6 トリックと存在のノイズ
僕の主張「橙馬宗一郎の死は鏡花の毒殺未遂より前に起こっていた」と「犯人は橙馬がその場にいると全員に錯覚させた」という説は、この場にいる全員の認識を根底から揺さ振った。
「馬鹿な。錯覚だと? 招待客は全員、あいつが柊さんに酷評を浴びせギャラリーにいたのを見ているんだぞ!」
金城警部補は僕のメモ帳を叩き突けた。
「いいえ、警部補。あなた方が見たのは橙馬宗一郎の痕跡です。そして僕の忘却こそが、その錯覚の巧妙さを証明しています」
僕はメモ帳を拾い上げて広げた。
【橙馬宗一郎:傲慢。鏡花の過去を知っている? 鏡花を精神的に追い込んでいる。第一容疑者レベル:初期高】
「僕はこのメモを橙馬さんと鏡花さんの対立を見た後に書きました。しかし僕の記憶が数分後にリセットされると、僕は彼をその場にいる人物として再認識し続けた」
「それがどう、錯覚の証明になる?」
朝霧玲音が興味深そうに身を乗り出した。
「僕の記憶障害は直前の情報、つまり橙馬がギャラリーにいるという事実をすぐに忘れます。しかし橙馬さんが本当に物理的に不在だったなら、僕の忘却は当然橙馬さんの不在に対する疑問を抱かせ、必ず『彼はどこへ行った?』とメモに書き記すはずです」
僕はペンを握り締めて続けた。
「しかし僕のメモには橙馬さんの不在に関する言及が一切ない。これはつまり僕がメモを書く直前まで、彼の存在を感じさせる、なんらかのトリックが機能していたということです。僕の忘却が仕掛けられた存在のノイズに引っかかっていた」
「存在のノイズ?」
翠川紗希が怯えた声で尋ねる。
「はい。そしてそのノイズを最も大きく発していたのは誰か?」
僕は招待客たちを見渡す。
「それは橙馬さんに酷評を浴びせられ、最も動機があったはずの柊鏡花さん自身ですよ」
招待客たちの間に動揺が走った。鏡花は被害者であり、今現在は病院にいる。
「鏡花さんは橙馬さんの酷評に激しい動揺を見せました。しかしそれは『彼がそこにいる』という事実を、ほかの皆に強烈に印象づけるための演技だった可能性があります」
「そんな馬鹿な。女優ではないんだぞ?」
金城警部補が反論した。
「女優ですよ。この箱庭という舞台では、誰もが役割を演じている。鏡花さんは酷評を受けることで皆の意識を橙馬さんに集中させ、当然に『彼は今この場にいる』という集団的な錯覚を作り上げた」
その錯覚の裏で橙馬は既にアトリエで殺されていた。
「鏡花さんが倒れた後の混乱。それは単なる毒殺未遂のパニックではなく、犯人が殺しておいた橙馬の死体をアトリエに運び込み、密室を偽装するための完璧な舞台転換だった」
僕の推理は鏡花の毒殺未遂すら橙馬殺害のためのアリバイ工作だった可能性を示唆する。
僕の論理に金城警部補は口を挟めなかった。メモに書かれた情報が警察の捜査を凌駕していることを認めざるを得ない状況だったからだ。
「わかった、その仮説が正しいとしよう。柊さんが倒れた後の混乱に乗じて、誰が、どうやって橙馬の死体をアトリエに運び込んだ? 密室の鍵、そして橙馬が握っていたあの小さな鍵はなんなんだ?」
僕は橙馬が握っていた小さな鍵のスケッチに指を置いた。
「灰谷執事の証言によれば、この鍵はアトリエの非常時用の隠し戸か、あるいはワインセラーの鍵に似ているみたいですね。つまり橙馬さんがそれを握っていたのは、アトリエの秘密を知っていた証拠です」
朝霧玲音が静かに口を開いた。
「夜凪くん。君のメモを信じるなら橙馬は鏡花の過去を知っていた。その秘密を巡って鏡花自身と、あるいは鏡花と共犯関係にある誰かと取引のためにアトリエへ行った。そこで殺されたということかい?」
「その通りです。そして橙馬さんが握っていた小さな鍵は、アトリエの秘密の扉を開けるものではなく、アトリエの死体を運び出すための経路を示していた」
僕は推理を深める。
「この館は、広大です。橙馬さんのような大柄な男性の死体を、ギャラリーからアトリエまで運ぶには、人目につかないルートが必要です」
僕は再び灰谷に尋ねた。
「灰谷さん。この館にギャラリーとアトリエを繋ぐ、使用人用の地下通路のようなものは存在しますか? その出入り口が橙馬さんが握っていた小さな鍵で施錠されている可能性は?」
灰谷は一瞬怯えたように目を見開き深く息を吐いた。
「はい……ございます。ギャラリーの裏手にある小さな備品庫。そこからアトリエの床下に通じる使用人用の避難通路があります。その備品庫の鍵は仰る通り橙馬様が握っていた鍵とまったく同じ形状です」
招待客たちの間に、ざわめきが広がった。
「つまり橙馬さんは秘密を知る人間として、この通路の鍵を保険として持っていたか、あるいは犯人が彼を通路に呼び込み、殺害後に鍵を現場に残すことでこの隠されたルートを暗示した」
頭の中でもう一つの可能性が閃く。
「あるいはその鍵は橙馬さんが犯人に渡そうとした証拠です。橙馬さんが殺されたのは取引の決裂を意味する」
「取引?」
「ええ。鏡花さんの過去の秘密を忘れること、あるいは公表しないことの取引です。そして犯人はその秘密を絶対に守りたい人物」
僕の視線は再び、白石蓮、黒須茜、鏡花の熱心な弟子である翠川紗希を捉えた。全員が鏡花に対する強い執着、あるいは依存を抱えている。
僕の推理が皆の間に不協和音を生み出す。互いに疑心暗鬼の目を向け始めた。
「しかし鏡花さんはなぜ、自分自身を毒殺未遂に見せかける必要があったの? 運搬役だと疑われるリスクまで負ってさ」
黒須茜が疑いの目を白石に向ける。
「鏡花さんは毒殺未遂の被害者として振る舞うことで『殺人に関わっていない』という最も強力なアリバイを手に入れたんです。さらに毒によって事件直前の記憶を失うことで、本来なら知るはずの橙馬殺害の真相からも、完全に忘却した被害者として振る舞えるんですよ」
最初の事件で発見された砂粒へと戻る。
「警部補、あの砂粒はハーブ園の土壌の可能性が高い。つまり犯人はハーブ園でなんらかの作業を行った後、ギャラリーへ戻り鏡花さんのカップに毒を盛った」
僕は最も重要な矛盾点を指摘する。
「カップに毒が盛られた際、鏡花さんは『誰かが私を』と指差しました。しかしその時、ギャラリーにいる皆さんは橙馬さんが存在していると錯覚していた」
「つまり鏡花さんが指差したのは橙馬ではなかったということか?」
朝霧玲音が驚きの表情を浮かべた。
「鏡花さんが倒れる直前に橙馬さん不在に気づき、アトリエへ行ってしまった犯人の帰還を指差した。その犯人はハーブ園を経由して、ギャラリーへ戻ってきた運び屋です」
僕はもう一度、灰色の砂粒が発見された場所を思い出す。それは鏡花が倒れたテーブルのすぐ横ではなく、ギャラリーの絨毯の端、つまり入口からギャラリー中央へ向かう動線の上だった。
【砂粒はギャラリーへ入ってきた運び屋の靴の裏から落ちた。その運び屋こそが橙馬の死体をアトリエへ運び込み、密室を偽装したあと鏡花に毒を盛った真犯人である】
忘却は僕自身の推理を常にリセットするが、雫の補佐とメモの断片が、この連続的な論理を可能にした。
「警部補。この運び屋は鏡花が倒れた時に誰よりも早く、そして冷静に動いた人物である可能性が高い。なぜなら運び屋は犯行の完遂を見届けなければならなかったからです」
僕の視線は再び鏡花に最も近かった人物、そして冷静に指示を出した人物へと向けられた。犯人は今、僕の忘却によって初見の容疑者として目の前に立っている。




