5 標的の定義と鏡の回路
僕の頭の中は今聞いたばかりの父の最後の音声記録の内容を急速に失いつつあった。僕の父が忘却の薬の開発者でありながら、K.Yの狂気に気づき、僕たちを守ろうとしていたという、その矛盾した救いさえ僕の記憶から消えていく。
「雫、僕の父の最後の言葉は?」
僕はパソコンの画面に残されたログファイルの表示を見つめる。そこには僕が今聞いたばかりの音声記録のテキストログが表示されていた。
【父の最後の言葉:彼の次のターゲットは……】
「零くん、あなたはこのターゲットがK.Yの次の忘却の実験台だと推測した。そしてそのターゲットはK.Yが最も忘却を必要としている人物、またはK.Yの支配の道具となる人物かな」
僕は改めてこの廃墟に飾られていた、柊鏡花の新作のデッサンを思い出す。鎖に繋がれた僕と雫の姿を描いた、あの抽象的な絵。
「K.Yは鏡花さんの忘却を、まだ完全に支配できていない。彼女は毒殺未遂の偽装という形で、自身の意志で忘れることを選んだが、その根底には忘れられない過去の恐怖があった」
朝霧玲音がサーバー室の隅に落ちていた、一枚の古い設計図を拾い上げた。
「夜凪くん、ターゲットは人とは限らない。K.Yは君の父の技術を継承し、この螺旋庭園で完璧な忘却を完成させようとしている。彼のターゲットは『君の父の残した、すべての記憶』かもしれない」
設計図にはこの螺旋庭園の構造図と共に、ミラー・サーキットというコードネームが書き込まれていた。
「ミラー・サーキット?」
「そうだ。この螺旋庭園全体を巨大な記憶の増幅装置として機能させるための設計図だ。K.Yはこのサーバー室のデータと、彼の持つ忘却の薬を使って、広範囲の人間に特定の記憶を植え付け、あるいは消去しようとしている」
朝霧はその設計図の「悪意の芸術性」に歓喜を滲ませる。僕の頭の中で鏡花の証言がフラッシュバックした。
【あいつが……私を呼んでいる。窓の外はハーブ園。施錠】
「鏡花さんが見た『窓の外の人物』は、K.Yがこのミラー・サーキットを使って、鏡花さんの忘れようとする意志に干渉し、記憶の植え付けを試みた結果かもしれない」
僕たちは設計図を頼りにサーバー室の奥へ進む。そこには螺旋通路の壁全体に繋がっているかのような、複雑な配線と複数の液体充填タンクが隠されていた。
「このタンクに僕の父が開発した忘却の薬の改良版が満たされている」
僕は直感した。そしてタンクの上部には小さな噴霧ノズルが取り付けられている。
「K.Yはこのミラー・サーキットを使って、広範囲に薬を散布するつもりだ。広範囲の人間から特定の記憶を消去しようとしている」
僕は父の残したログファイルの中の、最も新しい日付のファイルを開いた。それはK.Yが残したと思われる手書きのメモの写真だった。
メモには、ただ一言、こう書かれていた。
『彼の顔を誰も思い出せないように』
「彼?」
「K.Yが最も忘却させたい人物。それはこの誘拐監禁事件の主犯、つまりK.Y自身の顔だ」
僕は吐き気を覚えた。
K.Yは公的には病死したことになっている。しかし彼は死を偽装し、この忘却の薬を使って、世間から自身の存在を完全に消し去ろうとしていた。そして鏡花の毒殺未遂も橙馬の殺人事件も、その忘却の準備段階に過ぎなかった。
僕の父はこの計画に気づき、僕たちを守るために最後の抵抗を試みた。それが注射器に残された忘却の薬とUSBメモリの記録だ。
「雫、僕の父が残した注射器。あれはなんのために?」
雫は静かに金属製の箱の中から注射器を取り出した。
「あなたはこの注射器にK.Yの忘却の薬を中和する成分が入っていると推測していた。そしてK.Yがこの回路を作動させる前に誰かに注射するつもりだった」
「誰に? K.Yの次のターゲットか?」
「いいえ、あなたは『この注射器は僕自身に使うべきだ』とメモに書き残していたよ」
僕の忘却が僕自身を中和剤として使おうとしていたという事実に戦慄した。
その時、サーバー室の金属製の扉が「カシャン」という音と共に内側から施錠された。
そして螺旋通路の最上階から一人の男が姿を現した。長身で痩身、顔は深いフードに隠され、その手にはリモコンのような装置が握られている。
「よく来た、夜凪零。そして君の『予期せぬノイズ』七瀬雫」
男の声はどこか歪んだ高揚感を帯びていた。
「K.Y?」
「そうだ。私は忘却を完成させるためにこの舞台を設営した。君の父の失敗作である君の忘却ではなく完璧な忘却を」
K.Yは僕の父が残した注射器とUSBメモリを一瞥し嘲笑した。
「君の父は最後まで『記憶の番人』としての役割を捨てられなかった。彼は自身の罪を記録し君の記憶を操作することで、罪の記憶を僕から遠ざけようとした」
K.Yはリモコンのスイッチに指をかけた。
「しかし、もう遅い。このミラー・サーキットが作動すれば、世間は私の顔を完全に忘れ、私は忘却という名の自由を手に入れる」
僕はK.Yの姿を見つめる。フードの奥の彼の顔は僕の父にどこか似ているような不気味な既視感を与えた。
「なるほど。あなたのターゲットは、あなたの顔を覚えている僕自身だ」
K.Yは僕の言葉を聞き静かに笑った。
「その通りだ、忘却探偵。君は僕が仕組んだ唯一の失敗作だ。君のメモ帳と記憶の番人である雫の存在が完璧な忘却を邪魔している」
「僕があなたの記憶の番人だというのか?」
「ああ。だから君には最も忘れたい真実をもう一つ教えてあげよう」
K.Yはフードをゆっくりと下ろした。その顔は僕がデッサンで見た、幼い頃の自分自身の面影を強く残していた。そしてその顔は鏡花の兄K.Yの顔ではなく、僕自身の顔と双子のように瓜二つだった。
「夜凪零、君の父の最後のターゲットは記憶の番人である七瀬雫だ。そして君は僕たちの計画の最終兵器として、彼女の記憶を消去するために作られた」
僕の頭の中ですべての情報が螺旋状の崩壊を始めた。僕とK.Yの顔が似ている。雫がターゲット。父の最後の言葉。
「雫は僕の記憶の番人? そして僕は彼女の記憶の消去装置だと?」
僕の意識は僕の存在そのものの真の切断面の前で最も激しい忘却の波に襲われた。僕の目の前のK.Yの顔、雫の顔、そして僕自身の顔がすべて鏡の回路のように反転し始めた。




