第27話、ウォースパイト、沈没す
バリ島沖海戦は、日本海軍は駆逐艦4隻。ABDA艦隊は軽巡洋艦2隻と駆逐艦7隻と、戦力は連合軍側に有利であった。
が、実際の戦闘は軽巡洋艦1、駆逐艦3の第一梯団、軽巡洋艦1、駆逐艦4の第二梯団が各個に日本軍と交戦する形となった。もっとも日本軍も最初は駆逐艦2、その後、敵襲を知った2隻が駆けつけての戦いとなったわけだが。
ABDA艦隊側が部隊を二つに分けていた理由は、先の2月15日のガスパル海峡での角田 覚治少将の空母『龍驤』からの攻撃隊の猛攻を受けた結果、艦隊が分散してしまっていたことも影響している。
肝心のバリ島沖海戦は、結果的にABDA艦隊の攻撃失敗に終わった。
戦力が分散した上での連携ミス。一説には、多国籍部隊故の意思疎通の遅れなど、よい評価はなかった。話によれば、指揮官のカレル・ドールマン少将が、英語ができなかったため、連絡にその分時間がかかったなどと言われている。
日本側は、駆逐艦4隻のうち『大潮』が大破し、司令の阿部 俊雄大佐は旗艦を『朝潮』に移したが、結果でいえば第八駆逐隊の勝利であった。
第三艦隊の高橋 伊望中将は、重巡洋艦『足柄』、駆逐艦『江風』『山風』を率いて、バリクパパンを出撃し、救援に向かったが、戦い自体は終わっていた。
バリ島にはさらに東方支隊、西部クーパンに第223連隊第一、第三大隊が上陸し攻略を進めていく。
さらにポルトガル領ティモールにも第223連隊第二大隊が上陸した。
さて、南方作戦の最終地点であるジャワ島攻略のための地固めが進む中、ところ変わってオーストラリア東海岸でもまた、戦いは進行していた。
2月20日その日、シドニーに衝撃的なニュースが舞い込む。
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戦艦『ウォースパイト』が、潜水艦の雷撃により沈没した。
クイーン・エリザベス級戦艦の一隻として、第一次世界大戦中に就役し、かのユトランド沖海戦に参加。実際に砲火を交えた超弩級戦艦である。
第二次世界大戦においても、1940年初頭、ノルウェー戦役に参加し、ドイツ駆逐艦部隊を壊滅に追いやると、地中海に移動。1940年7月のカンブリアの戦いでは、イタリア王立海軍の戦艦カイオ・ジュリオ・チェザーレに命中弾を与え、1941年3月のマタパン崎沖海戦でのザラ級重巡洋艦戦隊を戦艦戦隊と共同で葬ったりと活躍した。しばらく地中海の激戦に身を置いたが、修理のためにアメリカへ移動した。
そして日米開戦の時、『ウォースパイト』は西海岸、ピュージェット・サウンド海軍造船所で修理のほか、砲身交換や改装を受けていた。
改装もそこそこに12月28日に再就役を果たして、海上試験後、東洋艦隊に合流すべく出発した。
機関の調整をしながらの低速航行ながら、日本軍の潜水艦を警戒し、アメリカ西海岸近くを航行し、メキシコを南下。かなり大回りとなるルートを選んでオーストラリアを目指した。
それもこれも正規の護衛がまったくついていなかったためだ。アメリカ西海岸を移動している時は、通行する他の船団任務の間をぬって護衛がついたものの、比較的短い間に分かれ、南太平洋を航行している時は単艦となっていた。
そして2月20日、シドニーに到着の予定で、シドニー市民も『ウォースパイト』の到着を歓迎するムードで待っていた。
英連邦に属するオーストラリアからして、戦艦の到着はイギリス本国がオーストラリアを見捨てていないというアピールになったからである。北に目を向ければ、ニューブリテン、ニューギニアに日本軍が迫っていたから特にである。
が、そこに日本海軍特破隊が待ち伏せていた。ブリスベンやメルボルン行き輸送船を沈めていた彼らも、シドニーの入港のために近づいてきた『ウォースパイト』を発見。護衛がいないと見てとるや雷撃を敢行した。
この時、オーストラリア東海岸に展開していた二個潜水戦隊のうち、『ウォースパイト』を攻撃したのは、第34潜水戦隊に属する『伊737』『伊738』だった。
マ式ソナーにより『視認』状態での海中深くからの誘導魚雷は、雷跡を海上にまったく残さず、第一次世界大戦時の老嬢の艦底に命中。
直撃四本。ウォースパイトはシドニーを目前として沈没したのであった。
雷撃を受け、沈没しつつあり――『ウォースパイト』からの最期の通信で、撃沈を知ったオーストラリア政府と軍、そしてシドニー市民の衝撃は大きかった。
武勲艦である『ウォースパイト』は、東洋艦隊に合流することはなかったのである。
なお、シドニーよりさらに南で、P-40、P-39など戦闘機を輸送していた輸送船『モーマック・スター』も、日本潜水艦によって撃沈され、さらにオーストラリアの民に不安を植えつけることになる。
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なお、2月20日は、もう一つ戦いがあった。
それはアメリカ海軍、第11任務部隊が、日本軍が1月に占領、拠点化を進めているニューブリテン島ラバウルへの奇襲攻撃を行おうとしていたのである。
ウィルソン・ブラウン中将指揮の第11任務部隊は、空母『レキシントン』と重巡洋艦4、駆逐艦10からなり、1月31日にハワイ真珠湾を出撃。日本軍のニューカレドニアやニューヘブリディーズ諸島への進撃の可能性に対する牽制もかねて、進撃した。
この時、『レキシントン』は、所属航空隊のVF-2が機種交換を行っていて艦を離れていたので、伊6潜水艦によって大破、修理を強いられた『サラトガ』の戦闘機隊VF-3が、代わりに載っていた。なおその指揮官は、のちのサッチ・ウィーブで有名になるジョン・サッチ少佐である。
2月1日に、ウィリアム・ハルゼー、フランク・J・フレッチャーによるマーシャル・ギルバード機動空襲の成功と同様、ブラウン中将の第11任務部隊は、ラバウルへと迫った。
だが哨戒中の九七式飛行艇が、第11任務部隊を発見、通報した。
第四艦隊(南洋部隊)の司令長官、井上 成美中将は、第24航空戦隊にただちに攻撃を命令。
第24航空戦隊の後藤 英次少将は第四航空隊に命令を下し、一式陸上攻撃機17機が発進した。当時のラバウルに展開する陸攻は18機で、ほぼ陸攻全力出撃であった。
戦闘機の護衛もなく、また魚雷が到着していなかったため、陸攻隊は爆弾のみを搭載していた。
『レキシントン』もレーダーにより日本軍機の接近を掴んでおり、VF-3のF4Fワイルドキャット戦闘機が迎撃に出た。
結果は、『レキシントン』に至近弾を与えたのみで、陸攻隊が壊滅的大打撃を受けた。
しかし第11任務部隊は、すでに奇襲は不可能と判断して戦線を離脱。かくて第24航空戦隊は、陸攻隊の犠牲と引き換えに、ラバウルへの空襲を阻止に成功した……。




