9 狂信者の自白と最後の忘却
僕の記憶は真犯人が翠川紗希であるという結論を既にメモ帳の文字としてしか認識できない。しかし僕の初見の観察眼は翠川が放つ狂信的な愛という異様な熱量を捉え続けている。
「翠川さん、あなたが運び屋だということを改めて自白してもらおうか?」
金城警部補は、翠川を睨みつけた。
翠川はデッサンが積み上げられた記録庫の中で、静かに微笑んだ。その顔には、罪の意識よりも、目的を達成した者の清々しさが浮かんでいる。
「はい、私がやりました。先生の忘却を守るためにすべてを運びました」
彼女の告白は僕の立てた推理を裏付けた。
「では、詳しく説明してもらおう。まず橙馬宗一郎を殺害した経緯だ」
「橙馬先生は先生の過去を暴こうとしていました。私がハーブ園で忘却の薬を生成しているとき、先生から記録庫の鍵を奪いアトリエへ向かったのです。橙馬先生はこの館の真実を知り過ぎていました」
翠川は鏡花が倒れるパーティー開始前に橙馬に接触していた。
「私は彼をアトリエに呼び出し鏡花先生の忘却は芸術への昇華だと説得しようとしました。しかし彼は先生を加害者の共犯者だと罵り、この記録庫の文書を公表すると脅した。だから私は……」
翠川は持っていたハーブ園用の小さな剪定バサミで橙馬の首を深く突き刺したと自白した。その場で橙馬は絶命しただろう。
「その後、あなたは橙馬の死体をアトリエに放置し備品庫の鍵を彼の手に握らせた。そして鏡花さんが倒れた混乱を利用して死体を運び出した。どうやって?」
「それは……灰谷さんに協力してもらったからです」
場にいた全員の視線が無言で僕たちの会話を聞いていた執事灰谷哲也に集中した。
「はい。私は柊家の名誉とお嬢様の忘却を守るため翠川様の計画に加担しました」
「おいおい!」
金城警部補は驚きを隠せない。
「翠川様は鏡花様が倒れた後の混乱の数分間を利用し、私と一緒に死体を避難通路で運び、アトリエの床板から運び上げ縊死を偽装しました。イーゼルと忘却の結晶の連鎖トリックも翠川様の考案です」
この供述は僕の運び屋の共犯関係という推論を完全に証明した。
翠川は鏡花への毒殺未遂も自白した。
「あれは私が先生に安全な場所を提供するための儀式でした。先生自身が被害者として記憶を失うことで罪の意識からも解放される。そして忘却という名の芸術を完成させることができる」
彼女は鏡花の忘却を一種の宗教的な信仰に変えていたのだ。
真犯人の告白、そして共犯者の存在。事件の全貌はまさに鏡花の忘却を巡る、歪んだ人間関係の箱庭だった。
【翠川紗希:真犯人。灰谷哲也:共犯者(死体運搬、密室偽装協力)。動機:鏡花への狂信的献身】
その時、朝霧玲音が僕に問いかけた。
「夜凪くん、君の推理は完璧だ。忘却が嘘を暴いた。だが君は先ほど記録庫のデッサンを見て、記憶障害の本当の理由に気づいたと言った。それはなんだろう?」
朝霧の質問は僕自身の最も触れたくない核心を突いた。
僕はデッサンの中の傷だらけの自分と雫の姿を再び見つめた。
「僕の忘却は僕の脳の防衛本能です。あの監禁事件のトラウマから僕の精神を守るためにあの時の記憶を数分前の記憶と共に絶えずリセットしている」
「では、なぜ鏡花さんの忘却というテーマにこれほど強く惹かれたのか?」
「それは僕と鏡花さんがある意味で共犯者だったからです」
僕は皮肉を込めて笑った。
「鏡花さんは加害者の妹として僕たち被害者の苦痛を描き続けることで罪を昇華しようとした。そして僕は彼女の描く忘却の美学に僕自身の記憶の断片を重ねていた。僕たちは忘れたい過去という名の同じ檻の中にいた」
「その忘れたい過去の真実……あの事件の本当の加害者とは?」
金城警部補が尋ねた。
僕はデッサンから目を離さず答える。
「あの事件の本当の加害者は鏡花さんの兄、そして……僕の父親でした」
僕の言葉に雫が初めて感情的な動揺を見せた。
「……零くん……」
「僕の父は鏡花さんの兄に協力し、僕たちを監禁した共犯者だった。僕の脳はその加害者の息子であるという罪の意識と、被害者としてのトラウマから僕を完全に切り離そうとした。それが僕の忘却探偵としての真のオリジン・ストーリーだ」
僕の忘却は僕を事件の加害者でも被害者でもない冷めた傍観者として立たせ続けていた。
翠川紗希は僕の告白を聞き静かに言った。
「先生の兄君の罪を先生自身が背負おうとしていた。だから私は先生の忘却を誰にも邪魔させたくなかった」
翠川の犯行、灰谷の協力、そして鏡花の偽装。全ては、一つの過去の事件、一つの忘却を巡る、悲しくも歪んだ連鎖だった。
金城警部補は捜査員に翠川と灰谷の身柄を確保するよう命じた。記録庫の中は真実が露わになった後の冷たい静寂に包まれた。
僕は再びメモ帳を開き最後の結論を書きつける。
【事件解決。真犯人:翠川紗希。共犯者:灰谷哲也。被害者:橙馬宗一郎(過去の暴露を企図)。鏡花:毒殺未遂の偽装(忘却によるアリバイ工作)。すべては誘拐監禁事件の過去と忘却への狂信的な愛から生じた】
そして僕はこの事件の全ての情報が僕の脳裏から滑り落ちていくのを感じた。
朝霧玲音が、僕のそばに近づき、静かに言った。
「夜凪くん、君は真実を知りました。そして、れをまたすぐに忘れる。君は真実を最も早く忘れられる人間だ。それは不幸か、それとも救いか?」
「僕にはわかりません、朝霧さん」
僕は正直に答えた。
「ただ僕のメモ帳だけが僕の人生の真実の切断面を記録し続ける。そして僕が忘却探偵である限り、この世界を、常に初見の驚きを持って見つめ続けるでしょう」
僕は雫を見た。彼女は僕の記憶がリセットされたことを知っている。
「雫。この事件は、解決したんだっけ?」
雫はいつもの無表情、僕のメモ帳を閉じた。
「ええ、零くん。解決したよ。そしてあなたは今から、この事件を完全に忘れる。さあ、帰りましょう。もうこの箱庭館にあなたの役割は残っていません」
僕の意識は穏やかな忘却の波に飲み込まれていく。数分前に真犯人を特定し過去の真実を知ったという、劇的な瞬間を、僕の脳は僕自身を守るために冷徹にノイズとして処理し始めた。




