第14話 最終章:初恋の終楽章
全校集会でのあの狂気的な建国宣言から、卒業式までの数ヶ月間は、三百人のマンモス校の歴史において最も濃厚で、最も泥臭い季節となった。
俺の作ったプレゼン用のプリントを基に、ダンス、合唱、演奏、さらには裏方の音響や照明、大道具に至るまで、学年全員がそれぞれの「役割」に巻き込まれていった。
もちろん、思春期手前の子どもたちだ。最初は「なんでこんなことやらなきゃいけないんだ」という反発や、クラスごとの派閥争いも当然あった。
だが、そこからが俺のターンだった。
目立ちたがりのヤンキー気質の男子をあえて大道具のリーダーに据えて自尊心をくすぐり、内気で周囲に馴染めないピアノ女子には、美香のコネで呼んだプロのソリストのレッスンを特等席で受けさせて強烈なやりがいを与えた。
揉め事が起きれば前世のクレーム処理のノウハウで迅速に和解させ、サボろうとする奴には「この舞台が終わったら、先生たちに頼んで特別なファミコン大会を開かせる」と大人の交渉術でエサをぶら下げた。
前世のブラック企業で中間管理職として揉まれ、人間のドロドロした利害関係を調整し続けてきた俺の経験値。
それは、三百人の同級生という巨大で不揃いな歯車を、一ミリの狂いもなく回し切るための、最悪で最強の潤滑油だった。
美香がパパの権力で拉致してきた一流のプロの講師陣による、妥協のない怒涛の地獄の特訓。
「もっと足を上げろ!」「音がズレているわ、やり直し!」
毎日、放課後の校舎からは、泣き言と、それをねじ伏せる凄まじい熱量がダイジェストのように駆け抜けていった。
その地獄の中心で、俺と美香は、傍から見れば「将来を誓い合ったお似合いのカップル」にしか見えない距離で、常に一緒にいた。
だが、その内実を言えば、甘酸っぱいラブコメなどでは断じてなかった。
プロデューサーとして実務の泥をすすり、三百人をまとめ上げてきた俺。総帥としてタクトを振り、プロを圧倒する意志を貫いてきた美香。
「あの教頭をよく丸め込んだな。やるなぁ」
「そういうあんたこそ、あのボイストレーナーのスケジュール、本当によくこじ開けたわね……」
お互いの手腕を認め合い、背中を預け合うその空気は、恋人というよりは、完全に「死線をいくつも潜り抜けてきた男気深い戦友」のそれだった。
正式な衣装を纏い、本物のプロのスタッフが慌ただしく動き回る緊迫感のなかで、俺は美香と二人、舞台袖の薄暗がりにいた。
「大変だったけど、ここまで出来るようになったな。三百人の子どもたちが、本物の劇団みたいだ」
俺はマレットを弄びながら、隣の小さな指揮者を見上げた。
「本番はもっと近くだぞ。期待してるぜ、総帥」
美香はタクトを握りしめたまま、黙って俺を睨みつけていた。その瞳が、なぜか悔しさと怒りでじわじわと潤んでいく。
「美香? どうした、緊張して――」
「あんたさぁ!!」
美香が、押し殺した、けれど激しい怒号を俺にぶつけてきた。
「私、卒業する前にあんたに絶対に言いたいことがあるの!!」
「な、何だよ急に」
「私の初恋をかえせ!!!!」
舞台袖の暗闇を切り裂くようなその叫びに、中身が四十代の俺の脳が一瞬フリーズした。
「最初……最初の頃は、あんたのこと本当に好きだったのよ!? 授業中に鉛筆ポコポコさせてる変な奴だけど、真っ直ぐで、格好よくて……だからパパにお願いして、他の誰にも渡したくなくて、あんたを支配して私のものにするために、私、死ぬ気で指揮者になったのよ!? なのに今じゃ何よ、この関係!! 完全にただの『男友達』じゃない!!」
美香は涙を怒らせて、俺の胸元をぐいぐいと小突いた。
「しかも周りの八百人の大人も親も、同級生も全員、私たちが結婚する二人だって認識してるのよ!? テレビにまで出ちゃってさぁ! この外堀、どうするのよ!!」
(知らんがな……)
中身が四十代の俺は、心の中で本気でそう呟いた。
美香が「浮気は許さない!」と狂気的に外堀を固めて自爆特攻を繰り返した結果、なぜか音楽の戦友になってしまったのだ。因果応報というやつである。
だが、俺は、くしゃくしゃになった美香の顔を見つめながら、ふっと大人の、いや、これからの未来を見据えた合理的な笑みを浮かべた。
「んじゃ、結婚すればいいじゃん。俺とお前で」
「……え?」
美香のタクトの先が、ピタリと止まる。
「どうせ俺たちの進路、中学からは地元じゃなくて、お前のパパのコネで海外に音楽留学か何かに進むことになるんだろ? 俺もさ、あの埃っぽい音楽室での木琴のソロも楽しかったけど、この二年間で、お前の指揮の元でやるオーケストラが、本気で好きになっちゃったんだよ」
俺は、彼女の握るタクトの先端を、自分のマレットの先でカチリ、と優しく小突いた。
「だからさ、どうせ一緒に世界へ行くんなら、将来結婚するってことでよくねぇ?」
軽い。二年間、魂を削って恋に悶え、狂気に染まっていた乙女に対して、あまりにも軽すぎる、かつ現実的な提案だった。ロマンチックの欠片もない、四十代の精神ならではの超効率的なプロポーズ。
美香は、涙目を丸くしたまま、しばらく放心状態で俺の顔を見ていた。そして、あまりの軽さに呆れ果てたように、はぁ……と深い、深い溜息を吐いた。
「……本当、あんたって最低。なによそれ」
美香は涙を指先で乱暴に拭うと、いつものツンとした強気な、だけど世界で一番愛おしそうな笑みを浮かべて、俺を真っ直ぐに見据えた。
「でも、まぁ、仕方ないから……ずっと一緒に居ましょ。私のタクトの前で、一生木琴叩きなさい」
ステージのブザーが鳴り響く。幕が上がる。
千人の観客が、メディアのカメラが、そして八百人の包囲網が待つ、まばゆい光の舞台へ。
「主人公」のツラをして生きていた俺を、主役に仕立て上げてくれた、世界で一番愛しい俺の指揮者が、ゆっくりとステージの真ん中へと歩き出す。
俺はマレットを強く握り締め、その小さな、けれど背筋の伸びた背中に続いて、光の中へと足を踏み出した。




