2 忘却のデザインと鍵の場所
僕たちは依頼人である藤沢琴音の娘、藤沢咲が描いた螺旋模様の絵を、僕たちの隠れ家である「記録の要塞」に持ち帰った。
ホワイトボードには、この絵がK.Yによる忘却の薬の新たな適用を示しているという、僕の推理が書き加えられている。
「零くん、この絵を分析してみたよ」
雫がタブレットの画面を僕に見せる。
「この螺旋の模様は、この事件の初期段階で鏡花さんが描いていたものと論理的構造が酷似してる。これはK.Yが忘却のデザインを再利用していることを示してるんじゃないかな」
「忘却のデザイン」
僕の父とK.Yは記憶を消去する際、脳に特定のパターンを植え付けることで、記憶の空白を芸術的なデザインとして成立させようとしていた。藤沢咲の記憶もまた、K.Yによって塗り絵されている。
「藤沢咲が『記憶が他人の物語のように感じられる』と言っていた事実は?」
「間違いないよ。K.Yが咲さんの個人を特定する記憶を消去した後に、一般的な記憶のテンプレートを上書きしたことを示唆してるね。彼は咲さんの自我を奪い、支配下にある存在として作り変えようとしている」
僕の記憶障害も僕の罪深い自我を消去し、無垢な人格を上書きする、一種のデザインだった。
その時、朝霧玲音が咲の描いた絵の隅に極めて微細な文字の痕跡が残されていることを指摘した。
「忘却探偵。君の兄は常に遊び心を忘れない。これは彼からのヒントだ」
拡大されたタブレットの画面には、鉛筆の線の下に、ほとんど読めないほどの小さな文字がS.T.と書かれていた。
「S.T.……これは一体なにを意味する?」
僕の記憶はこの二文字を初見として処理するが、僕の探偵の意志は、それが特定の場所を示すコードだと直感した。
【S.T.:場所のコード。K.Yが咲を監禁している、次の忘却の舞台を示す】
「僕の過去の記録からS.T.というコードに関係する場所はないか?」
雫はすぐに僕の父が残した研究ログの暗号化された文書を参照する。
「あった、零くん。あなたの父のログに『S.T.プロトコル』という記述がある。これは記憶の被験体を隔離し、薬物投与を行うための専用の隠し部屋を示すコードだよ」
そのS.T.プロトコルが適用される場所は、かつて僕と雫が誘拐監禁事件の被害者として閉じ込められていた地下室だと判明する。
「K.Yは僕たちの最も忌まわしい過去の場所で新たな実験を始めている」
僕たちは朝霧を伴い、藤沢咲が監禁されている可能性のある、古い別荘の地下室へと向かった。その別荘は僕の父が所有していたものであり、僕と雫が誘拐監禁事件で閉じ込められていた場所だ。
車中で僕は再び自身の記憶の脆弱さと向き合う。
「僕がこの地下室へ行くのは、二度目、いや三度目になるのか? しかし僕にとっては常に初めての場所だ」
「零くん、あなたはあの場所を僕の記憶のオリジンと呼んでいた。あなたの記憶障害が始まった場所だよ。しかし自我の起源も、あの場所にあるのかな。ここで記録という手段を見つけたからね」
僕の忘却は僕の父と兄の罪から逃れるためのものだったが、僕がメモを取るという行為は、その罪に抗うための僕自身の探偵の証明だった。
別荘は閑静な林の中にひっそりと佇んでいた。地下室への入り口は、裏庭の隅に隠された、錆びついた鉄製のハッチだ。朝霧がハッチを特殊な工具で開ける。
地下へ降りる階段は湿った土とカビの匂いが充満していた。僕の頭の中で「この匂いを僕は知っている」という、忘却を突き破る一瞬の錯覚が起こる。
地下室の広間は以前、僕たちが監禁されていた小部屋がいくつか並ぶ構造になっていた。
「K.Yは藤沢咲を、このどこかの小部屋に閉じ込めている」
僕はメモを確認する。その広間の中央に一つの台座が置かれていた。台座の上にはアンティークな鍵と一枚の付箋。
付箋にはK.Yの筆跡で、こう書かれていた。
『忘却探偵へ。君の忘却が彼女の記憶を救う。鍵は君が最も忘れたい場所にある』
「鍵……また抽象的なヒントかよ」
僕は台座に置かれた鍵を手に取る。かつて僕たちが監禁されていた小部屋の鍵と酷似していた。朝霧が僕のメモ帳を覗き込む。
「夜凪くん、K.Yは君の忘却を利用している。君が最も忘れたい場所とは、君の罪の記憶のオリジンなんだろう?」
僕が最も忘れたい場所。それは僕自身が「夜凪零」というコピーとして作られたという自己否定の場所だ。
「雫。僕のメモによると僕の自我が切り離され、忘却探偵として再構築された小部屋はどれだ?」
「広間から見て一番奥にある、壁に螺旋模様が掘られた小部屋だよ。あなたが最も夜凪零であることを否定したくなる場所」
僕はその小部屋に向かって歩き出した。鍵を手に扉を開こうとした瞬間。隣の小部屋から微かな女性のすすり泣きが聞こえた。
「藤沢咲さんだ!」
僕たちは泣き声の聞こえる小部屋の扉を叩いた。しかし扉は固く閉ざされている。
「K.Yは僕に最も忘れたい場所の鍵を渡すことで僕の探偵の意志を試している。僕が忘却の源である小部屋を開け、過去の記録を再確認するよう誘導している」
僕は記憶の番人である雫に尋ねた。
「僕の探偵の意志は、なにを優先するんだ?」
「あなたは『事件の解決よりも、まず被害者の救出』を優先するとメモに記しているね。あなたが開けるべき扉は藤沢咲さんがいる扉だよ」
だが僕の手に握られている鍵は、隣の忘却の源の小部屋の鍵だ。朝霧が僕の手に握られた鍵をじっと見つめる。
「待て、忘却探偵。その鍵は藤沢咲のいる小部屋の鍵だ。ただし一つの仕掛けがある」
「仕掛け?」
「K.Yは君の忘却という名の矛盾を利用した。君が最も忘れたい場所とは、君の探偵としての存在を証明した場所でもある。君の記憶の番人である雫と共に、君が記録という、反抗手段を見つけた場所だ」
朝霧は僕のメモ帳を指差した。
【僕の自我はこの地下室で、忘却に抗うための記録を見つけた】
「君がこの鍵を忘却の源の小部屋の鍵だと認識したその瞬間、君は無意識に記憶の切断面を意識した。K.Yはその意識の反転をトリガーとした」
僕は朝霧の言葉を理解した。この鍵は僕が忘却を意識することで、物理的な仕掛けが作動し、鍵穴の形状が「藤沢咲の小部屋の鍵」へと変形するように設計されていたのだ。
僕は改めて鍵を見つめる。
ガチャリ。
僕が忘却を強く意識した瞬間、鍵の先端の形状が微かに反転した。
藤沢咲のいる小部屋の鍵穴に鍵を差し込む。鍵はスムーズに回った。
扉が開く。そこには藤沢咲が怯えた様子で座り込んでいた。彼女の瞳はまるでなにも映していないかのように虚ろだった。
「藤沢咲さん、大丈夫ですか? 僕たちはあなたを救いに来ました」
しかし咲は僕たちを一瞥し静かに笑った。
「あなたは誰? 私の名前は忘却のデザイン。私はもう『藤沢咲』ではありません」
彼女の言葉はK.Yの「忘却のデザイン」が、既に『自我のレベル』で成功していることを示していた。僕たちは藤沢咲という名の空っぽの器を救出したのだ。




