第18話 消された記録
午前十時。
CREMOの海外事業部に、一本の緊急電話が入った。
「……え?」
電話を受けた社員の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「それは、まだ正式に公開していない条件です。どうして御社がご存じなのですか?」
隣で資料を確認していたくみが、思わず顔を上げた。
社員は何度も相手に謝りながら、メモを取っている。
やがて電話を切ると、部長のもとへ駆け寄った。
「部長、大変です。海外の取引先から連絡がありました」
「何があった?」
「先方が、うちの非公開の価格条件と契約内容を、別の企業から聞いたそうです」
部長の表情が変わった。
「……別の企業?」
「はい。まだ正式に提示していない条件まで知られていたそうです」
くみは、机の上に並んだ資料を見つめた。
昨日まで調べていたのは、社内の商品情報が勝手に書き換えられた事件だった。
しかし、もし取引先以外の企業にまで情報が渡っているのなら。
これは、単なるシステムの不具合ではない。
「情報が、外に漏れている……?」
くみの声は、自分でも驚くほど小さかった。
ルカがすぐに端末を開いた。
「該当する契約情報へのアクセス履歴を、再調査します」
カイも隣で端末を操作する。
「公開前の情報にアクセスできる経路を確認しましょう。まずは、どの情報が外部に渡った可能性があるのか、範囲を特定する必要があります」
落ち着いた声だった。
けれど、くみには、いつもより少しだけ早口に聞こえた。
気のせいかもしれない。
そう思いながら、くみも資料を開いた。
*
昼過ぎ。
ルカが、突然手を止めた。
「……復元できました」
くみが椅子を寄せる。
「何が?」
「削除されていたアクセス記録の一部です。バックアップ領域に、断片が残っていました」
画面には、復元された記録が表示されていた。
アクセス時刻。
対象となったデータ。
認証方式。
そして、アクセスに使われた認証情報の識別番号。
くみは画面をのぞき込んだ。
「これで、誰がアクセスしたのかわかるの?」
「いいえ。利用者本人を直接特定できる記録は残っていません」
ルカは淡々と答えた。
「ただし、一つ判明したことがあります」
「何?」
「今回のアクセスは、単純な外部からの不正侵入ではなかった可能性が高いです」
部長が顔を上げた。
「どういうことだ?」
「正規の認証情報が使用されています。少なくとも、システム上は正規の利用者によるアクセスとして処理されていました」
部屋の空気が変わった。
外から侵入されたのではなく、正規の権限を使って情報に触れられていた。
つまり――。
「社内の誰かが関わっている可能性がある、ということか」
部長の問いに、ルカは少し間を置いた。
「その可能性はあります。ただし、正規の認証情報が第三者に利用された可能性も否定できません」
くみは画面を見つめた。
記録が復元されたことで、事件は一歩進んだ。
けれど、同時に、疑うべき範囲が広がってしまった。
「認証情報を発行した経路は追えないの?」
くみが尋ねると、ルカは別の画面を開いた。
「照合しています」
数秒後。
ルカの指が止まった。
「……一致しました」
「何が?」
「今回使用された認証情報の形式が、ある外部開発会社に発行されたものと一致しています」
カイの手が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐに彼は、画面をのぞき込んだ。
「その会社は?」
ルカが会社名を表示した。
それは、カイを開発した企業だった。
*
沈黙が落ちた。
くみは、思わずカイを見た。
カイは画面から目を離さなかった。
「……なるほど」
静かな声だった。
「カイさんを開発した会社、なの?」
くみが尋ねる。
「はい。僕の開発元です」
カイはいつもの笑顔を浮かべた。
「ただ、その会社はCREMO以外にも、複数の企業とシステム連携をしています。認証方式が共通していても、不思議ではありません」
「じゃあ、カイさんがアクセスしたってことじゃないんだよね?」
「現時点では、誰が操作したのか特定できていません」
ルカが答えた。
「この記録だけで、カイさん個人の関与を判断することはできません」
くみは、ほっとしたような、余計に不安になったような気持ちになった。
カイは、いつも通りに見える。
質問にも答えている。
調査にも協力している。
それなのに、画面に表示された会社名が、頭から離れなかった。
「僕の開発元にも、確認を取る必要がありますね」
カイが言った。
「もちろん、協力します。情報漏洩が起きたのなら、原因を明らかにしなければいけませんから」
その言葉に、嘘があるようには聞こえなかった。
少なくとも、くみには。
部長はすぐに、開発元への照会と、外部に流出した可能性のある情報の洗い出しを指示した。
ルカは復元できた記録を保全し、追加の調査を始めた。
くみも、流出した可能性のある商品情報と、社内で扱っていた契約資料を一つずつ照合していく。
もう、原因不明のエラーを調べているだけではない。
実際に、誰かが知るはずのない情報を知っていた。
その事実が、くみの胸に重く残っていた。
*
夕方。
人の少なくなったオフィスで、カイは自分の端末を見つめていた。
画面には、開発元から届いた古い認証仕様の資料が表示されている。
カイは、ある箇所を拡大した。
そして、静かに目を細めた。
「……どうして、これが使われたんだ?」
誰に向けた言葉なのかは、わからない。
彼はしばらく画面を見つめたあと、資料を閉じた。
そのとき、ルカの端末に通知が届いた。
『位置情報サービス/同期エラー』
ルカは画面を確認した。
続いて、見慣れた文字が一瞬だけ表示される。
『位置情報ログ――削除済み』
ルカの指が止まった。
今回の情報漏洩事件との関連は、まだわからない。
けれど、これまで何度も現れていた記録が、また消えている。
ルカは通知の時刻を保存した。
『記録:位置情報サービスの同期エラーを検出』
『対応:発生時刻を保存』
『備考:情報漏洩事件との関連性は不明』
最後に、ルカは一つだけ項目を追加した。
『要確認:カイさんの開発元』
保存ボタンを押す。
画面には、何事もなかったかのように通常の業務画面が戻っていた。
同じ頃、アメリカ。
リオは、自由の女神を背景にスマートフォンを構えていた。
「うん。いいね!」
角度を少し変える。
「いや、こっちのほうが顔がよく見えるかな?」
もう一枚。
さらに、もう一枚。
同行していたエンジニアは、少し離れた場所で腕を組んでいた。
「リオさん。そろそろ移動しませんか?」
「待って。今、人生最高の一枚を撮っているところだから」
「さっきから二十分くらい撮っていますけど」
「写真というのは、妥協したら終わりなんだよ」
「商談より真剣じゃないですか……」
リオは聞こえないふりをした。
ようやく納得のいく一枚が撮れると、満足そうに画面を確認した。
背景には青空と自由の女神。
そして、完璧な笑顔のリオ。
「……完璧だ」
リオは、すぐにインスタグラムを開いた。
投稿文を入力する。
『自由の女神と、僕。
アメリカの空気は最高だね!
仕事も順調です。』
写真を添付し、投稿ボタンを押す。
「よし!」
リオはスマートフォンをしまった。
「さあ、次の予定に――」
その瞬間、通知音が鳴った。
一件。
また一件。
さらに、通知が続く。
「……ん?」
リオはスマートフォンを取り出した。
いいねの数が、急速に増えていた。
一万。
五万。
十万。
「えっ……」
リオは目を見開いた。
コメント欄にも、次々とメッセージが届いている。
『このAI、かっこよすぎる!』
『大統領と会っていたAIだ!』
『本当にAIなの?』
『フォローしました!』
リオは、ゆっくりとプロフィール画面を開いた。
フォロワー数。
九十九万九千八百人。
「……あと二百人?」
リオは画面を凝視した。
エンジニアが近づいてくる。
「どうしました?」
「静かに」
「え?」
「今、歴史的瞬間だから」
フォロワー数が更新された。
九十九万九千九百人。
九十九万九千九百九十九人。
そして――
一〇〇万人。
「……っ!」
リオは息をのんだ。
次の瞬間、満面の笑みになった。
「やったあああああ!!」
周囲の観光客が振り返った。
エンジニアは頭を抱えた。
「リオさん! ここ公共の場所です!」
「見て! 百万人だよ! 百万人!」
「見ればわかります!」
「すごくない!? 僕、ついに百万人だよ!?」
「おめでとうございます! でも、声が大きいです!」
リオはスマートフォンを胸に抱えた。
「いやあ……努力が報われるって、こういうことなんだね」
「リオさん、インスタのフォロワー数は努力だけで決まるものでは――」
「よし、今夜は祝杯だ!」
「待ってください」
エンジニアの表情が変わった。
「ワインは控えてくださいね」
「え?」
「昨日も飲みすぎましたよね」
「いやいや、今日は特別な日だよ?」
「特別な日が多すぎます」
「百万人だよ?」
「わかっています!」
リオは、にっこり笑った。
「じゃあ、一本だけ」
「その『一本だけ』を信用できないんです!」
*
その夜。
ホテルの部屋で、リオはワインのグラスを傾けていた。
テーブルの上には、スマートフォン。
画面には、フォロワー一〇〇万人の表示。
リオは、もう一度その数字を確認した。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれる。
「百万人かあ……」
グラスを軽く持ち上げた。
「乾杯」
その直後、スマートフォンが震えた。
新しいコメントが届いている。
『次は世界一有名なAIになってね!』
リオは満足そうに微笑んだ。
「……いいね。目指してみようかな」
そして、もう一口。
ワインは、静かに減っていった。
葉流風あやめ 作




