7 共犯関係の輪郭
僕の推理は橙馬宗一郎の死体が、鏡花が倒れた後の混乱に乗じて運び屋によって、アトリエに運ばれ密室が偽装されたというものだ。そしてその運び屋は鏡花に毒を盛った実行犯と同一人物である可能性が高い。なぜなら犯人はハーブ園の土壌を靴裏に付着させたまま、ギャラリーに戻り、毒と死体の二重の犯罪を完遂しなければならなかったからだ。
「警部補。この運び屋は鏡花さんが倒れた際、最も冷静にそしてテキパキと行動した人物です」
僕はギャラリーの隅に控える黒須茜を見た。彼女は元アイドルであり、アクセサリーデザイナー。鏡花の友人だがどこか計算高い影を持つ。彼女は鏡花が倒れた直後、救急車の手配や指示出しを、パニックの中で異常なほど冷静に行っていた。
黒須は僕の視線に気づき、神経質にブレスレットを弄るのを止めた。
「夜凪くん、なにを言っているの? 私はただ皆がパニックになる中で常識的な行動をしただけよ」
「常識的な行動ですか。しかしその冷静さは犯行が予定通りに進行していることを確認する犯人の緻密な計算にも見えます」
僕は黒須が鏡花に駆け寄ろうとした翠川紗希を制止した場面を思い出す。それは毒物による被害者の安全確保に見えたが、同時に現場に触れさせないための行動でもあった。
しかし僕が黒須を追求しようとしたその時、探偵の朝霧玲音が口を挟んだ。
「待ってください、夜凪くん。あなたの推理は美しいが少し性急だ。鏡花さんが倒れた直後、最も鏡花さんに接近し最も冷静に行動したのは主治医の白石蓮でしょう。彼は応急処置という名目で鏡花さんに触れることができた。死体を運び出すのは困難でも、毒を仕込んだハーブティーのカップを回収したり、現場の証拠を隠滅したりする機会は黒須さんよりも多くあった」
「朝霧さんの指摘も正しい。白石先生は鏡花さんへの依存が強いと見受けられる。鏡花さんの秘密を守るためという動機がある」
僕は白石を見た。相変わらず冷静な顔を保っているが、その額には微かに汗が滲んでいる。
「私には柊先生を救護する義務があった。それが私を冷静にさせた理由です。それに私には橙馬さんの死体をアトリエへ運ぶような体力も理由もない」
「体力は夜間に誰かを呼べばどうにでもなりますよ。問題は動機です。鏡花さんの秘密を守りたかった人物はあなただけではない」
僕の視線は再び鏡花への強烈な憧れを抱く翠川紗希を捉えた。彼女は鏡花の酷評者である橙馬の死を、どこか歓迎しているように見えた。
「翠川さん。あなたは鏡花さんの忘れたい過去について言及しましたよね。その過去とはなんですか? ひょっとして橙馬さんはその過去を公表しようとしていた?」
翠川は顔を真っ青にした。
「私は……なにも知らない。ただ先生が苦しんでいることだけは知っていた。橙馬先生の批判は先生の過去を芸術という言葉で汚しているように見えたから――」
彼女の証言は感情的で判断が難しい。
「夜凪。論点がずれているぞ」
金城警部補が痺れを切らしたように言った。
「運び屋が誰であれ橙馬が握っていた小さな鍵と密室トリックを解明しろ。そうでなければお前の推理はただの妄想だ」
「その通り。鍵こそがこの事件の核心です」
僕はメモ帳にスケッチされた鍵を見つめた。灰谷執事によれば、この鍵はアトリエの避難通路の備品庫の鍵と酷似している。
「橙馬さんはこの鍵を取引の証拠として、あるいは命の保険として持っていた。しかし取引は決裂し彼は殺された。そして犯人はこの鍵を秘密の経路を示す標識として橙馬の手に握らせた」
僕は灰谷に尋ねた。
「灰谷さん。橙馬さんが持っていた鍵で開く備品庫は、避難通路のほかに、もう一つ重要なものを収容していませんか?」
灰谷は深く頷いた。
「はい、アトリエの地下の避難通路の途中には記録庫がございます。そこには柊家の過去の文書や柊様が描かれた処分したはずの習作が保管されていると聞いております。その記録庫の鍵も同じ形状です」
「処分したはずの習作、柊家の過去の文書」
僕の忘却がその情報に鋭く反応する。
「橙馬さんはこの鍵を使ってその記録庫へ入ろうとした。あるいは既に侵入した後だった。そして彼は鏡花さんの忘れたい過去の決定的な証拠を発見した。それが殺された理由です」
そして橙馬がアトリエで殺された後、犯人は鏡花が倒れた混乱に乗じて、死体を運び込み密室を偽装した。
「マスターキーを使わずに密室を成立させたトリックも橙馬さんが握っていた鍵に関係しています。犯人は橙馬さんが記録庫へ入ったことを知っていた。そしてその記録庫の奥にある避難通路の構造を利用した」
「構造?」
金城警部補が尋ねる。
「アトリエの避難通路の出口はアトリエの床下にあり、そこからアトリエ内部の床板を持ち上げることで中へ入ることができます。犯人は橙馬さんを殺した後、その床板を開けて死体を運び込み床板を外から完全に閉め切れない構造を利用した」
朝霧玲音が目を見開いた。
「つまり床板を完全に閉め切らないことで、開閉の余地を残し、それをイーゼルで支えたということですか?」
「その通りです。橙馬さんの足元に倒れていたイーゼルは単なる自殺の道具ではありません。密室を偽装するためのストッパーでした。犯人は死体を吊るし床板を少しだけ開けた状態で固定しイーゼルで支える。自身が避難通路を通って脱出した後、床板が完全に閉まるよう、イーゼルを遠隔操作する仕掛けを用意した」
「遠隔操作?」
「はい。その仕掛けが橙馬さんが握っていた結晶と、鏡花さんの毒殺未遂で使われた毒に関係しています」
僕はハーブ園の砂粒と結晶の関連性を最後のピースとして提示する。
「白石先生。鏡花さんのハーブティーに盛られた毒は特定の酸性物質と反応することで発熱し透明な結晶を生み出す。そんな物質を知っていますか?」
白石は観念したように深く頭を垂れた。
「ええ……知っています。それは忘却を誘発する、ある種の特殊な研究用物質です。鏡花さんの精神状態を研究する過程で私が知ったものです」
「なるほど。鏡花さんの毒殺未遂は忘却の薬によるものだったんですね」
僕は最後の核心に迫る。
「犯人は橙馬さんを殺した後、アトリエの床板をイーゼルで固定し、避難通路を通ってギャラリーへ戻りました。そして鏡花さんのハーブティーに忘却の薬を盛った。この薬は極めて不安定で特定の振動や熱で分解する性質を持つ」
「分解?」
「そうです。犯人はイーゼルと床板を繋ぐ糸を仕掛け、その糸をハーブティーのカップに繋げた。そしてハーブティーに毒を盛る際、この忘却の結晶を混ぜた」
僕の推理の最後のピースが埋まる。
「鏡花さんがハーブティーを飲み、毒の薬が口の中で結晶と反応し発熱・分解する。その熱と分解の際の微細な振動が、糸を伝ってイーゼルを倒し床板を完全に閉め切った。橙馬さんが握っていた結晶は毒が反応し変質した残骸です。床に落ちた砂粒は犯人がハーブ園で毒を生成する際に靴裏に付着したハーブ園の土壌です」
朝霧玲音は感嘆の溜め息を吐いた。
「美しい! 毒殺未遂と密室殺人が一つの連鎖反応で繋がっていた。そして鏡花自身が毒殺未遂の共犯者だった」
僕の視線は黒須茜、白石蓮、翠川紗希を捉える。この中に鏡花と忘却という名の共犯関係を結び、死体を運び密室を完成させた運び屋がいる。
しかしこの長大な推理の末、僕の頭の中は再びノイズに包まれ始める。僕はなにを結論付けたのか急速に忘却していく。
「雫……僕は今……なにを……誰が……」
雫は僕のメモ帳を指差した。そこには僕が書き殴った、最後の言葉が記されていた。
【運び屋の動機:真の忘却。過去の共犯関係。ターゲットは橙馬ではなく鏡花の忘却を暴くこと】




