3 螺旋の上の訪問者
僕たちは螺旋庭園の通路をさらに上った。
コンクリート剥き出しの壁に反響する足音は僕たちのものだけではない。上階から聞こえるそれは、僕たちをこの廃墟へと誘い込んだ、K.Yの影かあるいは彼の指令を受けた新たな共犯者のものだろう。
僕はメモ帳を握り締め雫に囁く。
「僕の記憶がリセットされる前に、螺旋庭園という舞台の役割を教えてくれ」
「ここはあなたの父とK.Yが、あなたと私を含む子供たちを監禁した場所に近く、忘却の薬の研究を行っていた可能性のある、記憶の実験場の廃墟です。K.Yはここであなたの父が残した共犯の証拠をあなたに見せようとしています」
僕の父が加害者であり忘却の薬の研究者。そして僕の記憶障害は、その実験の結果かもしれない。僕の自我は誰かの作品だったという虚無感が僕を襲う。
螺旋の通路が最上階近くで、小さな広場のような空間へと開けた。そこに立っていたのはK.Yではなかった。
白いタキシードに身を包んだ派手な私立探偵――朝霧玲音だ。手すりに凭れかかり僕たちを見下ろし、まるでこの劇場の観客のように微笑んでいた。
「やあ、忘却探偵。やはり君は来たね。この螺旋庭園は君の忘却という名の無限の後退を見事に具現化した舞台だ」
「朝霧さん、なぜここに? あなたもK.Yに誘われたんですか?」
「誘われたというより、観察者として招かれた。彼は君の忘却が僕の美学にどういう影響を与えるか興味があるようだ」
朝霧は僕のメモ帳を一瞥し鼻で笑った。
「君のメモはもう共犯の誓約書と父の薬物研究という衝撃的な情報で一杯だろう。しかし君はそれをすぐに忘れる。君の推理は常にゼロからの開始という美しさを保てるが、それは同時に君が真実に辿り着くことを永遠に妨げる呪いだ」
「僕の呪いか。しかし僕の呪いがなければ、あなたのような美学に囚われた探偵は、この事件の本質を見誤る」
「本質? この事件の本質は記憶と記録の対立だ。君のメモが真実を記録し続ける限り、君の忘却はただの演出に過ぎない」
その時、朝霧は手元のスマートフォンを僕たちに向けた。画面には僕の父の写真と誓約書のコピーが映し出されている。
「K.Yから送られてきた。彼は君の忘却が君の父によって仕組まれたものだと確信している。そしてその証拠はこの螺旋庭園の心臓部にある」
「心臓部?」
「この廃墟の最上階には、かつて博物館のメインサーバー室となる予定だった部屋がある。K.Yのメッセージによれば、そこに君の父が残した忘却の薬の製造データと、事件のすべての真相が記録された秘密のファイルが隠されている」
僕の忘却は僕の父が僕に施した実験だった。その事実に僕の胸は締め付けられるような痛みを感じた。
僕は朝霧の情報を素早くメモ帳に書きつける。
【K.Yからの情報:螺旋庭園最上階サーバー室に父の忘却の薬のデータと秘密のファイルあり】
その瞬間、僕の記憶が再びノイズに包まれた。
「ん? 僕は誰と話しているんだ?」
僕は目の前にいる朝霧玲音と雫を、まるで初見の容疑者のように見つめた。僕の記憶では彼は白いタキシードのいかにも胡散臭い男に再構成された。
「あなたは誰です? そして僕はなぜこんな廃墟にいる?」
雫は僕にメモ帳を差し出す。
「零くん、彼は私立探偵の朝霧玲音さん。あなたはあなたの父が関わった過去の事件の真相を探るため、この螺旋庭園に来ているんだよ。サーバー室にすべての証拠が隠されているみたい」
僕はメモを読み状況を再認識する。
「探偵さん。あなたもこの忘却の薬とやらに興味があるんですか?」
「当然だ。君の忘却は探偵という職業の根底を揺るがす。記憶こそが僕たちの武器だからだ。君の忘却が病理ではなく科学の産物だとしたら、それは最高の悪意の芸術だ」
朝霧は愉悦を隠さない。
「その悪意の芸術を完成させたのは僕の父だというんですか?」
「ああ。そしてK.Yは、その芸術の観客だ。彼らは君を忘却探偵という名の作品に仕立て上げた」
僕の頭の中でK.Yと僕の父の共犯の誓約が具体的な形を帯び始める。彼らは僕の記憶を操作することで僕を「真実を知ることができない探偵」として完成させた。
「雫。僕の父とK.Yは、なぜ僕にこんなことをした?」
「誓約書によれば、あなたの父は事件の真相を記録する役割を、そしてK.Yは、その真相を忘却させる役割を担っていました。彼らは過去の罪を君という生きた記録に残すことで永遠に逃れようとした」
僕の存在そのものが彼らの罪のアーカイブだった。
僕たちは朝霧を伴い、最上階のサーバー室へと続く最後の通路を進んだ。通路の壁にはスプレーで乱雑に描かれた「忘れるな」というメッセージと「K.Y」の署名が残されている。
サーバー室の扉は頑丈な金属製だった。当然、施錠されている。
「鍵は?」
「鍵は君の忘却の中にある。K.Yは君にこの事件を解くというより、思い出すことを要求しているのかもしれない」
僕のメモ帳に新たな情報が加わる。
【サーバー室の鍵:僕の忘却の中にある】
「ま、曖昧な指示か?」
僕は苛立ちを覚えた。
「僕の忘却の中に鍵があるとはどういう意味だ?」
雫が僕のメモ帳の前のページの情報を指差した。
【橙馬が握っていた小さな鍵:記録庫の鍵と酷似】
「零くん、橙馬さんが握っていた小さな鍵。あれはアトリエの避難通路の備品庫の鍵だった。その鍵の形状がこのサーバー室の鍵と酷似していると金城警部補が私に伝えてくれたんだよ」
「備品庫の鍵」
僕の父はこの廃墟の設計者の一人でもあった。研究室であるサーバー室と監禁現場に近いアトリエの備品庫の鍵を意図的に同じ形状にした可能性がある。
「橙馬さんはこのサーバー室の存在に気づき、アトリエの避難通路の鍵を『この秘密の場所への目印』として握っていたのかもしれない」
しかし僕たちはその鍵を持っていない。
朝霧が静かに懐から一つの鍵を取り出した。それは僕のメモに描かれた小さな鍵と全く同じ形状をしていた。
「K.Yからの贈り物だ。君の推理が僕の美学を満たした褒美として託された」
朝霧は鍵を弄びながら言った。
僕はその鍵を受け取り、サーバー室の扉に差し込む。鍵は抵抗なく錠を回した。
扉が開くと薄暗いサーバー室の空間が広がった。中央には電源の落ちた巨大なサーバーラックが並び、その奥に一台の古いパソコンが置かれていた。
そのパソコンの横には一枚の付箋。再びK.Yの筆跡だ。
『パスワードは君が最も「忘れたい」一言』
僕はパソコンの起動画面を見つめた。僕が最も「忘れたい」一言。それは僕が「加害者の息子」であるという忌まわしい事実か? それとも僕の忘却が「人為的な実験」の結果であるという絶望か?
僕の頭の中は今見たばかりの朝霧の鍵と、K.Yのメッセージを急速に忘却し始めていた。僕の意識が次の切断面へと引きずり込まれる。




