表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/21

8 過去の記録と鏡花の秘密

 僕の記憶は連鎖反応のトリックと、鏡花が自身の毒殺未遂を仕組んだという結論を、既に忘却の彼方に押しやろうとしていた。だが、メモ帳に記された「運び屋の動機:真の忘却。過去の共犯関係」という言葉が僕を次の行動へと駆り立てる。


「警部補。橙馬さんが握っていた小さな鍵の正体は、アトリエの地下にある記録庫の鍵です。犯人の動機、そして鏡花さんの過去の秘密はそこに隠されています」


 金城警部補は僕の指示に従い、灰谷執事に案内させて、ギャラリー裏の備品庫から地下の避難通路、そして記録庫の扉を開放させた。


 記録庫は湿った土の匂いが充満する、小さな石造りの部屋だった。古い文書、埃を被ったスケッチブック、それから無数の絵画のキャンバスが雑然と積み上げられている。


「この中に柊鏡花さんの忘れたい過去の記録がある」


 僕たちが記録庫の奥へ進むと、雫が、一つのスケッチブックを指差した。それは鏡花の現在の作品とはかけ離れた、異常なほど生々しい、人間の顔のデッサンで埋め尽くされていた。


「零くん、これを見て」


 デッサンに描かれているのは、すべて苦痛と絶望の表情を浮かべた、十代の少年少女たちだった。そのデッサンの中の一枚に、僕の視線は釘付けになった。


「これは……?」


 そこに描かれていたのは僕自身だった。正確には十代前半の頃の、顔中傷だらけで、怯え切った表情の僕だ。そしてその僕の横には同じく傷だらけの幼い雫の姿もあった。


 僕の頭の中のノイズが一瞬で最大になる。記憶の扉が無理やりこじ開けられようとしているかのような激しい頭痛。僕は反射的にメモ帳に書きつける。


【記録庫:少年少女のデッサン。僕と雫の幼少期の姿。傷だらけ。この記録庫は僕たちの過去に関わる】


「零くん、どうしたの?」


 雫が心配そうに僕を見たが、その瞳の奥には、僕と同じ動揺の影があった。


「僕たち……この絵のモデルになった覚えは?」


 雫は静かに首を振った。


「私もこの時期の記憶は曖昧としているかな。ただこの絵を描いた人間、そして描かれた状況は……忘れてはならないことだった気がする」


 灰谷執事が静かに口を開いた。


「失礼致しました。それは十数年前にこの土地で起こった未成年連続誘拐監禁事件に関する、柊様が当時の被害者たちを描いた習作です。柊家はこの事件に深く関わっておりました」


「誘拐監禁事件?」


 僕の忘却がその忌まわしい事実を再び僕から奪い去ろうとする。だが僕は必死に抵抗した。


「この事件の関係者の中に橙馬宗一郎はいたんですか?」


「いいえ。ですが柊様の兄君が当時、この事件の加害者して逮捕されています。そしてこのデッサンはその兄君の共犯者であったとされる人物が事件の後に描いたものです」


 灰谷は苦渋に満ちた表情で言った。


「兄君の共犯者……それが今の柊鏡花だというのですか?」


 僕の問いに灰谷は沈黙した。


 鏡花の過去が僕たち自身の忌まわしい過去と繋がっていた。彼女の忘却をテーマにした芸術は、単なる美学ではなく、トラウマからの逃避だったのだ。


 僕はデッサンの中に鏡花自身の署名を見つけた。彼女は加害者の妹でありながら、被害者たちの姿を描き続けることで、自らの罪を清算しようとしていたのか?


 僕たちの背後で朝霧玲音が静かに言った。


「美しいですね、夜凪くん。柊鏡花は加害者側の共犯者でありながら、同時に被害者たちの記録者だった。彼女の忘却は罪の記憶を消すためのものであり、その芸術は、忘れたいという願望の裏返しだった」


「鏡花さんは被害者たちの記憶を封印することで、自身の人生を忘却という名の美しい檻に閉じ込めた」


 僕は橙馬の動機に思い至った。


「橙馬さんは鏡花のその偽りの忘却を許せなかった。彼はこの記録庫の鍵をどこかで手に入れた。そして鏡花を脅迫した。お前が忘れたがっている過去を世間に公表してやる」


「その通りです」


 白石蓮が震える声で言った。彼はいつの間にか僕たちの背後に立っていた。


「柊先生はこの過去に苦しみ、私にカウンセリングを受けていた。橙馬さんは先生の忘却を芸術への逃避だと批判し、記録庫の存在を知り鍵を手に入れた」


「白石先生、あなたは鏡花さんの秘密を知っていた。そして鏡花さんの忘却を守るために橙馬さんを殺した運び屋ですか?」


 僕の質問に白石は答えなかった。


「鏡花さんは毒殺未遂によって、被害者としての忘却という、強固なアリバイを手に入れようとした。そして橙馬さんを殺害する運び屋と共謀した。その運び屋とは鏡花の忘却を愛と信じ守りたかった人物だ」


 僕の視線は白石、そして黒須茜、翠川紗希を次々と行き交う。全員に鏡花への強い執着と動機があった。しかし僕は橙馬が握っていた小さな鍵と、記録庫のデッサンの配置から、ある違和感に気づいた。


「待った。橙馬さんが殺されたのは、この記録庫の秘密を知ったからだ。しかし彼が握っていた鍵は、この記録庫の鍵ではない。備品庫の鍵であり避難通路の鍵だ」


「それがどうかしたか?」


 金城警部補が尋ねる。


「橙馬さんはこの記録庫の存在は知っていても中身までは知らなかった。彼は犯人に殺される直前までこの記録庫に辿り着けていなかった」

「では、なぜ彼は殺された?」

「彼は真犯人の真の動機を目撃したからです」


 僕のメモ帳に僕自身の疑念が書きつけられた。


【橙馬の死は記録庫の中身を知ったからではない。運び屋が橙馬を殺した真の理由は鏡花の秘密とは別の場所にある】


 僕はデッサンの中の僕と雫の傷だらけの顔を見つめた。僕の忘却はこのデッサンが示す加害者と被害者の共犯関係の記憶を消していた。


 そしてその瞬間、僕の記憶障害の本当の理由が閃光のように脳裏を貫いた。


 僕の記憶障害は単なる病気ではない。あれは防衛本能だ。あの忌まわしい監禁事件の記憶から僕自身を守るために、僕の脳が忘却という名の壁を作り上げたのだ。


 デッサンの中の僕自身に気づいた時、僕の忘却の壁が一瞬だけ崩壊した。目の前の容疑者たちの中で最も鏡花への執着が強く、最も鏡花の忘却を信じていた人物の顔が、加害者側の共犯者のそれと重なった。


 翠川紗希。鏡花への熱狂的な憧れを持つ弟子。


 彼女は鏡花の忘却こそが芸術への道だと信じていた。橙馬はその忘却を公表することで鏡花を裏切ろうとした。


「翠川さん。あなたが橙馬さんを殺し、そして鏡花さんに毒を盛った運び屋ですね」


 翠川は、不敵に、穏やかに、そして狂気を帯びた眼差しで微笑んだ。


「橙馬先生は先生の芸術を汚そうとした。先生の忘却こそが私の愛だから。私は先生の代わりにすべてを忘れさせたかった」


 僕が次の質問をする前に僕の記憶は再びノイズに包まれた。


「……んんん? 僕はなにを……」


 雫が僕のメモ帳を指差した。


【結論:翠川紗希が運び屋。動機は鏡花の忘却を守るための狂信的な愛】


 僕は今、真犯人を特定したことをメモを通して知った。僕自身の忘却が僕と雫の過去、そして鏡花罪から僕を永遠に守ろうとしていることも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ