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3 空っぽの器と記憶の回路

 僕たちが救出した藤沢咲は生身の人間でありながら、まるで魂が抜けたかのような空っぽの器だった。彼女は僕たちを見た瞬間、忘却のデザインだと名乗り、自身を藤沢咲という個人として認識していなかった。


【K.Yは藤沢咲の自我を完全に消去し、忘却のデザインという概念を上書きした】


 僕はメモ帳に書きつける。朝霧玲音は咲の虚ろな瞳を覗き込み眉をひそめた。


「これは君の父の実験の最終形態だ。記憶の消去ではなく人格の再定義。彼女はもはや藤沢咲という個人ではなく、K.Yの忘却という芸術の担い手になってしまった」


 僕の記憶障害も僕の罪深い自我を消去し、忘却探偵という役割を上書きされた結果だとすれば、僕もまたK.Yの作品だった。


「藤沢咲の記憶を元に戻す方法はあるのか? 僕の父のログに記憶のバックアップに関する記述は?」


「あなたの父はV.D.プロトコルにおいて、記憶のバックアップは不可能と結論づけてるね。薬物は長期記憶の結合そのものを破壊する。元に戻す方法は理論上存在しない」


 しかし僕の視線は咲が監禁されていた部屋の壁に、無意識に残された一つの痕跡に引きつけられた。


 それは彼女が鉛筆かなにかで引っ掻いたと思われる極めて小さな絵だった。そこには螺旋模様ではなく、小さなカメの絵が描かれている。


【藤沢咲の壁の痕跡:カメの絵。彼女の忘れたくない記憶の断片】


「カメ……これは藤沢咲の個人的な記憶に関わるものだ。K.Yが消し切れなかった、記憶の残骸かもしれない」


 僕は雫に依頼人である藤沢琴音に連絡を取り、カメに関する情報を尋ねるよう指示した。


 僕たちは藤沢咲を連れて、地下室から別荘の地上階へ戻った。咲は僕たちの言葉に一切反応せず、ただ虚ろに螺旋階段を見つめている。


 雫が母親の琴音からの情報を伝えてきた。


「藤沢咲さんが幼い頃、家族で飼っていたカメがいたみたい。そのカメは記憶力の良さを象徴するものとして、咲さんが非常に大切にしていたそうだよ。名前はメモリア」


 記憶。


「K.Yは藤沢咲の自我を破壊したが、彼女の記憶を守りたいという、最も根源的な願いメモリアの象徴を消し切れなかった」


 僕は咲が描いたカメの絵をメモ帳にスケッチした。その絵の下にK.Yの筆跡で隠されたメッセージが書き加えられていた。


「ミラー・サーキットの真の始動キーは記憶の欠片が示す場所」


【K.Yのメッセージ:ミラー・サーキットが、まだ完全に作動していない。真の始動キーはメモリアが示す場所にある】


 ミラー・サーキットは僕がケーブルを切断したことで停止したはずだ。しかしK.Yは手動の始動キーを、この別荘のどこかに隠している。


「この別荘にはミラー・サーキットを制御するための予備の制御盤が隠されているはずだ。そしてその場所を藤沢咲のメモリアが示している」


 僕は咲が監禁されていた地下室の小部屋の構造図を思い出した。そしてカメの習性。


「カメは『土の中』や『水の中』に身を隠す。記憶の番人の象徴が示している場所は……」


 別荘の地上階の最も古く、重厚な家具に目を向けた。リビングルームの中央に置かれた、巨大なアンティークの木製チェストだ。


「このチェストの引き出しの奥に制御盤が隠されている」


 僕がチェストに近づこうとした瞬間。別荘の玄関から激しい足音が聞こえた。


 現れたのは金城警部補とその部下たちだった。


「夜凪! なにをしている! お前たちが違法に立ち入っていることは承知しているぞ」


 金城警部補は僕たちを見るなり怒鳴った。


「警部補。僕は藤沢咲さんを救出しました。そしてK.Yの忘却の薬のさらなる拡散を防ぐための制御盤を探しています」


「K.Yはまだ捕まっていない! お前たちの行動はすべて非公式だ!」


 金城警部補の態度は異常なほど硬化していた。まるで僕の探偵の証明を最初から否定しようとしているかのようだ。


「この別荘は僕の父とK.Yが、誘拐監禁事件を起こした場所です。この中に罪の記録と新たな凶器が隠されている」


 金城警部補は僕のメモ帳に書かれたK.Yの存在に関する記述を一瞥し、冷たい目で見つめた。


「夜凪零。君のメモは所詮、君の記憶障害が生み出した妄想の記録だ。K.Yは公的に病死している。君は忘却の薬という存在を事件を複雑化させるために捏造している」


「捏造?」


 僕は僕自身のメモの信頼性を、公的な権力によって否定された。僕の背後に立っていた雫が静かに口を開く。


「警部補。この別荘の地下室で、私たちは藤沢咲さんを救出しました。彼女の現在の精神状態を見れば、K.Yの忘却の薬の存在は証明される」


 しかし金城警部補は雫の存在そのものを無視するかのように僕に銃口を向けた。


「夜凪零。君は忘却探偵という名の危険な被験者だ。これ以上、事件を混乱させるな」


 僕の頭の中で一つの記憶の断片が、忘却の壁を突き破るような、激しいノイズと共に蘇った。


 それは僕と雫が幼い頃、この地下室で監禁されていた時、金城警部補が僕たちの前で、僕の父と「なにか」を話している光景だ。


 僕のメモにはない、僕自身の忘却された過去。


【金城警部補:僕の父、K.Yとの共犯関係を知っていた? 彼は記憶の番人の裏切り者だ】


「警部補。あなたも僕の父とK.Yの忘却の舞台の共犯者ですね」


 僕の言葉に金城警部補の顔が恐怖に歪んだ。

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