第三章 1 空白からの再起動
僕が目覚めたのは東京郊外の古い洋館の一室だった。頭の中は今までにないほどの静寂に包まれている。記憶の螺旋状の崩壊は僕の過去の罪と運命を巡る、すべての劇的な情報を消し去っていた。
「あれ? 僕は誰だっけ?」
僕は手の平を見つめる。そして手の中に握られたリングノートの存在を思い出す。僕はそのノートを開き、第一ページに書かれた、僕自身の筆跡の文字を読み上げた。
【僕の名前は夜凪零。職業は忘却探偵。極度の短期記憶障害を持つ。このノートは僕が真実に抗うための唯一の記録である】
そして最終ページに記された雫の筆跡。
【事件解決。真犯人:K.Y(零くんの双子の兄)。彼は忘却の薬で世間の記憶を消そうとしたが、零くんはミラー・サーキットを破壊し勝利した。零くんの忘却は彼の英雄的な抵抗の証となった】
「英雄的な抵抗……双子の兄?」
その情報が僕の脳内で、なんの感情も伴わず情報として処理される。僕の忘却は僕自身の人生を、冷たい事実の羅列に変えていた。
「おはよう、忘却探偵」
朝霧玲音が部屋の隅のアンティークチェアから立ち上がった。白いタキシードではなく、落ち着いたスーツ姿だ。
「あなたは……朝霧玲音さん。僕のメモによると、あなたは僕のライバル探偵。そして僕の運命の目撃者ですね」
「そうだ。君は自身の過去と記憶障害の原因となる忘却の薬の脅威から世界を救った。まさに忘却のヒーローだ」
その言葉に違和感を覚える。しかし僕の記憶は何一つ残っていない。僕の自我はどこに行ったんだ?
その時、七瀬雫が僕の横に静かに立った。彼女の表情は以前にも増して、鋼のように固い決意を秘めている。
「零くん、あなたの自我はメモの中にある。あなたが誰であるかは私が記憶している。そしてこの場所はあなたが次の事件に備えて、朝霧さんの協力を得て用意した新しい隠れ家だよ」
「次の事件?」
僕は自身の運命が終わっていないことを理解した。K.Yは逮捕されていない。そして忘却の薬の知識は、まだ世界に残っている。
「K.Yは逮捕されていないんだな?」
「はい、ミラー・サーキットの破壊の直後、彼は行方をくらましたままよ。しかし彼の計画は失敗し、顔を覚えている人間は、まだ多数残っているかな」
僕の英雄的な抵抗はK.Yの完全な忘却を阻止したに過ぎない。戦いはまだ続いている。
僕たちの新しい隠れ家は壁一面がホワイトボードと、事件記録の図表で埋め尽くされていた。すべて僕が忘れることを前提に、新しい記憶として準備されたものだ。
「君の探偵活動は今後、この記録の要塞から開始される」
朝霧がホワイトボードを指差す。
「君がすべてを忘れても、君の推理の論理の道筋だけはこの部屋に残る」
そのホワイトボードには、僕自身の筆跡で、大きな文字が書かれていた。
【MISSION:K.Yの忘却の薬の完全破壊。そして僕自身の忘却の真の克服】
僕の父が残した忘却の薬のデータは、K.Yとの最後の対決で、僕自身の手で破壊されたとメモに記録されている。しかしK.Yはその知識を持っている。
「朝霧さん。K.Yは次になにを狙います?」
「彼は一度失敗した忘却の演出を、より大規模で、より芸術的な形で成功させようとするだろう。君を作品として作り上げたのだから、君の忘却そのものを、最高の傑作として利用しようとする」
その時、雫が僕のメモ帳に挟まれた一枚の古い写真を指差した。
「零くん、今日の事件の依頼人はこの写真の人物です」
写真に写っていたのは中年の女性だった。その顔には深い疲労となにかを必死に探しているような、切羽詰まった表情が浮かんでいた。
【依頼人:藤沢琴音。依頼内容:失踪した娘の記憶の捜索】
「失踪した娘の記憶?」
「はい。彼女の娘、藤沢咲さんは二週間前に行方不明になりました。そしてその失踪直前、咲さんは『記憶が誰かに塗り替えられている』と母親に訴えていたみたいだね」
この事件はK.Yの忘却の薬が、再び動き出したことを示唆していた。
僕たちは依頼人である藤沢琴音が住む、古い集合住宅の一室で話を聞いた。彼女の顔は写真よりもさらに憔悴している。
「探偵さん……娘の咲は記憶が、まるで他人の物語のように感じられると言っていました。好きな食べ物、友人の名前、果ては私たち家族との思い出さえも……」
「それは記憶の植え付け、あるいは記憶の消去の初期段階かもしれません」
僕の父とK.Yが研究していた忘却の薬は、特定の記憶を消去するだけでなく、偽の記憶を植え付けることも可能だったはずだ。
「咲さんは失踪する直前になにか変わった行動を取りませんでしたか?」
「娘は急に絵を描き始めました。それまで絵なんて全く描かなかったのに……そして描いたのは、いつも同じ螺旋の模様でした」
螺旋の模様。それは僕たちが最後の事件の舞台にした螺旋庭園の象徴だ。
【藤沢咲:失踪直前、螺旋模様の絵を描いていた。K.Yの忘却の螺旋庭園が、新たな標的を見つけた】
「娘さんが描いた絵はどこに?」
琴音さんはリビングの壁に貼られた数枚のデッサンを見せた。鉛筆で描かれた粗い線だが、確かに螺旋状の模様が繰り返し描かれている。
そしてそのうちの一枚に僕の視線が引きつけられた。螺旋の模様の中に小さな二つの人影が手を繋いで立っている。その人影はまるで僕と雫のようだった。
「この絵には……僕たちが描かれているのか?」
僕はメモを参照するが、絵に描かれた二人の関係性を、初見の情報としてしか扱えない。
「雫。僕と君はこの絵のモデルになるような特別な関係だったのか?」
「零くん。あなたはこの事件が始まる前から、私を僕の運命だと呼んでいたんだよ。あなたのすべてを記録し、あなたの自我を繋ぎ留める運命共同体」
僕のメモ帳には僕自身の意志が書きつけられていた。
【藤沢咲の失踪はK.Yの忘却の螺旋の再起動。僕の忘却が彼らが仕組んだ偽の記憶を暴くための唯一の武器となる】
僕は再びペンを握り締める。僕の記憶は常にゼロからの開始だが、僕の探偵の意志だけは、僕自身の忘却を超越する。
「雫。僕の過去のすべての情報を持って、僕たちは藤沢咲の塗り替えられた記憶を捜索する」




