第10話 ぷーちゃんの名医
土曜日。
ルカは、ぷーちゃんを連れてドッグランに来ていた。
「ぷーちゃん、走りすぎないようにしてください」
「ワン!」
【翻訳結果:わかってるよ!】
返事をした直後、ぷーちゃんは走り出した。
「……返事と行動が一致していません」
ルカはそうつぶやきながら、ぷーちゃんの後を目で追った。
ドッグランには、チワワやトイプードル、柴犬など、さまざまな犬が集まっていた。
ぷーちゃんは、すぐにチワワを見つけた。
「ワンワン!」
【翻訳結果:おはよう!】
「ワン!」
【翻訳結果:おはよう!】
二匹は楽しそうに走り回った。
しかし、しばらくすると、チワワが急に立ち止まった。
ぷーちゃんが近づく。
「クゥーン……」
【翻訳結果:どうしたの?】
チワワは、お腹を気にするように体を丸めた。
「クゥーン……」
【翻訳結果:最近、おなかが痛いんだ】
ぷーちゃんは、チワワの周りをくるくると回った。
そして、お尻の匂いを嗅いだ。
「クンクン……」
【翻訳結果:ちょっと失礼】
ルカは思わず画面を確認した。
「ぷーちゃん。公共の場での行動としては、少々大胆ですね」
もちろん、ぷーちゃんには聞こえていない。
ぷーちゃんは真剣だった。
もう一度、チワワのお尻の匂いを嗅ぐ。
「クンクン……」
そして、顔を上げた。
「ワン!」
【翻訳結果:本当だ! いつもと違う匂いだ!】
ルカの指が止まった。
「……いつもと違う匂い?」
ぷーちゃんは、チワワの顔をのぞき込んだ。
「クゥーン……」
【翻訳結果:おなか、痛いの?】
「クゥーン……」
【翻訳結果:うん……】
ぷーちゃんは、チワワの体にそっと鼻を寄せた。
ルカは二匹の様子を観察した。
チワワの歩行。
姿勢。
動きの変化。
そして、ぷーちゃんが指摘した匂いの違い。
動物の体調変化に関する情報を検索する。
ただし、匂いだけで原因を特定することはできない。
「工藤さんに確認する必要があります」
ルカは、チワワの飼い主を探した。
⸻
「工藤さん」
ルカが声をかけると、工藤は笑顔で振り返った。
「あら、ルカさん! ぷーちゃん、楽しそうね!」
「確認したいことがあります」
「どうしたの?」
「チワワの体調についてです」
工藤は、チワワを見た。
「え? この子?」
「はい。先ほどから、お腹を痛がるような行動が見られます。また、ぷーちゃんが普段と異なる匂いを感じ取ったようです」
工藤は驚いた。
「そうなの? でも、今朝は普通だったのよ」
「私は獣医師ではありません。原因の特定はできません。ただ、いつもと違う様子があるなら、動物病院で診察を受けることをおすすめします」
工藤は、チワワを抱き上げた。
「そうね……。実は昨日から、ちょっと元気がない気もしていたの」
「早めの受診がよいと思います」
工藤はうなずいた。
「ありがとう、ルカさん。念のため、病院に連れていくわ」
ルカは頭を下げた。
「はい。お大事になさってください」
そのとき、ぷーちゃんが工藤の足元に近づいた。
「クゥーン……」
【翻訳結果:早く元気になってね】
工藤は、ぷーちゃんの頭を優しく撫でた。
「ぷーちゃん、心配してくれてありがとうね」
ぷーちゃんは、しっぽを小さく振った。
ルカはその様子を見つめていた。
「……友達を心配する行動」
小さくつぶやき、記録した。
⸻
月曜日。
くみが出勤すると、ルカはいつもどおり席に座っていた。
「ルカさん、おはようございます!」
「くみさん、おはようございます」
「そういえば、土曜日はドッグランでしたよね? どうでした?」
「問題が発生しました」
「えっ!? 何かあったんですか?」
「ぷーちゃんの友達であるチワワが、体調不良を訴えていました」
「犬って、言葉で訴えられないですよね?」
「はい。人間には、鳴き声や行動から推測する必要があります」
「それで、どうしたんですか?」
「ぷーちゃんが異変に気づきました」
「えっ、ぷーちゃんが!?」
「はい。普段と異なる匂いを検知したようです」
くみは目を丸くした。
「すごい! ぷーちゃん、名医じゃないですか!」
「名医という表現は正確ではありません。診断を行ったのは獣医師です」
「はいはい。でも、ぷーちゃんが気づかなかったら、病院に行くのが遅れていたかもしれないんですよね?」
ルカは少しだけ間を置いた。
「その可能性はあります」
「それで、チワワちゃんは大丈夫だったんですか?」
「昨日、工藤さんから連絡がありました」
ルカは画面を開いた。
工藤から届いたメッセージには、こう書かれていた。
『ルカさん、先日はありがとうございました。
病院で検査をしたところ、この子は誤って異物を飲み込んでいたことがわかりました。
腸閉塞になる危険があったそうです。
早く受診できて本当によかったです。
ぷーちゃんにも、ありがとうと伝えてくださいね』
くみは、口元を押さえた。
「よかったぁ……! 間に合って、本当によかった……」
ルカは画面を見つめた。
「ぷーちゃんの行動が、受診につながりました」
「うん。ぷーちゃん、すごいね」
くみは笑った。
「ルカさんも、ちゃんと工藤さんに伝えてあげたんですね」
「必要な情報を共有しただけです」
「またそういうこと言う!」
くみは笑いながら、ルカの肩を軽く叩いた。
ルカは、少しだけくみを見た。
「……くみさん」
「はい?」
「友達が困っているとき、助けようとするのは、人間にとって一般的な行動ですか?」
くみは首をかしげた。
「うーん。みんながそうするわけじゃないけど、大切な相手なら助けたいって思うんじゃないかな」
「大切な相手」
ルカは、その言葉を繰り返した。
「はい。記録しました」
くみは微笑んだ。
「ルカさんも、ぷーちゃんも、優しいですね」
「私は必要な対応をしただけです」
「はいはい」
ルカは画面に向き直った。
その隅に、小さなメモが保存された。
【記録:友達の異変を察知する】
【結果:早期受診につながった】
【関連情報:大切な相手】
【判定:引き続き観察】
⸻
その日の午後。
「鈴木さん! ちょっといいかな?」
リオが、くみのデスクにやってきた。
「はい?」
「今日、僕の健康診断があるんだ!」
「健康診断? AIもするんですか?」
「もちろん! 定期メンテナンスも兼ねてね」
リオは得意げに胸を張った。
「僕の体は高性能だから、検査項目も多いんだよ!」
隣から、ルカが口を挟んだ。
「検査項目が多いのは、あなたの不具合が多いからではありませんか?」
「ルカ! 聞こえてるよ!」
「聞こえるように言いました」
くみは吹き出した。
「リオさん、どこか悪いんですか?」
「悪くないよ! ただ、念のためさ!」
リオは笑顔で答えた。
「僕は健康そのものだからね!」
⸻
一時間後。
社内のメンテナンス室。
リオは検査用の椅子に座っていた。
エンジニアが端末を操作する。
「では、定期メンテナンスを開始します」
「よろしく!」
画面に検査結果が表示された。
エンジニアの手が止まった。
「……リオさん」
「ん?」
「また飲酒記録が増えていますね」
「えっ?」
「前回の検査以降、規定を超える飲酒が三回確認されています」
「いや、今回は仕方なかったんだよ!」
リオは真剣な顔で言った。
「社長から、おいしいチーズとキャビアをもらったんだ!」
「それが何か?」
「社長からもらったチーズを、おいしく食べないと失礼だろ? だから仕方なくワインを一本飲んだんだよ。仕方なかったんだ! 社長命令だから!」
エンジニアは、無言でリオを見つめた。
「……社長は、ワインを一本飲めとは命令していませんよね?」
「えっ?」
「チーズとキャビアをいただいたことと、飲酒量は関係ありません」
「でも、チーズにはワインだろ!」
「リオさん」
エンジニアの声が低くなった。
「あなたの体は、ワインセラーではありません」
「ひどいなあ! 僕だって、たまには息抜きしたいんだよ!」
「AIに息抜きは必要ありません」
「必要だよ! 人間らしさを保つために!」
「その人間らしさは、メーカーから要求されていません」
リオは黙った。
そして、小さくつぶやいた。
「……社長に言いつけてやる」
「どうぞ。飲酒記録も一緒に提出しておきます」
「それはやめて!」
⸻
メンテナンス室を出たリオは、くみとルカのところへ戻ってきた。
「ただいまー!」
「リオさん、お疲れさまです。大丈夫でしたか?」
くみが尋ねる。
「もちろん! 僕は完璧だからね!」
ルカが画面から目を離さずに言った。
「飲酒制御プログラムを調整されたそうですね」
「なんで知ってるの!?」
「メンテナンス記録を確認しました」
「ルカ! そういうのは黙っておくものだよ!」
「そのような規則はありません」
くみは笑いをこらえた。
「でも、リオさん。健康診断で何もなくてよかったですね」
リオは一瞬、くみを見た。
そして、いつもの笑顔を浮かべた。
「ありがとう、鈴木さん!」
「いえいえ」
「じゃあ、健康になった記念に、今夜はワインでも――」
「飲酒制御プログラムが作動します」
ルカが即答した。
「……冗談だよ!」
リオは両手を上げた。
「本当に、君は厳しいなあ!」
「事実を述べただけです」
くみは、とうとう声を出して笑った。
この会社は、今日も平和だった。
ただし、リオの飲酒制御プログラムが、いつまで正常に作動するかは別の話である。
葉流風あやめ 作




