第二章 1 忘却の螺旋庭園
僕たちは箱庭館を後にした。
夜の闇の中、タクシーのシートに深く沈み込みながら、僕は再び頭の中の空虚と向き合っていた。僕にとって箱庭館で起こった一連の事件、翠川紗希が真犯人だったこと、そして僕自身の記憶障害の真のオリジン・ストーリーは、すべてが数分前の会話と同じく既に失われた情報だ。
ただ手に握られたA5サイズのリングノートだけが、僕の現実を繋ぎ留める唯一の証拠だった。
「零くん、今日の事件については警察からの要請で口外無用だよ。柊鏡花さんは病院で静養中。翠川さんと灰谷さんは現在も取り調べを受けているみたい」
助手席の七瀬雫が平板な声で状況を報告する。僕がなにも尋ねなくても彼女は常に、僕が世界に対して持つべき最低限の常識を定期的にインストールしてくれる。
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「ああ、ありがとう。それでこのメモ帳によると僕は一体なにを知ったんだ?」
メモ帳を捲り最終ページに書かれた結論を声に出して読む。
【事件解決。真犯人:翠川紗希。すべては鏡花の忘却を守るための狂信的な愛から生じた。そして僕の記憶障害は誘拐監禁事件のトラウマから精神を守るための防衛本能】
「誘拐監禁事件?」
その忌まわしい単語だけが、僕の意識の表層に、錆びたナイフのように引っかかる。僕と雫が関わっていた、僕の父親が加害者だった、という事実は僕のメモ帳に冷徹に、そして客観的に記録されている。
「この事件について、どう感じていたかな?」
僕自身の書いた感情のメモを雫に尋ねる。
「過去の真実を知ったとき冷めた傍観者としての役割を終えたと言っていたかな。そしてこの忘却こそが救いかもしれないとも」
「救いね」
僕は自嘲する。真実を知り、それをすぐに忘れる。それは真実を常になかったことにできる特権的な能力だ。そしてそれは僕が事件の加害者の息子としての罪悪感から永遠に逃れられる唯一の道だった。
僕の忘却は僕を事件から守る壁だった。しかしその壁が僕の自我を崩壊させている。窓の外に流れる夜の景色は僕の頭の中の景色と同じく連続性を持たない。
刹那、僕のスマートフォンが鳴った。画面には朝霧玲音の名前。
「夜凪くん、無事に帰宅できたかい? 君の忘却が再び始まる前に一つ伝えておきたいことがある」
朝霧の声は劇場が閉幕した後の静かな興奮を帯びていた。
「なんでしょう、朝霧さん? あなたの言う美学に関する新たな論文の構想ですか?」
「論文ではない。ただの事実だ。柊鏡花さんが入院している病院から、一つの奇妙な証言が上がった。その証言が君の忘却の真実に新たな切断面を与えるだろうね」
翌朝。僕たちは柊鏡花が入院する都内の総合病院へ向かっていた。金城警部補からの非公式な情報提供に基づき、僕のメモに新たな情報が加わった。
【柊鏡花(病院):意識は回復。命に別状なし。しかし毒殺未遂の直前、および橙馬殺害に関する記憶が不自然に欠落している】
「毒殺未遂の記憶がないのは、彼女が忘却の薬を使ったから当然だろう?」
僕はメモを確認する。
「そうね、だけど警察は彼女が倒れる直前に見たという謎の人物の証言に注目しているみたい」
「謎の人物?」
僕たちは病院の個室で金城警部補と対面した。彼の顔には疲労とまだ解明されていない謎に対する苛立ちが滲んでいる。
「夜凪。お前の推理で事件は解決したが、一つ奇妙なことが残っている。柊鏡花が救急隊に搬送される直前、意識が朦朧とする中で『あいつが……私を呼んでいる』と呟いていたそうだ」
僕はメモ帳に書きつける。
【鏡花:あいつが……私を呼んでいる】
「問題は彼女が誰を指差したかだ。お前は柊さんが混乱に乗じてアトリエへ行った翠川の帰還を指差したと推理したが、そのとき本人は窓の外を指差していたらしい」
「窓の外?」
「そうだ。しかもその窓は裏手のハーブ園に通じる完全に施錠された窓だった」
僕の推理は鏡花が「誰かが今ギャラリーに入ってきた」という状況を指差したという前提で成り立っていた。もし鏡花が窓の外、つまり外部を指差していたとしたら、僕の推理は根本から揺らぐ。
【鏡花の証言:倒れる直前、窓の外を指差していた。窓の外はハーブ園。運び屋(翠川)の犯行時、窓の外に第三者がいた?】
「窓は内側から完璧に施錠されていた。外部犯の侵入は不可能だ」
金城警部補は唸った。
「だが柊さんは誰かがそこにいると確信していた」
その時、僕の頭の中で昨日見たデッサンの記憶が一瞬だけ蘇る。
傷だらけの僕と雫。そしてその絵を描いた加害者側の共犯者。
「警部補。鏡花さんが指差したのは窓の外にいるはずのない人物、つまり彼女自身の忘れたい過去の象徴だった可能性があります」
「象徴? 事件にそんな詩的な解釈は通用しないぞ」
「僕にとっては通用します。僕の記憶は常に詩的な解釈しか残せない。そして鏡花さんの忘却は僕と同じで、過去のトラウマから逃れるための病理です」
僕は金城警部補に別れを告げ、雫と共に静養している鏡花の病室を訪れた。彼女は真っ白なシーツに横たわり、まるで絵画のように非現実的な美しさを保っていた。
「夜凪さん、七瀬さん。来てくださったのですね」
鏡花はか細い声で微笑んだ。
「あなたのおかげで、すべてが終わりました。私を苦しめていた過去も、ようやく忘却という名の美しさに昇華された」
「鏡花さん、あなたはすべてを翠川さんに任せたつもりでしたか? 翠川さんが橙馬さんを殺害したことも、あなたが自身に毒を盛る運び屋と共犯関係にあったことも」
鏡花は静かに首を横に振った。
「いいえ、私は忘却の薬ですべてを忘れるつもりでした。私の中に残った罪の記憶、橙馬さんへの恐怖、そして翠川さんが私のためにしてくれる行為のすべてを」
「では、あなたが倒れる直前に見た窓の外の人物は?」
鏡花は一瞬、瞳に恐怖の色を浮かべた。
「あれは……あれは呼んでいる。私をこの館へ戻れと」
「呼んでいる? 誰がですか?」
「わかりません。ただ……あれは私自身の、忘れたい……でも忘れられない部分」
彼女の証言は僕のメモ帳に新たな謎を刻みつける。鏡花の見た人物は単なる幻覚ではなかった。それは彼女の真の忘却を邪魔する野良の記憶だ。
その時、雫が病室のテーブルに置かれた一枚の絵葉書に気づいた。
「零くん、これを見て」
それは鏡花が描いた忘却の連作の絵葉書だった。裏面には万年筆で極めて達筆な文字が書きつけてあった。
『あなたの忘却はまだ私を殺せていない。次の舞台は二人の過去の庭園で。K.Y』
僕はその筆跡に強烈な既視感を覚えた。まるで数分前に見たばかりのある人物の筆跡のようだ。
「K.Y」
僕は呟いた。
「このK.Yとは誰だ? 雫、この筆跡について、なにか知っているか?」
雫はその絵葉書を握り締め目を伏せた。
「零くん、あなたはこの筆跡を今日の朝、私に渡された別のメモで見たはずよ。このK.Yはこの事件の真の脚本家かもしれない」
僕は必死に記憶を探るが、朝の記憶は既にノイズの渦の中だ。
「このK.Yが鏡花さんの兄、誘拐監禁事件の主犯の可能性は?」
雫は静かに頷いた。
「そして、零くん。あなたが今、私に尋ねたその別のメモは箱庭館の記録庫から回収された、あなたの父と柊鏡花の兄君が交わした共犯の誓約書のコピーだったんだよ」
僕の忘却は僕の過去が、まだ終わっていないことを冷酷に突きつけた。




