第92話、首相と第一海軍卿
マダガスカル島のディエゴ・スアレス攻略作戦、オペレーション・アイアンクラッドは失敗した。
その報告は、英国首相、ウィンストン・チャーチルをして頭を抱えさせるに充分だった。
「つまりは、こういうことだな、ダドリー」
苛立ちを隠せないチャーチルが、持っている葉巻の先を向けたのは、サー・アルフレッド・ダドリー・ピックマン・ロジャース・パウンド第一海軍卿である。
第一海軍卿とは、第一海軍卿兼海軍参謀長という役職である。イギリス海軍武官の最高ポストであり、日本海軍でいえば軍令部総長、アメリカ海軍では海軍作戦部長に相当する。
「私が前々より危惧していた事態が現実になったということだな?」
すなわち、日本海軍がインド洋に進出し、マダガスカル島に拠点を置くこと。これでインド洋を封鎖すると共に、日本海軍の潜水艦が大西洋に進出してくる可能性も出てきた。
「それを阻止するために、ヴィシー・フランスからマダガスカル島を手に入れるはずだったのに……。まさかの日本海軍が横やりを入れてきた」
「彼らがセイロン島を無視して、まさかマダガスカル島にまで艦隊を送りつけてくるとは思いませんでした」
パウンドの表情は、冴えなかった。というより1939年に第一海軍卿になった頃にはすでに顔色がよくなかった。はっきり言えば、健康状態がよろしくない。しかし他の経験豊富な提督たちは、もっと酷い状態だった。
チャーチルは葉巻を咥えた。少し間を置いて、紫煙を吐き出した。
「そうとも。アイアンクラッドは、あくまで日本人にマダガスカルを利用させないための予防処置だった。大規模な艦隊を投じたのも、さっと終わらせるためだ。戦力の逐次投入をしていられるほど、我が軍に余裕はない」
「ええ、まったく」
パウンドの顔色はさらに悪くなった。
「日本海軍は有力な艦隊を投じて、マダガスカル島に集結した我が海軍の艦隊を壊滅させた……。地中海艦隊やその他抽出した艦艇ともども」
マダガスカル島の上陸作戦が成功したら、元の配置に戻す予定だった艦艇群。これらは二度と所属に戻ることはない。すべてマダガスカル島沖で海に沈んだ。
「状況を整理しよう。マダガスカルは奪回可能か?」
手に入れてもいないのに奪回とは――パウンドは思ったが、それには突っ込まなかった。
「ただ潜水艦がやってきて、補給拠点になっただけならば、H部隊から艦を短時間引き抜くことも可能でしょうが、相手が戦艦、空母を含む有力艦隊であれば、ほぼ不可能でしょう」
巡洋艦、駆逐艦を回したところで、日本の機動部隊の前に海没確定だろう。
そもそも、有力なイラストリアス級空母3隻が一度に失われた。英海軍の空母戦力は、『アーガス』『フューリアス』『イーグル』『ヴィクトリアス』の4隻しかなく、イラストリアス級の『ヴィクトリアス』以外、強力な日本空母に対抗できないほど旧式である。
マダガスカル島攻略に向けた陸軍――第二陣として送り込む戦力はあるが、海軍の護衛がつけられないのでは、こちらも海の藻屑である。
「状況は極めて、深刻です。首相閣下」
パウンドは痛みに耐える顔になる。実際、腰が痛いのだ。おかげで睡眠は削られ、職務中に居眠りしてしまうこともしばしばであった。
「マダガスカル島が枢軸軍に押さえられたことで、喜望峰ルートが潰されました。インドとのルートが妨げられたのも痛いですが、現在進行中の北アフリカ戦線、そして地中海艦隊への補給の問題があります」
「……」
チャーチルの表情が曇る。
イタリア、ドイツが北アフリカに侵攻し、イギリス軍はそれと戦っている。オーストラリア陸軍は本国に戻しつつあったが、ニュージーランド師団や南アフリカ空軍など、友邦の軍と奮闘している。
だがその補給線は、アフリカからの遠回り、喜望峰ルートによって繋がっていた。
すべては地中海か。
チャーチルの視線は世界地図――ヨーロッパとアフリカ大陸の間にある地中海へと注がれる。
本来、アレキサンドリアや北アフリカ戦線の友軍への補給といえば、地中海を突っ切ったほうが断然早い。
ジブラルタルは連合軍が押さえ、有力なH部隊なども存在している。にも関わらず、アフリカ大陸を南から迂回する喜望峰ルートを使っているのは、地中海が補給路として地獄と化しているからだ。
イタリア海軍の航空機や魚雷艇、ドイツの航空艦隊が地中海にいて、そこを通行する連合軍船舶に牙を剥く。
彼ら枢軸軍も北アフリカ戦線への補給を行っている。つまりは連合軍、枢軸軍の補給線が交差しているために、衝突不可避であったのだ。
敵通商路を妨害する拠点としてマルタ島が連合軍側に存在するが、目下、枢軸軍もマルタ島を制圧しようと攻撃を繰り返している。
そしてそのマルタ島は物資不足につき、補給を欲している。だがそれをイタリア、ドイツは許さない。
ジブラルタルからマルタのルートは、イタリアの目と鼻の先である。そこを通過するのは至難の業であった。
そうなると、距離と時間はかかっても喜望峰を通る迂回ルートで確実な補給を回す必要があるわけだ。それでエジプト方面に展開する軍が戦えるのだが、その迂回ルートが、日本軍がマダガスカル島に居座ることで、台無しになった。
「……こういうことを言うのも何ですが」
パウンドは、窺うように言った。
「首相閣下の政権にとっても、これは大変よろしくありません」
「わかっているとも。誰の政権であってもだ」
チャーチルは、灰皿に吸った葉巻を押しつけた。
シンガポールを失い、ここにきてエジプト、スエズを失うことになれば、中東の石油はもちろん、インド、オーストラリアからの輸入も途絶える。それは大英帝国の生命線を断たれるも同然だ。
もちろん、国民の多数がドイツに降伏しろと言わない限り、イギリスはこの戦争を降りない。それはたとえ、チャーチルが失脚したとしてもだ。
その場合、おそらく戦争に必要なものは、アメリカがレンドリースの名のもとに供給するだろう。
ソ連を生かしているように、イギリスもまたアメリカの物資で戦い続ける。だがそれは、アメリカに国の行く末を握られることであり、真の意味での大英帝国の終焉である。
世界に名だたる大帝国ではなく、アメリカの属国同然の一友好国となる。
「アメリカの支援なくば戦えない」
チャーチルは新しい葉巻に手を伸ばした。
「それは素直に認めよう。だが全てを依存するのと、独自のルートが残っているのとでは大きく異なる」
大英帝国は第一次世界大戦以降より、さらに没落するだろう。だがヒトラーとの戦いに勝たねばならない。
ここで簡単に根をあげるわけにはいかない。
「なに、大丈夫。私の周りはいつも逆風が吹いている。今回も、その逆風のひとつに過ぎない」
6月には、ワシントンでルーズベルト大統領と会談の予定である。できればよい話題の一つも手土産にしたいが、それは難しいとチャーチルは思うのだった。
いや、会談を待つなんて悠長なことも言っていられない。イギリス単独で無理なら、アメリカ軍のインド洋の派遣を引き出す。一度首を横に振られているが、それで諦めるほどチャーチルは素直な男ではない。




