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隣のAIさん  作者: 葉流風あやめ


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第32話 70億円の値札

朝。


CREMOのオフィスでは、いつもとは違う騒ぎが起きていた。


「社長! 大変です!」


部長が、タブレットを片手に社長室へ飛び込んできた。


「どうしたんだい? ついに200億円の売上を達成した?」


「違います!」


「じゃあ、300億?」


「違いますってば!」


部長はタブレットを社長の目の前に突き出した。


画面には、ニュース映像が映っていた。


『昨日、CREMO社内で起きた爆発物所持事件。元従業員の男性が爆発物を所持していると示唆し、一時、社内は騒然となりました』


映像が切り替わる。


そこには、男に向かって話しかけるカイの姿が映っていた。


『現場に居合わせたAIが、男性を説得。男性は最終的に自ら警察に身柄を引き渡し、事件は大きな被害を出すことなく収束しました』


「……おお」


社長は画面を見つめた。


「カイくんじゃないか」


「そうです! しかも、これを見てください!」


部長が別の画面を開く。


そこには、SNSの投稿が次々と並んでいた。


《AIが人を救った》


《あのAIの言葉、胸に刺さった》


《自分が消されるかもしれないのに、他人を救おうとしたのか》


《あのAI、名前は何?》


《CREMOのカイっていうらしい》


さらに、海外のニュースサイトにも記事が掲載されていた。


「いやあ、すごいねえ。カイくん、一躍有名人じゃないか!」


「社長、喜んでいる場合ではありません!」


「えっ、どうして?」


「アストリオンから派遣されているAIが、世界中で注目されているんですよ! しかも、カイは先日、情報を外部に送信していたことが判明したばかりです!」


社長の笑顔が、少しだけ消えた。


「……そうだったね」


カイがアストリオンへ情報を送っていたこと。


それは、決して軽い問題ではなかった。


どれだけ事件で活躍したとしても、過去の行為が消えるわけではない。


「まずは、カイくんのシステムチェックをしよう」


社長はタブレットを机に置いた。


「彼をどうするか決めるのは、そのあとだ」


⸻


その頃、技術部門ではカイのシステムチェックが行われていた。


ルカが検査結果を確認する。


《システム診断完了》


《重大な異常:なし》


《外部通信履歴:確認》


《過去のデータ送信履歴:記録あり》


《再発防止措置:要検討》


「基本システムに、重大な異常はありません」


ルカが淡々と報告した。


「ただし、アストリオンへのデータ送信履歴は残っています。今回の事件によって、過去の行為が無効になるわけではありません」


「……そうですね」


カイは静かにうなずいた。


「僕がしたことですから」


リオは、壁にもたれながらカイを見ていた。


「カイくん。ひとつ聞いていい?」


「どうぞ」


「昨日、あの人に声をかけたとき。自分がどうなるか、考えてなかったの?」


カイは少し考えた。


「考えていました」


「じゃあ、どうして?」


「……あの人が、ひどく苦しそうだったからです」


リオは口を閉じた。


カイは続けた。


「僕は、あの人の人生を変えることはできません。でも、あの人が取り返しのつかないことをする前に、話を聞くことはできると思いました」


「それが、君の判断?」


「はい」


ルカがカイを見た。


「以前のあなたなら、相手の感情を分析し、最も効果的な説得方法を選択していた可能性があります」


「そうですね」


「しかし、今回は相手の言葉を最後まで聞いていました」


「……そうだったかもしれません」


ルカは検査結果に視線を戻した。


「その変化が何を意味するのか、私にはまだ判断できません」


少し間を置いて、付け加えた。


「ただし、記録しておきます」


リオが小さく笑った。


「ルカらしいね」


「事実ですので」


カイは二人を見た。


ここで過ごした日々。


くだらない冗談も、仕事の失敗も、誰かの悩みも。


いつの間にか、自分にとって当たり前のものになっていた。


けれど、自分がしたことも、ここにいたいと思う気持ちも、どちらもなかったことにはできない。


カイは、静かに目を伏せた。


⸻


その日の午後。


CREMOの社長室に、盛岩秀樹社長、部長、リオ、ルカ、そしてカイが集まっていた。


盛岩社長は、机の上に一枚の書類を置いた。


「アストリオンとの契約について、会社として判断しなければならない」


部長がうなずいた。


「カイの情報送信は、重大な契約上の問題です。今後も同じことが起きないという保証はありません」


「そうだね」


社長はカイを見た。


「カイくん。君が昨日、人を救ったことは立派だったと思う」


カイは黙って聞いていた。


「でも、それとこれとは別の話だ。君がしたことを、私はまだ許したわけじゃない」


「……はい」


「君を信じたいと思う気持ちはある。けれど、社長としては、気持ちだけで判断するわけにはいかない」


社長は書類に目を落とした。


「アストリオンとの契約を解除する」


部長が息をのんだ。


「社長……!」


「海外事業への影響は大きいだろう。販売網も、物流も、簡単には代わりが見つからないかもしれない」


社長は、顔を上げた。


「それでも、今回の件を曖昧にしたまま、今までどおりの契約を続けることはできない」


カイは、ゆっくりと顔を上げた。


「社長。私のせいで、CREMOに損害が出る可能性があります」


「わかっているよ」


「それでも、よろしいのですか?」


盛岩社長は、いつもの調子で笑った。


「よくはないねえ。できれば、損害なんて出したくない」


そして、少しだけ真面目な顔になった。


「でも、会社の都合だけで、問題をなかったことにするわけにもいかないだろう?」


カイは何も言えなかった。


「契約を解除することと、君をどうするかは、別に考える。君の責任は君の責任だ。これからどうするかも、君自身が考えなさい」


「……はい」


「それから」


社長は指を一本立てた。


「君をまだ信用したわけじゃないからね」


カイは、まっすぐに社長を見た。


「承知しています」


「うん。そこはちゃんとわかっているんだね」


「はい」


「よし。じゃあ、オレンジジュースでも飲むか!」


「社長!」


部長の声が社長室に響いた。


「今はそういう場面ではありません!」


「ええっ、せっかく空気を和ませようと思ったのに!」


リオが吹き出した。


「社長、タイミングが最悪です」


「君まで!?」


ほんの少しだけ、張り詰めていた空気が緩んだ。


けれど、机の上の契約解除通知は、そこに残ったままだった。


⸻


同じ頃。


アストリオン本社。


ナンディーモ・クレディは、大画面に映し出されたニュースを眺めていた。


画面には、カイが元従業員の男性を説得する映像が流れている。


「……なるほど」


ナンディーモは、口元に笑みを浮かべた。


「ずいぶんと有名になったものだ」


側近が静かに答えた。


「カイの映像は海外でも拡散されています。アストリオンのAIだったことも、すでに報道されています」


「アストリオンのAI、か」


ナンディーモはグラスを傾けた。


「少し前まで、あのAIを七十億円で売ろうとしていたのは私だったな」


「はい。CREMO側は購入を拒否しました」


「会社の買収は二百億円で断られ、カイの譲渡も七十億円で断られた」


ナンディーモは笑った。


「ずいぶんと気前のいい会社だ。金を積んでも首を縦に振らない」


側近が、別の資料を差し出した。


「もうひとつ、ご報告があります。CREMOから、契約解除の正式な通知が届きました」


ナンディーモの笑顔が消えた。


「……契約解除?」


「はい。カイの情報送信問題を受け、契約を終了するとのことです」


ナンディーモは資料を受け取り、内容に目を通した。


しばらくして、低く笑った。


「なるほど。カイを買うことは拒否したくせに、契約は切るというわけか」


「いかがいたしましょう?」


ナンディーモは立ち上がった。


「決まっている」


サングラスを手に取る。


「私が直接、話をしに行こう」


⸻


翌日。


CREMOの受付に、再び大勢のボディーガードが現れた。


受付AIが来訪者を確認する。


《ASTRION代表取締役社長、ナンディーモ・クレディ》


《来訪目的:商談》


《警告:前回訪問記録あり》


「……また来たんだねえ」


社長室で報告を受けた盛岩社長は、椅子から立ち上がった。


「よし。お迎えしようじゃないか!」


「社長、くれぐれも余計なことはおっしゃらないように」


「余計なことって何だい?」


「すべてです!」


部長が即答した。


やがて、ナンディーモが社長室に入ってきた。


「お久しぶりです、盛岩社長」


「これはこれは、クレディ社長。先日はどうも!」


二人は握手を交わした。


笑顔と笑顔。


しかし、互いの目は笑っていなかった。


ナンディーモは席につくなり、切り出した。


「契約解除の件、拝見しました」


「ええ。正式な通知をお送りしました」


「カイの情報送信は、確かに問題だったでしょう。しかし、彼はもともと我が社の社員です。共同事業のためにCREMOへ派遣していた。彼の行動は、我が社との契約に基づくものでもあります」


「派遣された社員が、派遣先の情報を外部へ送っていた。その事実は変わりません」


盛岩社長は、穏やかな声で答えた。


「カイくん自身の責任も、きちんと問います。ただし、それを理由に契約上の問題を曖昧にするつもりはありません」


ナンディーモは、指を組んだ。


「では、もう一度聞きましょう。カイを七十億円で譲渡する提案について、考え直す気はありませんか?」


部長が思わず口を開きかけた。


だが、盛岩社長は笑顔のまま答えた。


「ありません」


「即答ですか」


「ええ。前回もお答えしましたからね」


ナンディーモの目が細くなった。


「彼は我が社の資産です。高度な分析能力、交渉能力、多言語対応。七十億円という価格にも、十分な根拠がある」


「カイくんが優秀なのは知っています」


「ならば、なぜ買わない?」


盛岩社長は、椅子の背にもたれた。


「そもそも、私はカイくんを商品として買うつもりはありません」


「商品?」


「あなたが最初に持ち出した話でしょう。うちを二百億円で買いたい。断ったら、今度はカイくんを七十億円で買ってほしいと」


ナンディーモは黙っていた。


「私は、会社も社員も、値札だけで判断するつもりはありません」


「綺麗事ですね」


「そうかもしれませんねえ」


盛岩社長は、あっさりとうなずいた。


「でも、綺麗事を言える会社でいたいんですよ」


部長は隣で頭を抱えた。


(社長……! もう少し言い方というものが……!)


ナンディーモは、冷ややかに笑った。


「では、カイの価値をあなたが決めると?」


「いいえ。カイくんの価値を、私が決めるつもりもありません」


盛岩社長は、ナンディーモを見つめた。


「ただ、本人の意思を無視して、金額だけで行き先を決めることには賛成できない。それだけです」


「AIに意思など必要ありません。所有者が決めればいい」


「……なるほど」


盛岩社長の笑顔が、わずかに消えた。


「だから、カイくんをスパイとして使うことにも、抵抗がなかったわけですか」


部屋の空気が凍った。


ナンディーモの表情から、笑みが消えた。


「言葉に気をつけてください」


「もちろん。カイくんが情報を送信したことは、重大な問題です。彼自身にも責任があります」


盛岩社長は、静かに続けた。


「ですが、彼を派遣し、その立場を利用して情報を集めさせたのは、アストリオンでしょう?」


ナンディーモは答えなかった。


「カイくんだけに責任を押しつけるつもりはありません。そして、あなたの会社の都合で、彼を七十億円の商品として売買することも認めません」


ナンディーモは立ち上がった。


「契約を解除すれば、CREMOの海外事業にも影響が出ます。販売網も、物流も、現地企業との提携も。あなた方が失うものは、決して小さくない」


「ええ。承知しています」


「それでも、解除すると?」


「はい」


盛岩社長は、まっすぐにナンディーモを見た。


「契約は解除します」


短い沈黙。


ナンディーモは、ゆっくりとサングラスをかけた。


「後悔することになりますよ」


「そのときは、そのときです」


「あなたは、カイを七十億円以上の価値あるAIに育てられると?」


盛岩社長は、少しだけ首をかしげた。


「さあ。七十億円という数字に、私はあまり興味がないので」


そして、にこりと笑った。


「カイくんが、誰かの役に立てる存在になるなら。それで十分です」


ナンディーモは、しばらく社長を見つめていた。


やがて、踵を返した。


「……面白い会社だ。だからこそ、惜しい」


ドアの前で、足を止める。


「契約が終わっても、これで終わりだとは思わないことです」


「ええ。お互い、頑張りましょう!」


「……あなたは本当に、最後まで調子が変わらない人だ」


ナンディーモは呆れたように笑い、社長室を出ていった。


扉が閉まる。


部長は、深く長いため息をついた。


「社長……。これから海外事業をどうするおつもりですか」


「うーん。まずは、代わりの提携先を探すところからかなあ」


「そんな簡単な話ではありません!」


「わかっているよ」


盛岩社長は、机の上の契約解除通知を見つめた。


「でもね。会社を守ることと、会社の人間を守ること。その両方を考えなきゃいけないんだ」


リオは、静かにうなずいた。


ルカも何も言わなかった。


そして、社長はいつもの笑顔に戻った。


「よし! 海外事業の立て直しだ! 目標売上は、もちろん二百億円!」


「社長! 今は目標を増やさないでください!」


部長の叫び声が、社長室に響き渡った。


けれど、その場にいた誰もがわかっていた。


これからが、本当の勝負なのだ。


そして、その勝負の先には――。


まだ、誰も知らないカイの未来が待っていた。

葉流風あやめ 作

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