第二話 教室
お母さんの夢を見ていた。そんな気がした。夢の中の母さんは、病気が嘘のように元気そうで、何かを必死に伝えようとしていた。その言葉を聞き届けられないまま、意識は急速に引き戻される。
まぶたを開けた私が最初に感じたのは、奇妙な違和感だった。
気づけば、私は教室にいた。 見慣れた、私の通う中学校の教室そのもの。埃っぽい床、並べられた机と椅子。けれど、何かが決定的に違っていた。
窓の外に目をやった瞬間、心臓が大きく跳ねる。 そこに見えるはずの校庭や街並みはどこにもなく、ただ果てしなく広がる青空と雲があった。
「……何、ここ」
私は学校が好きじゃない。だから、これはきっと悪い夢だ。早く醒めてほしい。 数分間、机に突っ伏してじっとしていたけれど、一向に景色は変わらない。だんだんと、恐怖よりも退屈と、ある種の好奇心が頭をもたげてきた。
お母さんが言ってた、空の学校……?
この、あまりにもリアルな幻の中で、教室のドアを開けたら何が起きるのだろう。 私はおそるおそる、湿った手で引き戸をつかみ、ゆっくりと横に滑らせた。
そこは、がらんとした廊下だった。 隣にも、その隣にも、教室がいくつも並んでいる。
「誰も……いないの?」
私の声が、誰もいない静寂な廊下に虚しく響く。 その時だった。
コツン、コツンと、小気味よい足音が聞こえた。 鼓動が早くなる。振り返ると、そこに一人の少年が立っていた。
誰もが思わず見惚れてしまうような、整った顔立ち。ふわりと、爽やかな、けれどどこか甘い香水の匂いが鼻をくすぐる。 まるで、恋愛小説の中から抜け出してきたばかりのような、完璧な王子様系の男子。
第一印象は、文句なしの満点。
彼は、不思議そうに辺りを見回していたが、扉の陰から顔だけを出している私に気づくと、ふっと表情を和らげた。
「えっと、こんにちは。ここがどこか、わかりますか?」
心地よい、鈴を転がすような声。 急に声をかけられたことに、心臓が止まるかと思った。喉の奥が引きつり、言葉が出ない。
嘘……私、こんなイケメンと喋るの……?
緊張で体が硬直する。 もしこれが夢だとしても、この状況は私のは脳内では処理しきれなかった。
「すいません……私も、さっきここに来たばかりで、よく分からなくて」
気まずい沈黙が、廊下をじりじりと這う。 彼は黙り込んでしまった。自分から何か話題を振るなんて、今の私にはハードルが高すぎる。一刻も早くこの空気から逃げ出したくて、私は焦って口を開いた。
「えっと……私、たんさく、しちゃいので!」
あ。噛んだ。 「探索したいので」と言おうとしたのに。 穴があったら入りたいほどの恥ずかしさがこみ上げ、私は顔を伏せた。これ以上無様な姿を見られないよう、逃げるようにその場を去ろうとした――はずだった。
「あの、僕もついて行っていいですか?」
不意の提案に、私は足を止める。 「あ……はい」 「ありがとうございます。僕は越野 優。中2で、○△○中学校に通ってます」 「……私は、綾瀬 紬です。よろしくお願いします」
歩き出した私の隣を、越野くんが静かについてくる。 一つ年下なんだ。だから、あんなに爽やかな雰囲気を纏っているんだろうか。 そんなことを考えながらゆっくり歩いているうちに、ふと思いついたことがあった。
「……ここは学校なんだから、図書館もありますよね?」
「えっ?」
「もしかしたら、そこにこの場所についてのヒントがあるかも。学校の歴史をまとめた本とか、よく置いてあるじゃないですか」
私の提案に、越野くんの表情が一気に明るくなった。
「確かに! 綾瀬さん、頭いいですね。校内地図ってよく階段の近くにあるし、探してみますか?」
それから私たちは、黙々と廊下を進んだ。 越野くんは一生懸命に話題を振ってくれるけれど、今の私はどうしてもそっけない返事しか返せない。会話が続かない申し訳なさで胸がチクチクする。
何か……何か私からも話しかけなきゃ
必死に脳内で話題を探しているうちに、廊下の突き当たりに大きな扉が見えてきた。 『図書室』。 意気込んだ言葉を口にする前に、私たちは目的地に辿り着いてしまった。
「やっと見つけましたね。……あ、そうだ。これからはタメ口で話さない? その方が楽だし」
不意に越野くんが、距離を縮めるような提案をしてきた。 「え、あ……うん。わかった」
戸惑いながらも頷き、彼が図書室の重い扉を押し開ける。 そこに広がっていたのは、驚くほど何の変哲もない、どこにでもある図書室だった。この場所の正体を示すような特別な本や地図があるはずだと期待していたけれど、目につく場所にそんなものは見当たらない。
夢にしては、あまりに質感がリアルすぎる。 けれど、もしこれが現実だとしたら? 永遠にこの空の中に閉じ込められるのだとしたら? おばあちゃんが、心配しちゃう……
家族を失い、裏切られ、ようやく手に入れた穏やかな居場所。そこへ戻らなきゃいけない。 焦燥感に突き動かされ、私は一つの、あまりにも大きな決断を下した。
「……ねえ。あそこの窓から、飛び降りてみない?」
私が指差したのは、図書室の壁一面にはめ込まれた大きな窓だった。 越野くんは、ポリポリと頭をかきながら、信じられないものを見るような目を私に向けた。
「……君、正気?」
自分でも、とんでもないことを言っている自覚はある。 けれど、私の中では筋が通っていた。こんな完璧すぎるイケメンが現れるなんて、いかにも私の願望が作り出した夢らしい。
「これ、きっと夢だと思うんだ。だから、ここで死ぬことはできないはず。……ここから落ちれば、その衝撃で現実の世界に戻れるんじゃないかなって」
自分でも驚くほど冷静に、謎の「名推理」を披露する。 「……もし、それで本当に死んじゃったらどうするの?」
越野くんの低い声に、私は言葉を詰まらせた。 死ぬのは怖い。夢だと信じていても、足がすくむ。けれど、何もしないままここに留まるのは、もっと怖かった。
「……じゃあ、私一人でいくね。一日経っても私が戻ってこなかったら、死んだと思って」
これ以上、彼に引き止められたら決心が鈍ってしまう。 私は言い捨てると同時に、窓に向かって全力で走り出した。
「おい、待て……っ!」
背後で越野くんの焦った声が聞こえたけれど、もう遅い。 私は迷わず、窓枠を蹴った。 視界いっぱいに、どこまでも続く青い空が広がった。
多分辻褄合わないとかあるかもしれません!あと、なんで急に!?みたいな!そこはどんどん直していくつもりなので温かい目で見てくれると幸いです!




