11
結婚式当日。その日は朝から城中がバタバタと慌しかった。
「動かないで下さいね、ルージュ様」
この日の為にノアールから贈られた宝玉の首飾りを純白のドレスに身を包んだルージュの首の後ろで留めていたメイはそう言うと、リンリンという来客の報せに戸口を見る。ルージュが与えられた居室は城の東端にあるが独立しており、専用の玄関に来客が来ると門番から報せが来るようになっていた。
メイは首飾りの金具を留め終えると、小走りに部屋から廊下へと出て行く。やがてパタパタと階段を下りて行く足音に続き、「お待たせ致しました」という声が聞こえて、すぐに複数の足音が玄関から入って来た。
玄関を入ると広いフロアになっており、豪華な調度品の他にテーブルや椅子などもあって客人をもてなせるようになっている。玄関の反対側には中庭を望める大きなガラス窓があり、その脇にあるドアから外へ出て散策できるようになっていた。フロアの天井は二階まで吹き抜けになっており、ルージュのいる二階の廊下から一望出来るようになっている。階下へはフロアの両端にある緩く弧を描いた階段を使って降りられるようになっているが、逆を言えばルージュの居室のある二階へはその階段を使わなければ上がれないようになっていた。
(誰だろ)
もとより、乳兄妹の言い付けなど守ったことの無いルージュである。さっそく椅子から立ち上がって廊下に出ると、手すりからそろそろと顔だけ出す。すると、メイの後ろから綺麗に着飾った南侯爵の姫が入って来るのが見えた。
(なんだ、オディールか)
安心して立ち上がろうとしたルージュは、しかし、その後ろから入って来た人物を見るなり驚いて目を丸くする。オディールの後ろから現れたのは、東公爵の姫と、西公爵の姫を抱いた侍女だったのだ。
(な、なんだあ?)
自分を姉のように慕ってくれているオディールはともかく、東西の姫まで来る理由が解からない。すると、オディールが不意にこちらを見上げ、顔だけ出していたルージュを見つけてパアッと笑顔になった。
「お姉様!」
こちらに向かってブンブンと大きく手を振るオディールに、ルージュはとりあえず笑顔を向ける。
「もうすぐ『段取り合わせ』のお時間でしたので、途中でお会いしたソフィア様方と一緒にお誘いに来ましたの!」
『ソフィア』とは東の姫の名前である。出戻りと聞いていたのでかなり年上を想像していたのだが、なかなかどうして、実際の姫は成熟した大人の色香を漂わせるすこぶるつきの美女だった。
(段取り合わせ?)
オディールの言葉にルージュは、はて、と首を捻る。『段取り合わせ』とは式典の前に行なう予行演習のことである。メイがフロアの隅から椅子を持って来て客人に勧めるのを眺めながら、ルージュはそういえばノアールが今朝方そんなことを言っていたのを思い出した。ベッドの中でウトウトしている時に言われたのですっかり忘れていたのだが、ついでに余計なことまで思い出してしまったルージュは思わず赤くなる。
『では、行って来る』
いつものようにそう言って上着を掴んだノアールは、何を思ったのか今朝は不意にベッドに戻って来ると、ルージュの上に屈み込んだのだ。
「遅れるなよ」
甘い囁きと共にいきなり頬にチュッと音を立てて口付けられたルージュは、それこそ一瞬で目を覚ましてガバッと勢いよく飛び起きる。
「朝からナニすんだ、ボケ!」
思わず真っ赤になって怒鳴ると、ノアールはハハハと楽しそうに笑いながら出て行った。
(まったく、なに浮かれてんだか……!)
ルージュは今朝方の出来事を思い出しながら胸中で毒づくと、面映さに少しだけ赤くなる。以前は根暗で何を考えているのかよくわからないところのある男だったが、ここのところはずっと表情も豊かになったし、何より笑顔が増えた。所詮自分は男でしかないので魔女の呪いを解いてあげることは出来ないが、それでもノアールが自分といることで少しでも明るい気持ちになってくれるのなら嬉しいと思う。そこへ、メイが階下から戻って来て「さあさあ!」と言いながらルージュを部屋に追い立てた。
「早く仕度をしてしまいませんと。皆様をお待たせしては申し訳ございませんわ」
部屋に戻って鏡台の前に座り、結い上げた髪にメイが飾り物を付けてくれるのを待つ。その時、部屋のどこかで、カタ、と何か小さな音がした。
「……?」
二人は同時に顔を上げ、音のした方を見る。もちろん室内には二人しかおらず、視線の先には二本の剣がクロスするようにして飾られている壁があるだけだった。
「何だ?」
その剣が再びカタと小さく鳴ったのを見て、ルージュはすっくと立ち上がる。そういえばこれは『退魔の剣』だとノアールが言っていたのを思い出し、ルージュはその剣に歩み寄ると手に取った。
「まさかな……」
手の中に収まったままピクリとも動かない剣を見下ろし、ルージュは小声で呟く。ここに来てから毎日この部屋で寝起きしているが、一度もそんな現象が起きたことは無い。やはり気のせいだったかと剣を壁に戻そうとしたその時、再び剣が手の中でカタカタと震えた。
「……ッ!」
ルージュは小さく震え続ける剣をジッと見詰めると、その視線をゆっくりとメイに向ける。
「どういうことだと思う、メイ」
『退魔の剣』の話は言い伝えでしかないし、ノアールも実際に聞いたことは無いと言っている。
「でも、時に伝承は真実を含んでいることもありますわ」
メイは静かな声音で答えると、ルージュから戸口へと視線を移した。その扉の向こうでは四人の客人たちがルージュが出て来るのを待っている。その時、不意に「ルージュ!」と自分を呼ぶ声がして、ドカドカとたくさんの足音がフロアに駆け込んで来た。
「ノアールッ?」
ルージュは驚いて戸口へ駆け寄ると、慌ててドアを開けて飛び出す。廊下の手すりに飛びついて階下を覗くと、ノアールを先頭に東西南北の公爵とたくさんの近衛兵たちが三人の姫を取り囲むのが見えた。
「無事か、ルージュ!」
ノアールの言葉にルージュは頷くと、南と西の公爵がそれぞれの姫を東公爵の姫から引き離すのを見る。
「ルージュ様! この女は私の娘になりすました偽者でございます!」
東公爵がソフィアを指差して叫び、離縁して戻って来たというのもこの女がついた嘘だったことを説明した。
「やい、女! 我が娘そっくりに化けるとは、貴様、人間ではあるまい!」
東公爵が額に青筋を浮かび上がらせながら激怒して怒鳴り、その罵声にソフィアになりすましていた女がキュゥッと口角を上げて妖艶な笑みを浮かべる。
「か弱き女に寄ってたかって。いったいどうしようと言うのでございますか、ご無体な」
女の言葉に、東公爵が「黙れ!」と言って周囲に怒鳴る。
「何をしておる! 早くこの女を捕らえよ!」
東公爵の命令に、周りを取り囲んでいた兵士の一人が女の手首を掴もうとする。途端に「無礼者ッ!」と女の怒声が辺りに轟き、兵士たちは目に見えない何かに弾き飛ばされたように「わあッ!」と叫び声を上げて倒れた。途端に共鳴を起こした壁や窓ガラスが一斉にビシィッとヒビ割れる。それを見た人々は皆恐怖に慄いた。
「ただの人間の分際で我に触れられると思うてか!」
まるで雷鳴のような怒号と共に、女の姿が変貌する。細い鼻梁が鷲鼻に曲がり、滑らかだった肌に無数の深い皺が刻み込まれた。美しかった金髪があっという間に白髪に変わり、やがて、先程まで妖艶だった美女が年老いた老婆の姿に変わる。
「お前は北の山の魔女!」
その姿を見て、南公爵が驚愕して叫ぶ。魔女は南公爵を見てフンと鼻を鳴らすと、父親の腕の中で怯えて震えているオディールを見てニヤリと笑った。
「その姫がお前の自慢の娘かい。白くて柔らかくて実に旨そうじゃないか」
魔女の怖ろしげな言葉に、オディールがヒッと小さく叫んで青褪める。
「魔女め! とうとう鬼畜に堕ちたか!」
南公爵の言葉に魔女はヒッヒッヒッと嫌な声で笑うと、ギラギラした目で南公爵を睨め付けた。
「だったらどうする。ワシを殺せば末代までこの国に祟るぞ」
脅しとは思えぬ魔女の言葉に、途端にそこにいる全員が青褪める。
「では貰って行こうかの」
魔女はそう言ってオディールに歩み寄ると、その細腕を掴もうとした。その瞬間、何かが『パアン!』と弾けて魔女の手を勢いよく撥ね返す。
「なんと!」
魔女は驚いたように自分の手を見詰めると、その視線をオディールの胸元に向けた。そこには大粒の真珠を繋ぎ合わせて作った首飾りが清浄な光を放っていた。
「真珠に守護魔法を掛けおったか、生意気な!」
中の一つが粉々に砕けて足下に散らばっているのを見て魔女が忌々しげに言う。そして再び手を伸ばすと、指先でオディールを突っついた。魔女が触れようとする度に首飾りの真珠がパンパンと弾け、そのたびに魔女の手は勢いよく撥ね退けられる。しかし、その守護魔法も魔女の前では時間稼ぎにしかならず、あっという間に真珠は残り少なになった。
「いかん! 無くなるぞ!」
南公爵の言葉に、真っ青になったオディールが金切り声を上げて気絶する。
「オディール!」
ノアールが剣を抜き放って魔女に切りつけ、しかし剣は魔女の体をすり抜けて空を切った。
「なんだとッ!」
確かに手応えはあった筈なのに掠り傷一つ付けられなかったのを見てノアールが叫ぶ。
「この化け物め!」
ノアールの言葉に再び老魔女がヒッヒッヒッと嫌な笑い声をたてて言った。
「残念じゃが、ただの剣ではワシは切れんよ」
自信満々のその言葉に、ルージュはハッとして手の中の剣を見る。その心の声に答えるように、ルージュの手の中で『退魔の剣』が大きく震えた。
(でも……果たしてこんなので切れるのか?)
刃の無い剣では魔女を倒すどころかパンさえ切れないように思える。しかし、躊躇している暇は無かった。
(ええい、ままよ!)
その時はその時と、ルージュは一瞬で腹を括る。そして、やにわにドレスの裾を蹴り上げると、廊下の手すりに足を掛けて飛び乗った。目標を定めるべく見下ろすと、真っ白なドレスの裾の向こうに魔女に切り込んで行くノアールの姿が見える。ルージュは両手で剣を構えると、声を限りに叫んだ。
「ノアール! どけえッ!」
声と同時に手すりを蹴り、魔女の上にダイブする。
「ルージュ!」
「ルージュ様!」
それを見て青褪めたノアールや若い近衛兵たちが口々に叫び、魔女が高らかに哄笑した。
「だから無駄だと言うておろうが!」
しかし、余裕の笑みを浮かべて振り仰いだ魔女の顔が、ルージュの掴んでいる剣を見た途端に一瞬で青褪める。
「そッ、その剣はッ……!」
魔女は咄嗟に逃げようとしたが、ルージュが剣を振り下ろす方が早かった。『退魔の剣』は見事に脳天に命中し、魔女は白目を剥いてもんどりうって倒れる。
「やったぞ!」
「やったあ!」
兵士たちが口々に叫びながら倒れた魔女を取り囲むと、魔女の姿はあっという間に変貌して、白い毛で覆われた巨大な獣となった。
「ムジナだ!」
「では、このムジナが北の山の魔女に化けていたのか!」
兵士たちが獣を見下ろし、口々に言う。
「それにしても、なんて大きなムジナなんだ……!」
年経たムジナが北の山の魔女を喰らって化けたのか、それとも最初から北の山の魔女がムジナだったのかはわからないが、もしかしたらここにいる全員がこの魔物に喰われていたのかもしれないと考えて皆は思わずゾッとする。そして、自分たちを救ってくれた姫に視線を向けた。
「姫……」
「姫様……」
「ルージュ様……」
近衛兵たちの気遣うような声音に、ルージュは思わず眉を寄せてグッと唇を引き結ぶ。ノアールを助ける為とはいえ、とうとう自分は声を出してしまったのだ。どんなに身なりを飾り立てようとも声を偽ることは出来ない。ルージュはシンと静まりかえったフロアを見回すと、最後に幼馴染みに視線を向けて眉尻を下げた。
「ごめん……」
最後まで誤魔化し通せなかったことを謝り、ルージュはグッと唇を噛む。いくら自分が蒔いた種ではないとはいえ、国王や国民を騙そうとしたのは事実である。それ相応の罰を受けなければならないが、しかしノアールは別だった。ノアールは自分たちを守ろうとしてくれただけで、何も悪いことはしていないのだ。
(ノアールだけは……)
この国の第一王子にだけは絶対に迷惑をかけないようにしなければならない。そうでなくてもノアールには腹違いの弟が三人もいて、継母が第一王子の座を虎視眈々と狙っているのだ。これを好機と攻め寄られては、いかなノアールといえども苦しい立場となるだろう。かくなる上は、全ては自分の企みでノアールや父公爵は騙されただけだと説明すべく南公爵を振り返ったその時、突然誰かがパンパンと手を叩く音がして、皆の注意を一斉に引き付けた。
「あっぱれ!」
凛としたよく通る声がフロア中に響き渡り、そこにいる者全ての目が一斉にその声の主を見る。その視線の先には南公爵の妻ルイーザがスッと背筋を伸ばして立っていた。
「さすがは第一王子の懐刀、あっぱれです。このように勇敢な姫は国中どこを探しても見つからないでしょう」
ねえあなた、と同意を求められて、隣に立っていた南公爵がウムと頷く。
「北公爵の忠誠心は御国一でございますな。いかな第一王子をお守りする為とはいえ、ご自分の大切な姫君を剣士としてお育てになられていたとは!」
そうではございませんか国王、と問われて、その隣に立っていた国王もウムと言って頷いた。
「まこと、あっぱれじゃ! これほどの美姫にして勇敢な剣士を嫁に迎えられるとは、ノアールは国一番の果報者ぞ!」
国王の言葉に、北公爵が青褪めながら「そのことでございますが……」と恐る恐る尋ねる。
「本当によろしいのでございましょうか。なにぶん我が姫は雛者で世間知らずの上に、とんでもないお転婆でございますので……」
滝のように冷や汗をかきながらモゴモゴと窺い立てる北公爵の言葉に、ノアールが「確かに」と言って頷いた。
「毎日城を抜け出して若い近衛兵たちに剣術の稽古をつけに行くような男勝りの姫など、国中どこを探してもいないでしょうね」
ノアールの嫌味を含んだ言葉に、今度はルージュがギョッとしてタラタラと冷や汗をかく。
「だ……だって暇だったんだもん……」
ルージュがゴニョゴニョと口中で言い訳すると、それを見たゴーヤが目を細めて笑った。
「それにしても良うございました。てっきり姫様はお声が不自由なのかと思っておりましたので」
「え……」
その言葉にルージュは思わず赤くなって俯く。それを見て、ゴーヤが笑みを深めて尋ねた。
「もしや、姫様はお声が低いことを気にされていらしたのでしょうか?」
飾らぬ言葉で率直に尋ねられて、ルージュはウッと呻いて言葉に詰まる。ゴーヤはすっかり萎れてしまったルージュを見て更に笑みを深めると、「ルージュ様」と言って諭すように言った。
「声もその者の『個性』です。高い声の者もいれば低い声の者もいる。しかし、それはその者の一部であって全てではありません」
「個性……」
ルージュはその言葉に顔を上げてゴーヤを見る。
「それに、ルージュ様のお声は確かに女性にしては低めかもしれませんが、十分魅力的な良いお声だと思いますぞ。どうぞ気にせず、どんどんお話しください。我々もたくさんルージュ様とお話ししとうございますので」
すると、ゴーヤの言葉に、後ろで控えていた若い近衛兵の一人が「そうですよ!」と声を上げた。
「あれだけ剣が強くて男勝りなんですから、今さら声が低くたって驚きませんって!」
若者の言葉に、他の近衛兵たちもウンウンと頷く。
「それこそ『今さら』ですよねえ!」
近衛兵たちの親しみを籠めた軽口をゴーヤは渋い顔で「これ!」と言って諌めると、ノアールに視線を移して部下たちの不躾を詫びてから言った。
「それに、ノアール様はそのお声を含めたルージュ様をお妃に望まれたのですから。そうでございますな、ノアール王子?」
幼い頃より彼から、それこそ剣の握り方から教わったノアールは、指南役の言葉に「もちろんだ」と返す。ノアールの言葉にゴーヤは笑って頷くと、「それを聞いて安心致しました」と言ってルージュに視線を戻した。
「ルージュ様は確かに多少男勝りかもしれませんが、誰よりもお優しくて誰よりも勇敢で、そして誰よりも王子のことを心から愛しておられますので」
指南役の突然の言葉に、ルージュは思わず真っ赤になって狼狽える。それを見てノアールが目を細めて微笑んだ。
「わかっている」
自分に向けられた柔らかな眼差しに、ルージュは思わずドキリとして目元を染める。面映そうに微笑んだノアールのその顔は、誰の目から見ても年相応の青年のそれに見えた。
「ノアール様、ルージュ様」
兵士たちが魔物を運び出し、国王や公爵たちが出て行くと、最後までフロアに残っていたルイーザが歩み寄って来て二人に深くお辞儀をした。
「このたびは我が娘をお助け頂き、どうもありがとうございました」
ルイーザの感謝の言葉に、ノアールが「いえ」と言って首を横に振る。
「彼女を守ったのはあの首飾りです。あれは貴女が?」
ノアールの問い掛けに、ルイーザが「はい」と言って頷いた。
「こうして言葉を交わすのは初めてですが、私は王子がお生まれになった時に最後に祝福を与えさせて頂いた魔女でございます」
「では、あなたが……!」
ルイーザの言葉に、ノアールが驚いたように目を見開く。
「はい」
『大人になった王子が、もし間違えることなく運命の相手を見つけることが出来たら、王子は失った愛を取り戻し、幸せな一生を送るでしょう』
まだ若く力も弱かった為に北の山の魔女の呪いを解くことが出来なかったルイーザは、代わりに国王や王妃に『希望』という名の祝福を与えた。
「あの日のことを私はずっと悔やんでおりました。私の力が及ばなかったばかりに……どうぞお許しください」
深々と頭を下げるルイーザに、ノアールが笑顔を向ける。
「そんなことはありません。貴女が希望を与えてくださったから今の自分たちがいるのです」
ノアールの言葉に、ルージュもコクコクと頷く。
「それについてはルージュ様にもお詫びしなければなりません」
ルイーザはルージュにも頭を下げてそう言うと、懺悔した。
「ルージュ様に不躾な手紙を送ったのは、このわたくしめでございます」
「……へ?」
『お前に呪いを解くことは出来ない』
そう一行だけ書かれていた文のことを思い出して思わず「ええッ?」と叫んだルージュは、慌てて手の平で口を塞ぐ。では、あの筆跡はオディールではなくルイーザのものだったのだ。
「我が血筋の得意は水晶による先見。そこでわたくしは、縁あって南公爵の後添えに入ってからもずっと王子のことを占っておりました。しかし、何度占っても王子の運命の相手となる姫は現れませんでした」
ルイーザの言葉にルージュはギュッと眉を引き寄せる。では、ノアールの呪いはまだ解くことが出来ないのだ。
「そうこうしているうちにノアール様が北公爵領に『通っている』ようだという噂が入りまして、そこでわたくしは身分を隠して先の手紙を送ったのでございます」
続けて言われた言葉に、ルージュはキョトンとして目を丸くする。『通っている』とは、もちろん『男女の間柄である』ということである。でもノアールが? 北公爵領に???
それはいったいどういうことかと隣に視線を向けたルージュは、ノアールが微かに顔を赤くしているのを見て「えッ?」と言って慌てた。
「あれって『通ってた』のかッ?」
思わず声高に尋ねると、ルージュの言葉にノアールがゴホンと小さく咳払いする。
「あたりまえだ。どこの世界にただの幼馴染みに毎日菓子を持って会いに行く男がいる」
照れ隠しのぶっきら棒な言葉に、ルージュは思わずカァァァッと耳まで真っ赤になる。
「だだだだだってお前ッ、そんなこといいい一度だってッ……」
すると、慌てふためくルージュとバツの悪そうなノアールを微笑ましげに眺めていたルイーザが、「そこでお願いがあります」と言ってルージュに言った。
「このたびのお礼とお詫びの意味を籠めまして、私に祝福を与えさせてはくださいませんか」
「祝福っ?」
魔女の祝福は誰もが貰えるものではない。願い事によっては国まで左右される危険があるからだ。もちろん願い事は魔女によって吟味されるし、無茶な願い事は却下される。ルージュが思わず躊躇っていると、ルイーザが微笑んで言った。
「何でもいいのです。例えば、北公爵領は土地も貧しく気候も厳しい。風水害や日照りが無くなれば豊作となり、人々の生活も楽になって国庫も潤うでしょう。また、諸外国との親交が深まれば争いの種も無くなり、民たちも安心して暮らせるようになるでしょう」
いかがですか、と問われて、ルージュは、そんな凄いことまで出来るのか、と驚く。
「もちろん、ご自分の願い事でも構いません」
ルイーザはそう言うと、再びにっこりと微笑んだ。
「そのお声を歌姫のような声にして差し上げることも可能ですわ」
ルイーザの言葉に、驚いたルージュは「えッ?」と言って慌てる。すると、ルイーザが不意に含みのある笑みを浮かべて、ツイとルージュに顔を寄せた。
「もしお望みなら、ノアール様によく似た『やや』を授けることも……」
耳元でヒソと囁かれた言葉に、ルージュはそれこそびっくりして「ええッ?」と声を上げて仰け反る。ルイーザは真っ赤になって狼狽えているルージュを見ると、楽しそうにクスクスと笑った。その屈託の無い笑顔に、からかわれたのだと気付いたルージュはムゥと唇を尖らせる。しかし、すぐに真剣な眼差しになるとルイーザに言った。
「それじゃあ、ノアールの呪いを解いてくれないか。今なら簡単に出来る筈だろ?」
なにせ自然まで操れるほどの力である。しかし、ルイーザはルージュの言葉に「それは出来ません」と答えると首を横に振った。
「そうか……」
ルージュは思わずがっかりして項垂れる。すると、ルイーザが「なぜなら」と言って言葉を継いだ。
「なぜなら、ノアール様の呪いは既に解けているからです」
ルイーザの言葉に、一瞬何を言われたのかわからなかったルージュは「え?」と言って顔を上げる。
「解けているのですよ。ルージュ様がノアール様とラストダンスを踊られたその時に」
「そ、それじゃあ……」
なかなか信じられずにルージュが呆然と呟くと、ルイーザが力強く頷いて言った。
「私が間違えたのは占いのキーワード。それでは何度占っても見つかるわけはございません。なぜなら、私はノアール様の運命の相手となられる『姫』を探していたのですから」
ルイーザがルージュを見詰め、柔らかな眼差しでにっこりと微笑む。ついに秘密がバレてしまったルージュは狼狽えて再び真っ赤になると、助けを求めてノアールを見た。
「手紙、何だって?」
私室のベランダで日向ぼっこをしながら故郷から来た手紙を読んでいると、ノアールが部屋から出て来て後ろから尋ねた。
「なんだ、また仕事サボッて来たのか?」
半年前の合同結婚式は魔物のお陰で急きょ変更となり、結局ルージュだけがノアールと式を挙げた。以来、以前は仕事モードに入ると全く部屋に戻らなかったノアールが、今は午後のお茶の時間になると執務室から脱走して来る。顔を見られるのは嬉しいが、執事たちに小言を言われるのは自分である。ルージュが思わず呆れて言うと、ノアールは隣に椅子を引き寄せて座りながらのんびりと笑った。
「人間、息抜きが必要だ」
ようやく見慣れてきたノアールの明るい笑顔を、ルージュは微かに頬を染めながら見る。あれ以来、ノアールは本当に笑顔が増えた。お陰で召使いたちもノアールを怖がらなくなり、民の評判も上々である。「で、何て書いてあったんだ?」と再び問われて、ルージュは「別にいつもと同じだよ」と返す。
「今年は春も夏も嵐が無かったから収穫がかなり望めそうだとか、お陰で諸外国にも援助が出来て隣国とも仲良くやってるとか」
その言葉に、ノアールが「ん?」と言って首を傾げる。
「そういえば、それって全部ルイーザ殿が言っていたことじゃなかったか?」
ノアールに言われてルージュも半年前を思い出すと、確かに、と言って頷いた。何か願い事を言えと言われて困っている時にルイーザが例として挙げたのが、その五穀豊穣と友好外交だったのである。
「偶然かな」
ルージュの言葉にノアールが、でも、と言って言葉を継ぐ。
「お前の声もいくらか柔らかくなったような気がしないか?」
ノアールの指摘に、自分でも自覚のあったルージュは身を乗り出して「やっぱりッ?」と尋ねた。ルージュの声を歌姫のような声に変えてやろうかと言ったのもルイーザである。
「やっぱりいくらか高くなってるよな! どうしよう!」
声自体はまだまだ低いが、声の質が柔らかくなったので女性でも十分通りそうである。とは言っても口調は全く変わっていないので、相変わらず全然姫らしくはない。
「いいんじゃないか? そんなに変わってないし」
ノアールはそう言うと、ふと思い付いたように「もしかしたら」と言って笑った。
「ルイーザ殿は最初からそのつもりだったのかもしれないな。礼のつもりでさ」
その言葉に、ルージュは目を丸くして「え?」と問う。確かに、あのルイーザならあり得そうである。すると、更に何か思い出したらしいノアールが、ルージュの顔を覗き込むようして尋ねた。
「そういえば、あの時ルイーザ殿はお前に何と言ったんだ?」
「あの時?」
問われたルージュは、何のことかとキョトンとしてその顔を見返す。
「ルイーザ殿がお前にこっそり耳打ちした時だよ」
ノアールの言葉に「え?」と言って目を見開いたその脳裏に、不意にルイーザの声が蘇った。
『もしお望みなら……』
ルイーザが耳元で囁いた言葉を思い出し、ルージュは思わず真っ赤になって狼狽える。では、ルイーザはもしかしたらもしかするともしかして……。
「えええええッッッ?」
それは異国の物語。
遠い遠い、遥か昔の……。