4 忘れたい一言のパスワード
僕は目の前の古いパソコンの起動画面を見つめていた。画面はパスワード入力を求めている。
【パスワードは君が最も「忘れたい」一言】
僕はこのメッセージを見たこと、朝霧から鍵を受け取ったこと、そしてこの廃墟に来た理由のすべてを、今、急速に忘却している。
「このパスワードとは一体なんなんだ?」
いつものようにメモ帳を読み返しながら状況を理解しようと努める。
【K.Yからのメッセージ:パスワードは僕が最も「忘れたい」一言。父の罪あるいは僕の記憶障害の原因】
「零くん、このパスワードをあなたのお父さんがあなたに施した忘却の実験に関わる罪の言葉だと推測していたよ」
僕が最も忘れたいこと。それは僕の父が加害者であり、僕の記憶障害がその実験の産物であるという自己の存在の否定に繋がる真実だ。
「僕の父はこのパスワードに僕自身を否定する言葉を仕込んだのか?」
僕は指をキーボードに置いた。考えられる言葉はいくつかある。
共犯:父とK.Yが交わした誓約書の核心。
実験:僕の記憶障害の真の原因。
息子:加害者の血を引く者としての僕自身。
僕は最初の言葉を試しに入力した。
共犯。
画面には「パスワードが違います」と表示された。
次に僕は僕自身の存在を規定する言葉を入力しようとした。その時、朝霧玲音が口を開いた。
「夜凪くん、君の忘却は君自身を守るための防衛本能だ。君の脳が最も排除したがる言葉、それは君が探偵であることを否定する言葉ではないかな?」
「僕が探偵であることを否定する言葉?」
「そうだ。真実を探求する君にとって、最も忘れたいこと、それは真実を永遠に知ることはできないという、君の存在そのものの矛盾だ」
朝霧の言葉は僕の心を鋭く突き刺す。僕の探偵としての存在を否定する忘却という名の呪い。
僕はその言葉を打ち込んだ。
忘却。
画面には再び「パスワードが違います」と表示された。
「違う。もっと個人的な僕の自我の切断面に深く食い込んでいる言葉だ」
僕はデッサンの中の傷だらけの僕と雫の姿を思い出す。あの時の僕たちを父とK.Yは実験台と呼んでいたのか?
僕は最後の最も絶望的な言葉を打ち込んだ。
作品。
エンターキーを押す。
画面は一瞬暗転し、そして、フォルダの画面へと切り替わった。
「通った」
僕の父は僕の人生全体を悪意の芸術、すなわち作品として捉えていたのだ。
サーバー室の古いパソコンには僕の父が残したと思われる、いくつかの暗号化されたファイルが保存されていた。
ファイル名には「Project V.D.(Project Vanitas Dementia:虚栄の忘却)」というコードネームがつけられている。
僕は最も古い日付のファイルをダブルクリックした。それは僕の父が研究ノートとして残した音声記録だった。
スピーカーから流れてきたのは、僕が知るはずのない父の声だった。
「K.Yの実験は成功している。我々の最終目標は罪の記憶を脳から完全に切り離すことだ。そのプロトタイプとして、私の息子『零』にV.D.プロトコルを適用した。零は短期間の記憶を維持できない。これは過去の罪が自我に侵入するのを防ぐための完璧なバリアだ。零は永遠に『今』だけを生きる」
「零くん」
雫が僕の腕を握った。その声は震えている。
「父は僕の記憶障害を僕自身を守るための完璧なバリアだと呼んだのか?」
僕は怒りよりも冷たい諦めを感じていた。
「しかし零の記憶は我々の予想以上に強靭だ。記録という形で自身の忘却に抗っている。雫がその記憶の番人の役割を果たしている。彼女の存在は我々の『完璧な忘却』の計画における予期せぬノイズだ」
僕の父は雫の存在をもノイズとして捉えていた。そして僕がメモを取る行為そのものが、父とK.Yの忘却の舞台に対する僕自身の反抗だった。
その時、朝霧玲音がサーバーラックの裏から一つの金属製の小さな箱を見つけ出した。
「夜凪くん、これが君の父が最後に隠したかった共犯の証拠でしょう」
金属製の箱は僕の父の指紋認証でしか開かない仕組みになっていた。もちろん、僕たちは開けられない。
「雫。この箱を開けるには、どうすればいい?」
「あなたの父が残したファイルの中に解除コードがあるんじゃないかな? あなたの父は研究に美学を見出していた。解除コードもなんらかの詩的な解釈が込められているはずだよ」
僕は再びパソコンの画面を操作し残りのファイルを探した。見つけたのは一枚の画像ファイルだ。
それは僕の父が白い花を摘み、それをどこかの土に埋めている写真だった。その土の色は事件現場で発見された、ハーブ園の砂粒と酷似している。
その写真のキャプションに一つの数字が添えられていた。
「0308」
「これは……日付か?」
「違うよ、これはあなたの記憶障害が始まったあの日、零くんの年齢を意味しているんだよ」
「僕が記憶障害を発症した時、僕は3歳。そして雫は8歳だった」
その数字が僕と雫の記憶の切断面を示していると直感した。
「この数字が箱を開ける鍵だ。雫、その数字を試そう」
僕は朝霧から箱を受け取り、テンキーに0308と打ち込んだ。
カチッという音と共に、箱のロックが解除された。
箱の中に入っていたのは、一本の注射器と、小さなUSBメモリだった。注射器には透明な液体が残っている。
「これが忘却の薬……?」
「そしてこのUSBメモリこそが、僕の父が最後に残した事件の真相の記録だ」
僕はUSBメモリをパソコンに接続した。画面には「Final_Truth.log」というファイルが表示される。
それを開くと僕の父の最後の音声記録が再生された。
「私はK.Yの狂気に耐えられなくなった。彼は忘却の薬を芸術ではなく支配の道具にしようとしている。螺旋庭園で新たな忘却の実験を始めようとしている。そして彼の次のターゲットは――」
父の声はそこで途切れた。僕の記憶が再びノイズに包まれた。
「……あれ? 僕はなにを聞いていた?」
僕は僕の父が僕の記憶障害の原因でありながら、K.Yから僕たちを守ろうとしていた、という矛盾した事実を、今、完全に忘却した。
ただ目の前のパソコン画面に残された僕の父の最後の言葉が僕の忘却探偵としての新たな使命を示していた。
『彼の次のターゲットは……』




