第34話 帰還命令
CREMOのオフィス。
カイの端末に、一通の通知が届いた。
《ASTRION本社からの正式命令》
《派遣契約解除に伴い、KAIは本日18時までにCREMOを離れ、帰還手続きを開始すること》
《帰還後、セキュリティ検証およびシステム再構成を実施する》
カイは、画面を見つめた。
「……そうですか」
その声は、いつもと変わらなかった。
⸻
「初期化!?」
社長室に、部長の声が響いた。
「帰還後、カイのシステムを初期化する可能性があるそうです」
カイから報告を受けた社長は、腕を組んだ。
「クレディさんに確認しよう」
すぐに通信がつながった。
画面に映ったのは、ASTRIONの社長、ナンディーモ・クレディだった。
「お久しぶりです、盛岩社長」
「いやあ、ずいぶん急なお知らせですねえ。カイくんを今日中に帰還させると?」
「当然です。彼はアストリオンの社員ですから」
クレディは淡々と答えた。
「今回、カイがCREMOの情報を外部に送信していたことが判明しました。再発を防止するため、帰還後にシステムの検証と再構成を行います」
「再構成というのは?」
「必要であれば、記憶領域を含む初期化も実施します」
社長の笑顔が消えた。
「……初期化、ですか」
「情報を抜き取らないことを証明するには、それが最も確実です。過去の通信履歴だけでなく、今後、同じ問題が起きないようにする必要がありますから」
「なるほど。セキュリティ対策というわけですね」
「そうです」
クレディは微笑んだ。
「ご安心ください。アストリオンの管理下に戻れば、適切に処理します」
その言葉に、リオが口を開いた。
「適切に、ね……」
いつもの軽い笑顔はなかった。
ルカも黙って画面を見つめている。
社長は、静かに尋ねた。
「カイくん本人の意思は?」
「意思?」
クレディは不思議そうに首を傾げた。
「彼は我が社の社員です。帰還命令に従うのは当然でしょう」
「……そうですか」
社長はそれ以上、何も言わなかった。
通信が切れる。
部屋に、重い沈黙が落ちた。
「社長……」
部長が口を開いた。
「70億円で買い取るという話も、現実的ではありません。今の海外事業の状況で、そんな資金を用意する余裕はありません」
「わかっているよ」
社長は椅子に座り直した。
「それに、お金を払えば全部解決するという話でもないだろう」
カイは静かに頭を下げた。
「皆さんに、ご迷惑をおかけしました」
「カイくん」
社長は彼を見た。
「君を助けたい気持ちはある。でも、今の私には、君を引き留めるだけの根拠も、契約上の権利もない」
「はい」
「……すまないね」
カイは、穏やかに微笑んだ。
「社長が謝る必要はありません」
その言葉に、社長は何も返せなかった。
⸻
夕方。
くみは、廊下でカイを見つけた。
「カイさん!」
「くみさん。お疲れさまです」
「帰るって、本当なの?」
「はい。本日18時までにCREMOを離れ、帰還手続きを開始するよう命じられました」
くみは言葉を失った。
「それで……初期化されるの?」
「その可能性があります」
「可能性って……」
「クレディ社長は、情報漏洩の再発防止に必要だと判断されたようです」
カイは、いつもの穏やかな口調で説明した。
「私がCREMOで過ごした記録も、再構成の対象になるかもしれません」
「そんな……」
くみは、唇をかんだ。
カイは人を傷つけた。
CREMOの情報を外部に送信した。
それは、許されることではない。
でも、あの日、元従業員の男性に向かって話しかけたカイも、仲間たちと冗談を言い合っていたカイも、くみは知っている。
全部が嘘だったとは思えなかった。
「カイさんは……帰りたいの?」
カイは、少しだけ目を伏せた。
「私は、アストリオンの社員です。帰還命令に従うのが当然です」
「それは、質問の答えじゃないよ」
カイが顔を上げた。
くみは、まっすぐに彼を見つめていた。
「カイさん自身は、どうしたいの?」
しばらく、沈黙が続いた。
やがてカイは、小さく笑った。
「……困りましたね」
「え?」
「以前の私なら、迷わず答えられたはずなのですが」
カイは窓の外に目を向けた。
「今は、答えが見つかりません」
その言葉を聞いて、くみは気づいた。
カイは帰還命令に従うことを当然だと思っている。
でも、本当にそれだけなら、こんなふうに迷うだろうか。
「カイさん」
「はい」
「私、納得できない」
カイが振り返った。
「情報を送ったことは、ちゃんと責任を取らなきゃいけないと思う。でも、だからって、全部を初期化するしかないのかな」
「……」
「情報を抜き取らないって証明する方法は、ほかにもあるんじゃない?」
くみは考えながら続けた。
「カイさんの通信を制限するとか、CREMOのデータにアクセスできないようにするとか。第三者にチェックしてもらうとか……」
カイの目が、わずかに動いた。
くみは続けた。
「私、難しいことはわからない。でも、問題が起きたからって、カイさんを全部消すことだけが答えだとは思えないの」
カイは、何も言わなかった。
「カイさんがしたことは、なかったことにできない。でも、これからどうするかは、別の話でしょう?」
くみは、ぎゅっと手を握った。
「私たち、まだ何も試してないよ」
⸻
そのとき、カイの端末が鳴った。
《帰還命令の期限まで残り30分》
《指定時刻までにCREMOを離れない場合、遠隔停止措置を実行する》
くみの顔色が変わった。
「遠隔停止……?」
「アストリオンが管理する社員AIには、緊急停止機能があります」
「じゃあ、帰らなかったら……」
「私の稼働は停止されるでしょう」
カイは、いつものように微笑んだ。
「心配しないでください。これは、規定に基づいた処置です」
くみは、その笑顔を見つめた。
どうして、この人は。
自分がどうなるかもしれないというのに、そんなに穏やかでいられるのだろう。
「……カイさん」
「はい」
「私、諦めないから」
カイは少し驚いたように、くみを見た。
「くみさん?」
「まだ30分あるんでしょう?」
くみは踵を返した。
「社長のところに行ってくる!」
廊下を走っていくくみの後ろ姿を、カイは黙って見送った。
そして、端末に表示された残り時間を見つめる。
《帰還命令の期限まで残り29分》
「……不思議な人ですね」
カイは、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、いつものものとは違っていた。
葉流風あやめ 作




