目に狂いはなかった。お母様、ぜひ息子さんを今度、我が家に招待させてください」



 さらに悪いことに、美香(みか)がトドメを刺した。



「~子」のつかないその名前の通り、クラスの女子の中でもどこか一線を画した立ち振る舞いをするお嬢様。

 彼女はリコーダーを抱えたまま、少し顔を赤くして、でも勝ち誇ったような強気な口調を崩さずに、俺のお袋に向かってこう言った。



「おばさん、心配しないで。彼、本当に凄いの。私がパパにお願いして、今日絶対に聴きに来てって連れてきたんだから。今度、私たちの家に招待して、パパの部屋で二人でたくさん音楽の話をさせるから!」



 その瞬間、美香の底の見えない冷徹な瞳が、お袋の背後から俺の視線を真っ直ぐに射抜く。

 その目は、微塵(みじん)も笑っていなかった。



「私たちの家」に招待して、二人で。



 このフレーズが体育館の裏に響いた瞬間、お袋の脳内では完全に「うちの天才息子がお嬢様に見初められ、実家へご挨拶に行く」という大勘違いのシンフォニーが完成した。



 お袋が放った「将来を約束し合った二人の、親同士の顔見せ」という斜め上すぎる熱量は、わずか数日のうちに、五百人を超える大人の共通認識へと膨れ上がっていく。



 当時はSNSなんてない。けれど、井戸端会議やパート先の世間話、黒電話の伝言ゲームという、肉声によるアナログなネットワークの伝播速度は恐ろしかった。



 翌朝、通学路の曲がり角でヒソヒソ話していた近所のおばさまたちが、俺が通った瞬間にピタッと口を噤(つぐ)む。そのドロドロとした大人の噂話が、家庭を通じて、三百人の同級生たちへと逆流していくのに時間はかからなかった。



 だが、中身が40代の俺がその事態の本当の「深刻さ」を肌で自覚したのは、学校ではなく、昭和のありふれた路地裏でのことだった。



「ほら聡、隣の木村さんの家にこれ回してきて!」



 お袋に押し付けられた木製の回覧板を抱え、トボトボと近所の玄関へ向かう途中、ガレージの前で自転車をいじっていた二歳上の幼馴染の兄貴分につかまる。



「お前さぁ、色気づいちゃってさ。女なんかと遊びやがって、恥ずかしくねえの? 毎日放課後、二人で何やってんだよ、え?」



「女なんかと遊んで」――。

 木村の兄ちゃんの発したその泥臭いからかいの言葉が、俺の脳天を直撃した。



 中身が四十代の俺だ。この手の子供特有のからかいなど、人生の中で一度は経験している。



「こういう時は下下手と言い訳せず、堂々としていればいい。俺はただの木琴バカだというツラを貫き通せば、そのうち周囲も飽きて噂は風化する」

 そう、頭の中では完璧なセルフコントロールの数式が完成していた。



 ――が、翌週、登校日の校門をくぐった瞬間に、その虚勢は一瞬で瓦解する。



 クラスのガキどもだけでなく、隣のクラスの面識もない連中、果ては廊下ですれ違う上級生までが、畏怖と好奇の混ざった目で俺を遠巻きに眺めている。



 五百人の大人と、三百人の子ども。

 計八百人を超えるアナログな包囲網から放たれるヒソヒソ声の絨毯爆撃は、想像を絶する重圧だった。



(……いや、無理。奴らには勝てねぇ……)



 あまりの気味悪さ、その包囲網の分厚さに、俺は一瞬でトーンダウンせざるを得なかった。

 四十代の理性をもってしても、八百人の思い込みという名の暴力の前には、ただただ冷や汗を流すことしかできない。



 この時代の地方都市で、一度貼られた「女と遊んでいるおませな裏切り者」のレッテルを剥がすことが、どれほど不可能なことか。

 学校だけでなく、通学路でも近所の商店街でも、街全体が俺を「美香の婚約者」として視線で縛りつけてくる。



 だが、俺の背中を冷やしたその冷や水は、すぐに別の熱に変わった。



(だったら、もう何とでも言え)



 からかいの恥ずかしさに屈したわけではない。ただ、俺の脳の奥にある「あの音への飢餓感」が、八百人のノイズを完全にねじ伏せたのだ。



 どれほど社会的に白い目で見られようが、どんな恥ずかしい噂を流されようが、あの魂を救ってくれた木琴の技術が手に入るというのなら――。

 俺は喜んで、その泥沼へ飛び込んでやる。



「聡、何ぼーっとしてるの?」



 教室の入り口で、美香がリコーダーを抱えたまま、ツンとしたすました顔で俺を待っていた。



 自分が裏で仕組んだ「パパへの熱弁」が実って、俺と家で会えることになり、嬉しさを隠せない様子がその瞳の奥に滲む。周りの奴らは「マジで婚約者なんだな……」と確信の視線を送っていた。



「いや、なんでもない。土曜日、よろしくな」



 俺は美香の家に行くことを、完全に腹に括った。一度走り出した昭和の母親の執念と、八百人の思い込みは、核弾頭並みのエネルギーを持って止まらない。



 その週の週末。いよいよ俺が、美香の住む「高級住宅街の洋館」の門をくぐる日がやってくる。



 お袋によってデパートで急遽買い揃えられた、仕付け糸の匂いが残るよそ行きの服に身を包んで。



 外堀を完璧に埋められ、まるでお見合いに臨む新郎のような姿に仕立て上げられていることすら、その時の俺は、美香の手のひらの上だと気づいていなかった。

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