2 共犯の誓約書とK.Yの影
鏡花の病室を出た僕は絵葉書の裏に書かれたK.Yという署名と、それが僕の父と鏡花の兄が交わした共犯の誓約書の筆跡に似ているという雫の言葉に静かに動揺していた。
タクシーの中で僕はすぐにメモ帳を開き、雫に促されて、僕に渡したという誓約書のコピーの存在を探した。
「誓約書は今どこに?」
雫はいつものように冷静に、しかし微かに緊張した手つきで、僕のリングノートのカバー裏に挟まれていた折り畳まれたA4サイズの紙を取り出した。
「これです、零くん。金城警部補が証拠品として押収された記録庫の文書から、特にあなたと関連があるとして極秘にコピーを渡してくれたもの」
僕はその紙を開いた。そこには達筆な文字で契約書のような形式でいくつかの条項が記されている。その筆跡は鏡花の兄K.Yのもの、そして絵葉書の裏の文字と完全に一致していた。
【共犯の誓約書。筆跡:K.Y(鏡花の兄)。内容:誘拐監禁事件における記憶の共有と真相の忘却に関する取り決め】
「内容が異常だ」
僕は誓約書の条項を読み上げる。
第一条:事件の真相は柊(K.Y)および夜凪(僕の父)の二名のみが共有し第三者への開示は厳に禁じる。
第二条:事件のすべての責任は柊が負うものとする。夜凪は柊の協力者としての地位を保持し、記憶の番人として真相を秘匿する義務を負う。
第三条:柊が真相を忘却する試みを行う際、夜凪はその忘却の舞台の設営に協力し、真相を芸術として昇華させる。
「記憶の番人?」
僕は吐き気を覚えた。僕の父は加害者でありながら事件の真相を握り、それを芸術という名の忘却の舞台に仕立て上げようとしていたというのか?
「零くん。この条項は鏡花さんの忘却をテーマにした芸術活動が、彼女自身の意志だけではなく、彼女の兄とあなたの父によって仕組まれた舞台だったんじゃないかな?」
僕の脳裏に鏡花が倒れる直前に見たという窓の外の人物の証言がフラッシュバックする。
【あいつが……私を呼んでいる。窓の外はハーブ園。施錠】
「鏡花さんが見たK.Yの幻影は、この誓約書に記された忘却の舞台の設営者、つまり彼女の兄かあるいは僕の父の影だ」
僕の忘却が父の罪から切り離そうとする一方で、事件そのものは、僕を加害者の息子としての役割に引き戻そうとしている。
「このK.Yは今どこにいる? 鏡花の兄は事件後、逮捕されたはずだ」
「当時、逮捕されたのは鏡花さんの兄だね。だけど彼は服役中に病死したと記録されているんだよ。もし彼が生きているとすれば、公的な記録からの忘却を達成したことになるかもね」
僕の頭の中で一つの可能性が構築される。K.Yは死を偽装し、この忘却の舞台の裏側で、すべての脚本を書き続けている。
僕たちのタクシーは都心から離れた螺旋庭園と呼ばれる、巨大な廃墟の前に停車した。
「零くん、この場所がK.Yからの絵葉書に記された次の舞台だよ」
螺旋庭園はかつて記憶の博物館として計画されながら資金難で頓挫した廃墟だった。螺旋状に上層階へ伸びる通路が特徴的な巨大なコンクリートの塊。その通路はまるで僕の記憶の渦を象徴しているかのようだった。
「どうして、ここが次の舞台だと?」
「絵葉書の裏にはK.Yの署名の下に螺旋と時計の針の象形文字のようなものが描かれていたんだよ。そしてこの場所は二人の幼少期のトラウマが始まった監禁現場に最も近い場所にあるとGPS解析で判明しているかな」
僕の父とK.Yが僕たちを監禁していた場所。その忌まわしい記憶の入り口に僕たちは立たされている。
廃墟の中はコンクリートと鉄骨が剥き出しの薄暗い空間だった。螺旋状の通路を上がっていくと、その空間には、数枚の柊鏡花の新作がまるで展示品のように飾られていた。
「これは鏡花さんが病院へ搬送される前に描いたものか?」
キャンバスに描かれているのは忘却の連作・最終断片。そこには鎖に繋がれた二人の子供と、その子供たちを冷たい目で見下ろす誰かの姿が抽象的に描かれていた。鎖に繋がれた子供は紛れもなく僕と雫の姿だ。
【鏡花の新作:鎖に繋がれた子供たち(僕と雫)。それを冷たく見下ろす人物。鏡花は忘却の裏で過去の真実を記録していた】
そしてその絵画の横に一枚の付箋が貼られていた。その筆跡はまたしてもK.Yのものだ。
僕は付箋に書かれたメッセージを読み上げる。
「忘却探偵、夜凪零へ。君の父は真実を完全に忘れることはできなかった。彼の記憶の番人としての罪を君が継ぐことになる。次の真実の切断面は共犯の証拠が眠る場所で」
メッセージの下には一枚の写真が貼り付けられていた。
それは僕の父がどこかの研究室のような場所で、白いガウンを着て忘却の薬の入ったフラスコを覗き込んでいる写真だった。彼の表情は狂気と熱意が入り混じった科学者のそれだった。
「僕の父は……忘却の薬の研究者だったということか?」
雫は静かに頷いた。
「誓約書に記された忘却の舞台の設営。それは単なる芸術の演出ではなく、薬物を使った記憶の操作だった可能性があるみたい」
なるほど、僕自身の記憶障害。
「僕の記憶障害は父が作った忘却の薬の副作用か、あるいは父による実験だった可能性がある」
僕の忘却は病気やトラウマによるものではなく、人為的な操作によるものだった。僕の人生は父とK.Yによって仕組まれた、巨大な忘却の実験台だったのかもしれない。
僕はその事実に怒りよりも虚無感を覚えた。僕の自我は誰かの作品だったのだ。
「僕のメモにK.Yからの招待状への返答は?」
雫は僕の顔を見上げた。
「あなたはメモにこう記しているかな。そのまま伝えると『僕は父の記憶の番人としての罪を継がない。僕は僕自身の忘却を探偵する。そして次の切断面へ向かう』かな」
僕の忘却が僕を突き動かす。父の罪を暴くためではない。僕自身の忘却の真相を突き止めるためだ。
螺旋通路のさらに上層から、誰かの足音が聞こえた。この廃墟に僕たちを呼び寄せたK.Yの影かもしれない。あるいは僕の忘却を巡る新たな事件の加害者か?
僕はペンを握り締め、螺旋状の通路を、雫と共に登っていく。僕の頭の中は今見たばかりの父の写真と、誓約書の内容を急速に忘却し始めていた。




