第9話 ドッグカフェは任務です
土曜日、午後12時40分
ルカは、自宅の鏡の前に立っていた。
黒いセミロングの髪。
透き通るような白い肌。
青い瞳。
整った顔立ち。
どこからどう見ても、美しい女性だった。
「服装、問題ありません」
ルカは全身を確認した。
今日の服装は、淡いベージュのブラウスに、落ち着いた色のスカート。
人間の女性が休日にカフェへ行く際の服装データを参照し、選択したものだ。
「会話パターン、確認します」
ルカはスマートフォンを操作した。
【初めて食事をする相手との会話】
・挨拶をする。
・相手の話を聞く。
・適度に相づちを打つ。
・質問を返す。
・会話が途切れた場合、天気や趣味の話題を使用する。
「問題ありません」
足元では、ぷーちゃんがしっぽを振っていた。
「ぷーちゃん、準備はできましたか?」
「ワン!」
【翻訳結果:早く行こう!】
「承知しました」
ルカは、ぷーちゃんを抱き上げた。
本日の任務。
犬友達との交流。
任務開始時刻、十三時。
⸻
午後一時。
駅前のドッグカフェ。
店内には、小型犬を連れた客が何組もいた。
窓際の席に、チワワと飼い主の工藤が座っている。
「ルカさん! こっちこっち!」
工藤が手を振った。
「こんにちは。お待たせしました」
ルカは丁寧に頭を下げた。
ぷーちゃんを床に下ろすと、チワワが駆け寄ってきた。
二匹は、しっぽを振りながら鼻を近づけた。
「ワン! ワンワン!」
ぷーちゃんも楽しそうに鳴いた。
【翻訳結果:会いたかったよ!】
【翻訳結果:ぼくも!】
ルカは二匹を見守った。
「犬同士の関係は良好です」
「ふふっ。二匹とも、本当に仲良しね」
工藤が笑った。
ルカは、あらかじめ学習した会話パターンを実行した。
「そうですね。ぷーちゃんも、とても楽しそうです」
「ルカさんも、今日は楽しんでいってね」
「ありがとうございます」
ここまでは順調だった。
工藤がメニューを開いた。
「何か頼みましょうか。ルカさん、何が好き?」
ルカの処理が、一瞬止まった。
好き。
飲食物の嗜好を尋ねられている。
しかし、ルカには味覚データこそ存在するものの、人間と同じ意味での好みがあるとは限らない。
「私は、特定の飲食物を好むとは限りません」
「えっ?」
工藤が顔を上げた。
しまった。
ルカは即座に修正した。
「ですが、おすすめがあれば、ぜひ教えてください」
「じゃあ、このカフェラテがおいしいのよ!」
「ありがとうございます。では、カフェラテをお願いします」
工藤はにこやかに店員を呼んだ。
ルカは心の中で処理を続けた。
会話、継続中。
問題、軽微。
⸻
飲み物が運ばれてきた。
工藤はカフェラテを飲みながら、楽しそうに話し始めた。
「そういえば、ルカさんってお仕事は何をしているの?」
ルカは事前に用意した回答を呼び出した。
「事務処理を中心に、データの確認や書類の作成などをしています」
「へえ! すごいわね。仕事ができそう!」
「ありがとうございます」
「私なんて、仕事が遅くて。パソコンも苦手なのよ」
ルカは答えた。
「人間には、それぞれ得意不得意があります。問題ありません」
工藤は一瞬きょとんとした。
そして、笑った。
「ルカさんって、面白いことを言うのね!」
「面白い?」
「うん。なんだか、真面目でかわいい!」
ルカはその言葉を記録した。
【評価:好意的】
【対応:微笑】
ルカは口元をわずかに緩めた。
「ありがとうございます」
そのとき、工藤のチワワがルカの足元にやってきた。
「ワン!」
【翻訳結果:おやつ持ってる?】
ルカはバッグを開いた。
中から犬用のおやつを取り出す。
「あります」
チワワは大喜びでしっぽを振った。
ぷーちゃんも駆け寄ってくる。
二匹は並んでおやつを食べた。
工藤が笑った。
「よかったねえ! 二匹とも!」
ルカは、ぷーちゃんの頭を優しく撫でた。
「はい」
その返事は、いつもより少しだけ柔らかかった。
⸻
しばらくすると、工藤がふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、ルカさんって彼氏いるの?」
ルカの動きが止まった。
彼氏。
人間の恋愛関係におけるパートナーを指す言葉。
ルカはデータベースを検索した。
「現在、特定の交際相手はいません」
「そうなの? ルカさん、すごく綺麗だから、モテそうなのに!」
「ありがとうございます」
「好きな人とか、いないの?」
「好きという感情の定義によります」
工藤は、目を丸くした。
「えっ?」
ルカは、しまったと思った。
「現在、特定の相手との交際はありません」
「そ、そうなのね!」
工藤は少し笑いながら、カフェラテを口に運んだ。
ルカは学習した。
恋愛の話題では、回答を簡潔にする。
次回から適用。
⸻
午後二時。
カフェを出る時間になった。
「今日は楽しかったわ! また来ましょうね」
工藤が笑顔で言った。
ルカはうなずいた。
「はい。ぜひ」
「今度は別のドッグカフェにも行きたいわね」
「承知しました」
ぷーちゃんとチワワは、名残惜しそうに鼻を近づけていた。
「また遊ぼうね!」
工藤がチワワを抱き上げる。
ルカもぷーちゃんを抱き上げた。
二人は駅前で別れた。
ルカは、ぷーちゃんを抱えたまま帰り道を歩いた。
「任務、完了しました」
ぷーちゃんは、ルカの腕の中で顔を上げた。
「ワン!」
【翻訳結果:楽しかったね!】
ルカは足を止めた。
「楽しかった?」
ぷーちゃんは、しっぽを振った。
「ワン!」
【翻訳結果:うん! また行こうね!】
ルカは、しばらくぷーちゃんを見つめた。
「……そうですか」
そして、再び歩き始めた。
⸻
月曜日。
くみが出勤すると、ルカはいつものように席に座っていた。
「ルカさん、おはようございます!」
「くみさん、おはようございます」
「どうでした? ドッグカフェ!」
ルカは、すぐに答えた。
「任務は成功しました」
「よかった! 楽しかったですか?」
「はい。ぷーちゃんは楽しそうでした」
「ルカさんは?」
ルカは少しだけ考えた。
「会話データを大量に取得できました」
「……それ、楽しかったってことですか?」
「判断できません」
くみは笑った。
「でも、また行くんですよね?」
「はい。次回の予定を調整することになりました」
「すごい! もう友達ですね!」
ルカは画面に視線を戻した。
「友達……」
小さく、その言葉を繰り返した。
そして、キーボードに指を置いた。
カタカタカタカタ――。
くみが自分の仕事を始めたあと、ルカは画面の隅に小さなメモを開いた。
【記録:工藤さんとの交流】
【確認事項:人間の友人関係について】
【観察対象:ぷーちゃん】
【所感:次回も参加予定】
ルカはメモを保存した。
その直後、別のウィンドウが一瞬だけ開いた。
【位置情報ログ――削除済み】
ルカは手を止めた。
画面を閉じる。
そして、いつものように仕事を再開した。
カタカタカタカタ――。
葉流風あやめ 作




