4 砂の正体と探偵の証明
橙馬宗一郎の死体が発見され現場が騒然とする中、僕は再び自身の記憶に抗う戦いを強いられていた。なにを推理しようとしていたのか、その論理的な道筋が刻一刻と僕の意識から削り取られていく。
「あの砂粒と橙馬が握っていた結晶。これらがなんであるか僕は誰かに聞いたかな?」
「えーっとね、零くんは主治医の白石蓮さんに砂粒と結晶について尋ねようとしてたよ」
「なるほど。それなら先生に聞くべきだな」
僕は落ち着いた面持ちで立っている白石蓮に近づいた。彼は心療内科医であり、薬物や精神状態に詳しいはずだ。
「白石先生。鏡花さんが倒れた場所にあったこの灰色の砂粒、そして橙馬さんが握っていたこの透明な結晶。なにか心当たりはありませんか?」
僕は手の平に残っていた微量の砂粒を確認してもらい、橙馬の遺体から回収された結晶のスケッチを添えたメモを見せる。
「これは……砂粒の方はただの土のようにも見えますが結晶の方は無機物のようですね。薬物ではありません。少なくとも医療用の薬物にこのような形状のものはありませんよ」
白石の口調は平静だったが、僕の目には、なにかを隠しているように映った。これは僕の偏見なき初見の疑いである。
「果たしてそうでしょうか? 二つの事件を結びつける唯一の物質的な手がかりだとしたら? 鏡花さんが毒を盛られたハーブティーに、この砂粒か結晶、あるいはその両方が使われた可能性は?」
「ハーブティーに使われた毒物はまだ特定されていません。しかしこの砂粒や結晶が毒性を持つ物質だとは考え難い。もし毒物だとしたら、あまりに原始的です」
白石は慎重に言葉を選んだ。
「それにこの結晶が橙馬さんの手に握られていたということは、橙馬さん自身がこれを誰かから受け取ったか、あるいは現場から持ち去ろうとしたかのどちらかでしょう」
「後者だとしたらそもそも現場に立ち入る必要があったのでしょうか?」
白石は答えなかった。代わりに僕の隣で聞いていた朝霧玲音の低い声が届く。
「夜凪くん、それは白石が共犯者だったからです。共犯関係にあった人間が計画外の死を遂げた橙馬の秘密の証拠を消そうとした。そう考えるのが最もドラマチックで美しい」
「そのドラマチックな推測は、なんの証拠にもなりませんよ」
僕は皮肉を返す。
「証拠はこれから見つけ出せばいい。だが、この密室トリックと二つの事件の関連性――これらは単なる怨恨や金銭目当てではない。これは誰かの記憶を巡る哲学的な犯罪だ」
朝霧の言葉が僕の思考を刺激する。僕の忘却が彼の提示する抽象的な概念に具体的な形を与えようとする。僕は再び鏡花が倒れた場所に視線を戻してメモ帳に書き加えた。
【砂粒と結晶:原始的毒物か? 白石は否定。朝霧は共犯者の証拠隠滅説を提示。この物質は犯行そのものよりも秘密の場所を示す鍵ではないか?】
金城警部補はいよいよ招待客たちのアリバイ聴取を始めた。彼は僕の存在を疎ましく思いながらも、僕のメモ帳をたまに覗き込んでいる。僕の無意識に書かれた断片的な情報が、捜査の助けになることを期待しているのだろう。
最初に聴取を受けたのは黒須茜だった。
「柊鏡花さんが倒れた時、私はバーカウンターの傍にいました。ハーブティーのカップが置かれていたテーブルからは距離があったわ」
「柊さんが倒れた後、なにをしていた?」
金城警部補が尋ねる。
「救急車を呼ぶよう指示を出し、白石先生に水を持ってくるよう頼んだわ。その間、私はずっとそこにいた。橙馬さんがアトリエへ行ったのなんて見てないわよ」
黒須の証言は自己防衛的だが矛盾はない。
次に弟子の翠川紗希。
「私はずっと先生の絵の近くに立っていました。橙馬先生の批判が酷かったので。先生が倒れた後、私はパニックになって先生に駆け寄ろうとしたんです。ずっと皆の前にいました」
翠川の証言も目撃者たちの証言と一致する。彼女は鏡花に執着していたが、犯行の機会はなかったように見える。
そして執事の灰谷哲也。
「私は柊様が倒れられた後、白石先生の指示で水を用意し、ほかの客人を落ち着かせるために、ずっとギャラリーの隅に控えておりました。アトリエへは警察から連絡が来るまで誰も行っていません」
灰谷は常に冷静沈着で証言もほかの客人によって裏付けられた。
残りは朝霧玲音、白石蓮、そして僕だ。
「俺と夜凪くんは鏡花さんが倒れた直後、あの絵の前で美学と忘却について議論していた。君たちの目には口論に見えただろうが、あれは探偵同士の建設的な意見交換だ。そのあと俺は現場を観察し夜凪くんは秘書である七瀬さんにメモの確認をしていた。お互いにアリバイがある」
朝霧は堂々と言い放つ。
金城警部補が僕を睨む。
「夜凪。どうなんだ?」
「朝霧さんの言う通りです。僕の記憶は信用できませんが、このメモ帳が、僕の行動を記録しています」
僕は鏡花が倒れた直後のメモを見せる。そこには朝霧との会話、そして砂粒の発見が記録されている。
「ちっ、わかったよ。白石、あんたはどうだ?」
「私は鏡花さんの応急処置を優先していました。その後も救急隊が来るまで、ずっと鏡花さんの傍にいました。橙馬さんが席を外すのを見た記憶はありません」
白石は明確に答えた。鏡花が倒れた後の混乱の数分間、誰もがギャラリー内にいたと主張する。だが混乱の瞬間こそが一瞬の隙を生み出す。
「誰もがアリバイがある、しかし、誰もがアリバイを証明できない。これがクローズドサークルの醍醐味ですよ、警部補」
朝霧が皮肉を込めて肩を竦める。
聴取が終わった後、僕は再びメモを見直した。
【全員、ギャラリー内にいたと主張。特に混乱の数分間が鍵。誰もが犯行の機会を持っていた】
僕の頭の中で一つの結論が、まるで誰かの声のように響いた。
「全員が嘘を吐いている」
これは全員が殺人犯だという意味ではない。自身のアリバイを証明するために、見たものあるいは取った行動を、それぞれ都合よく忘却しているのだ。
僕の記憶障害は皆の嘘や忘却を常に初見の情報として扱わせる。言葉が論理的に破綻している瞬間を僕は逃さない。なぜなら僕は数分前の皆の表情や言葉を既に忘却しているからだ。
「雫。橙馬さんがアトリエへ行ったのは、鏡花さんが倒れた後で間違いないか?」
「金城警部補は救急車が到着するまでの混乱の中で誰かが抜け出したと考えてるみたい」
「ちょっと待て。アトリエは密室だった。そして橙馬さんは縊死していた」
僕は再びメモ帳に書きつける。
【密室トリックの再考:1、犯人がマスターキーを盗み、使用後に鏡花(病院)の元へ返却した。2、犯人がマスターキーを使わず外部から施錠した。3、橙馬の死は鏡花が倒れる前に起こっていた】
もし橙馬の死が鏡花が倒れる前に起こっていたとしたらどうなるだろう? 橙馬は鏡花への毒殺未遂の目撃者だった。あるいはその共犯者だった。鏡花が倒れる前にアトリエへ行き、なんらかの理由で殺された。
そして鏡花が倒れた後の混乱の中で、誰かがアトリエへ行き、死体を吊り上げて密室を偽装した。この方が混乱の数分間にすべてを終わらせるよりも遥かに容易だ。
この仮説こそが橙馬の握っていた小さな鍵と、床の砂粒、そして僕の忘却を繋ぐ唯一の道筋に見えた。鏡花が倒れた後に橙馬さんが死んだという前提で話しているなら、僕の視点はその前提を破壊できる。
僕は立ち上がり金城警部補に声をかけた。
「警部補。橙馬さんの死は鏡花さんが倒れる前に起こっていた可能性があります。その証拠は僕が最初に発見した、あの砂粒に隠されています」
この発言で場にいた容疑者たち全員の顔色が、一斉に変わったのを僕は見逃さなかった。彼らは僕の記憶が連続していないことを完全に侮っていたのだ。




