第1話 初恋されてた
タイムリープという不条理に見舞われてから、二年が過ぎた。
小学一年の頃に戻ってきた当初は、未来の知識で無双してやると息巻いていたものだ。
だが、考えれば考えるほどバタフライエフェクトが怖くなる。ならば金儲けだと、大化けする株や競馬の結末を思い出しても、子供の言うことなど誰も信じない。そもそも、手元のお小遣い程度では何もできなかった。
せめて人生1周目で叶わなかった「初恋」を今度こそ、なんて考えもよぎる。
だが、中身は40代の男だ。ランドセルを背負った少女たちを相手に、そんな気分になれるはずもなかった。
40代の精神はどうにか子供のコミュニティに馴染んだものの、不自由な肉体はいまだに俺の言うことを聞かない。
そんな、何もできない思い通りにいかない日々に心が擦り切れそうになっていた、小学三年生の秋。
俺――高橋聡は、運命の音に出会った。
放課後の音楽室。オーケストラでも後ろの隅に置かれ、決して主役を張ることのない楽器。
「木琴」をそっと叩いてみた瞬間、素朴で温かい木の音色が、俺の張り詰めていた心に深く、優しく染み渡った。
「なんだこれ……こんなに心に響くものか?」
これまでの人生での執着も、初恋をやり直そうなんていう虚しい打算も、すべて吹き飛ぶ。
俺の心に、本当の10代のような、狂気にも似た火がついた。
*
学芸会の楽器決めの日。
一クラス30人、一学年十クラス。
三百人を超えるこのマンモス校の体育館は、いつも子供たちの騒音で溢れかえっている。
俺は安全なその他大勢として、「リコーダー担当」の列に並んでいた。
隣には、クラスでいつもツンと強気な態度をとる少女、美香がリコーダーを握りしめて立っている。
有名なオーケストラ指揮者を父に持つ彼女は、この大所帯のクラスでも一目置かれる存在だった。
「木琴をやりたい人?」
先生の声に、誰も手を挙げない。ただポコポコ鳴るだけの、地味な楽器だからだ。
その時、俺はリコーダーの列を飛び出し、真っ直ぐに手を挙げた。
「先生、俺、木琴がやりたいです」
クラス中が静まり返る。
隣の美香が、息を呑んで驚いた様子で俺の横顔を見つめているのを感じたが、音に取り憑かれた俺にはそれを顧みる余裕はなかった。
「やりたいって言うからやらせた結果、下手じゃ話にならないからね……」
先生は密かに俺をリコーダーに戻そうと誘導してくる。
だが、俺は引かなかった。
「あの音じゃなきゃダメなんです。もっと叩きたい!」
それからの俺の行動は、小学生の枠を大きく超えていた。
毎朝、誰よりも早く登校して音楽室の前に座り込み、担任の機嫌を取っては放課後の居残り権をもぎ取る。
「勉強もしろ」と怒られれば、文句のつけようのない成績を出して大人たちを黙らせた。
すべては、あの音の中に引きこもる時間を、1秒でも増やすためだけに。
初恋のことなど完全に忘れ、俺はただ、木琴に狂っていた。
そんなある日の放課後、教室を出ようとする俺に美香がふいに声をかけてきた。
「今日も放課後、練習?」
「うん。もう先生に鍵を開けてもらってるはずだから」
俺が普通に答えると、美香は少し恥ずかしそうに、けれど底の見えない冷徹な瞳を崩さずに言う。
「……見に行っていい? 邪魔しないから」
彼女は他の友達を連れて、照れ隠しをするように音楽室へやってきた。
夕焼けが真っ赤に染まる音楽室で、俺はただただ楽しくて、汗をかきながら夢中で木琴を叩いていた。
美香は部屋の隅で、その楽しそうな俺の姿を、静かにじっと見つめ続けている。
放課後の廊下に響き渡る俺の音は、1週間、2週間と経つうちに、泥臭い焦りから澄み切った美しさへと洗練されていった。
ある夕暮れ、廊下を通りかかった若い教師と生徒が、音楽室のドアの前でふいに足を止めた。
夕闇に溶めていく優しい木の響きに耳を傾け、生徒の一人がぽつりと言った。
「……なんか、いいなぁ」
その何気ない一言が、俺の音がただの技術を超えて、誰かの心に届き始めた最初の灯火だった。美香もまた、毎日その変化を一番近くで聴いていた。
*
三クラス合同で行われる学芸会の会場は、ひな壇を埋め尽くす百人近い生徒たちの爆音で満たされていた。
客席には千人を超える人間が詰めかけ、その最前列には、美香の父親である世界的な指揮者が座っている。
先生のタクトが一閃し、百人の音が、ピタッと、かき消えるように止まった。
ひな壇の上の子どもたちも、客席を埋める千人の大人たちも、本来の楽譜にない突然の無音に「何が起きたのか」と息を呑む。
その張り詰めた静寂の真ん中で、俺はマレットを振り下ろした。
ポーン、ポポコポポコン――。
大太鼓やアコーディオンの轟音にかき消されていた木琴の音が、初めてその本当の姿を現した。
バイオリンのように音を長く伸ばすことはできない。叩いた瞬間に生まれ、次の瞬間には儚く消えていく、木の乾いた余韻。
だからこそ、その一音一音の「粒立ち」が、硬く、鋭く、それでいて圧倒的に温かい塊となって、百人が作り出した静寂の空間を真っ直ぐに切り裂き、客席の奥の奥まで飛んでいく。
分厚い伴奏の枠を完全に踏み越えた、奔流のような硬質なメロディ。
客席の保護者たちの困惑は、一音ごとに深い驚きへ、そして言葉を失うほどの感動へと色を変えていく。
「ただこの音をずっと聴いていたい」という純粋な祈りが、消えては生まれる木の響きとなって、その場にいる全員の鼓膜を震わせ、体育館の空気を完全に支配していった。
最後の一打が空気に溶け、静寂が戻る。
一瞬の、短い拒絶のような間のあと、体育館が崩れるかのような大拍手が湧き起こった。
俺はゆっくりとマレットを下げ、ひな壇を見上げた。
百人の真ん中、リコーダーを胸に抱えたままの美香が、誰よりも強く、激しく、俺に向かって拍手を送ってくれていた。いつもツンと強気な彼女の瞳が、見たこともないほど熱く、潤んでいるのが遠目からでもはっきりと分かった。
(俺は自分の世界に没頭できた。余計なことなど何一つ考えなくていい、なんて心地いい世界なんだ)
そう満足感に浸っていた俺だったが、演奏のあと、舞台袖で美香の父親から声をかけられることになる。
「素晴らしい演奏だった。今度僕のところで、本物のマリンバの音を聞きに来ないかい?」
スカウトされ、俺は目を輝かせて即答した。
「ありがとうございます。でも、どうして僕の演奏を?」
俺の問いに、世界的な指揮者であるその男は、ふっと目元を和ませて言った。
「娘がね、毎日うるさいんだ。クラスに妙なやつがいるって。家に帰るなり私の袖を引っ張って、君が毎日必死に居残りしている話を私にするもんだからね」
男は、舞台袖の向こうでリコーダーを抱えたまま、こちらをじっと見つめている娘の姿に視線をやった。
「そんなに必死な男の音がどんなものか、どうしても聴きに来てくれと頼まれたんだよ」
背筋に、氷水を流し込まれたような寒気が走った。
――今、この男は何と言った?
あの子の父親の口から出たその言葉が引き金となり、俺の脳裏に、これまで見過ごしてきた数々の光景が猛烈な勢いでフラッシュバックした。
――授業中、俺が席で無意識に鉛筆をマレット代わりにトントン叩いてイメトレしていた、あの時。
――休み時間、友達と遊びに行きもせず、ボロボロの音楽の教科書を睨みつけているのを、あの子が少し離れた場所からじっと見つめていた、あの時。
――これまで、誰にも見られていないと信じ込んでいた、あの無様な居残りの練習。
すべて、あの子の視線の底に、生々しく記録されていたのだ。
ステージの真ん中で誰よりも激しく俺を讃える拍手を送ってくれていた美香の、その笑顔の裏にある、逃げ場のない「何か」が、ぞわぞわと俺の皮膚を粟立たせる。
あの子は、俺のその不可解なほど必死な姿を全部見ていて、世界的な巨匠である父親すらも自分の手駒のように動かして、俺をこの舞台に引っ張り上げたのだ。
俺の救いだったはずの木琴の世界は、すでに彼女の張り巡らせた見えない檻の中――。
俺が「初恋のつもり」で勝手に諦め、忘れていたその裏で、すべては始まっていたのだ。




