5 土壌が語る不在証明
「橙馬の死が鏡花さんが倒れる前だと? 根拠はなんだ!」
金城警部補は僕の挑発的な発言に激昂した。捜査の前提を覆すような主張は現場の混乱をさらに深める。
「根拠は物的証拠と、そしてこの場にいる皆さんの忘却あるいは隠蔽です」
僕はそう言いながらギャラリーの床に視線を落とし、鏡花が倒れた場所に残る微量の灰色の砂粒を指差した。
「この砂粒は鏡花さんの毒殺未遂と橙馬さんの密室殺人を繋ぐ唯一の共通項です。そしてこれは単なる土ではありません」
僕は雫に持たせていたアトリエの絨毯の端から採取した灰色の砂粒のサンプルをギャラリーに飾られた植木鉢の一つと見比べた。
「雫。説明を頼む」
「館の庭や植木鉢に使われている土壌とは組成が異なるんだよ。これは色が薄くて水捌けが良い、軽石のような性質を持っている」
僕は金城警部補に進言した。
「警部補、この土壌は館内に通常存在しないものです。つまり犯人がどこか別の場所から持ち込んだか、あるいは館内の特定の場所にのみ存在するものです」
そのとき白石蓮が口を挟んだ。少し顔色を悪くしている。
「夜凪さん。この館の裏には柊先生が趣味で使う小さなハーブ園があります。ハーブティーの材料を育てるための。もしかしたらその土が誰かの靴の裏に付着しただけでは?」
「ハーブ園ですか――なるほど。ではハーブ園の土とこの砂粒を照合すれば出所は特定できそうですね」
一つの仮説が僕の頭の中で構築される。
【ハーブ園の土壌(砂粒)が鏡花のカップの傍に付着。この砂粒を持ち込んだ者が毒を盛った】
この砂粒が犯人が毒を盛った際の足跡だとしたら――僕はさらに核心に迫る。
「問題はこの砂粒が橙馬さんの密室殺人とどう繋がるかです」
僕は橙馬が握り締めていた透明な結晶のスケッチを見せる。
「橙馬さんがこの結晶を握っていたということは、毒の成分か、あるいは犯人の秘密に関わる鍵だということです。そしてこの結晶は砂粒の構成要素である可能性が高い」
「どういうことだ?」
金城警部補が眉を顰める。
「僕は今なにを考えているか、すぐに忘れてしまうでしょう。だから結論だけ先に言います」
僕は招待客全員の顔を見渡した。
「橙馬さんは鏡花さんが倒れる前にアトリエで殺されました。犯人は鏡花さんが倒れた後の混乱を利用して、橙馬の死体を吊り上げて密室を偽装した」
「なぜそう言える?」
朝霧玲音が挑戦的な目を僕に向けた。
「密室のトリックは犯人が橙馬さんの死体をアトリエに運び込んだ後、自ら首を括って自殺したように見せかけるため、イーゼルを倒し窓を閉め鍵をかけたというものです」
僕は説明した。
「しかしマスターキーは、今、病院へ搬送された鏡花さんの手にある。そして橙馬さんが握っていたのは別の小さな鍵でした」
僕は灰谷執事に尋ねる。
「灰谷さん。橙馬さんが持っていたような、小さな鍵で開けられる、この館の隠された扉はありませんか?」
灰谷は逡巡したあと答えた。
「アトリエには非常時用の隠し戸があります。外からは小さな鍵で施錠されています。その鍵は柊様が秘蔵のワインセラーを開けるために使われていた鍵と似ていますが――」
「なるほど。つまり橙馬さんは鏡花さんが知らない別の方法で、アトリエから脱出できる秘密の鍵を持っていたかもしれない。あるいはその鍵を手に入れるためにアトリエへ向かった」
この推理は橙馬が自らアトリエに入ったという可能性を残す。だが最も重要なのは死体の発見時刻だ。
「鍵の話は置いておきます。僕が橙馬さんの死が前だと主張する理由は、皆さんのアリバイの曖昧さにあります」
僕はギャラリーの隅に座っている黒須茜に目を向けた。
「黒須さん。あなたは鏡花さんが倒れた直後、救急車を呼ぶよう指示しました。そのとき時計を見ましたか?」
黒須は少し怯えたように答える。
「ええと……見てない。パニックだったから」
「誰も時計を見ていない。そして混乱に乗じて誰かがアトリエへ行って、死体を吊り上げるには、救急車が到着するまでの数分間しかない。これはあまりにもリスクが高い」
僕は決定的な証拠へと話を進める。
「橙馬さんは鏡花さんに酷評を浴びせた後、すぐにアトリエへ向かいました。そして彼はそこで鏡花さんへの毒殺未遂を目撃した」
「なぜ目撃したと言える?」
朝霧玲音が口を挟む。
「橙馬さんが握っていた結晶がその証拠です」
僕は再びメモに描かれた結晶のスケッチを皆に見せた。
「この結晶はおそらくハーブ園の特殊な肥料か、あるいは鏡花さんが絵画の材料に使っていたある種の鉱物顔料の成分です。そしてこれが毒物と反応する媒体だった」
僕は白石に問いかける。
「白石先生。鏡花さんのハーブティーに使われた毒物が、特定の成分と反応し透明な結晶を生み出す。そういう毒物、心当たりは?」
白石は顔面蒼白になった。僕の核心を突いた質問に答えることができない。
「……それは非常に専門的な知識が必要です。私には断定できません」
「断定する必要はありません。あなたが知っているかどうかです」
僕の記憶はこの数分間の会話をすぐに忘れるだろう。だが白石のこの動揺だけは、僕の初見の脳裏に焼き付いた。彼は鏡花に毒が盛られた瞬間の真相を知っている。
僕は最も確実な根拠を提示した。
「僕の推理が正しければ橙馬さんは鏡花さんが倒れる前に殺されています。そして犯人は鏡花さんが倒れた後の混乱の時刻を、橙馬さんの死亡時刻として偽装するために、わざとアトリエに死体を運び込んだ」
「じゃあ、犯人はいつ橙馬を殺したんだ?」
金城警部補が前のめりになる。
「鏡花さんがこのギャラリーに来る前です。つまりパーティーの開始前。橙馬さんは鏡花さんの到着前に、なんらかの理由でアトリエに呼び出されて殺された」
「不可能だ! 殺されていたなら、なぜ鏡花さんの毒殺未遂の現場に、彼の姿がなかったんだ! 誰かが彼の不在に気づくはずだ!」
朝霧が反論する。
「その不在こそが犯人を見つけるための糸口ですよ、朝霧さん」
僕はメモ帳を金城警部補に突きつけた。
【橙馬宗一郎:傲慢。鏡花の過去を知っている? 鏡花を精神的に追い込んでいる。第一容疑者レベル:初期高】
「僕がこのメモを書いたのは鏡花さんが倒れる一時間前です。僕は橙馬さんを『第一容疑者レベル:初期高』と断定して鏡花さんとの対立を記録しています」
「それがどうした!」
「もし僕の記憶が連続していたら、橙馬さんがアトリエへ消えた瞬間を失踪と記録し、皆さんに尋ねていたはずです。例えば『橙馬はどこへ行ったんですか?』とね。しかし僕のメモには彼が不在だったことに関する記録が一切ありません」
僕は全員を見渡す。
「僕の忘却は僕自身の行動の痕跡を残します。僕のメモに橙馬さんの不在が記録されていないということは、僕にとって橙馬さんはずっとそこにいたという認識があったからです」
「そんな馬鹿な!」
「いえ、可能です。橙馬さんが殺された後、犯人はアトリエからギャラリーへ戻り、そして皆さんに橙馬さんが今そこにいるという偽の記憶を植え付けた。あるいは巧妙なトリックで彼の存在感を演出した」
朝霧は僕の推理に戦慄したような表情を浮かべた。
「偽の記憶……忘却をテーマにしたこの事件で、犯人が作り出したのは、被害者の確実な存在という名の集団忘却ですか?」
僕の頭の中は次の忘却の波を前に、次のメモで埋め尽くされようとしていた。
【結論:橙馬の死はパーティー開始前。犯人は橙馬の死後、彼が存在すると全員に錯覚させた。この集団錯覚のトリックを解明することが真犯人を特定する鍵】




