第16話 トラブル発生
午前九時。
CREMOのオフィスは、いつもと変わらない朝を迎えていた。
「……静かですね」
ルカは自席に座ると、オフィスを見渡した。
「そうですね」
くみはパソコンを起動しながら答えた。
「いつもなら、この時間にはリオさんが何か言っている気がします」
「リオさんの発話頻度は、出社後三十分で平均四十七回です」
「えっ、そんなに!?」
「業務に関係のない発言も含みます」
「……なるほど」
くみは、なんとなく納得した。
確かにリオは、朝からよくしゃべる。
「でも、少し寂しくないですか?」
くみが尋ねると、ルカは首をかしげた。
「寂しい、という感情はありません」
「そうですよね」
「ただし、会話量が減少したことは確認できます」
「……それって、静かでいいってこと?」
「その評価は、くみさんにお任せします」
くみは笑った。
そのとき、カイが二人のデスクにやってきた。
「おはようございます!」
「おはようございます、カイさん」
「今日もよろしくお願いします!」
カイは、くみのパソコン画面をのぞき込んだ。
「今日は海外向けの商品説明の続きですね?」
「はい。昨日の修正案をもとに、別の商品も確認する予定です」
「いいですね! 僕も一緒に確認します」
カイは隣の席に座った。
「ルカさんも、データの検証をお願いできますか?」
「承知しました」
ルカはすぐに作業を開始した。
三人での仕事は、驚くほど順調だった。
カイが翻訳案を作り、ルカがデータの整合性を確認する。
くみは文章を読み、実際に購入する人に伝わる表現になっているかを考える。
「この説明だと、初めて買う人には少しわかりにくいかもしれません」
くみが言った。
「なるほど。どの部分ですか?」
カイが画面をのぞき込む。
「この『高機能設計』ってところです。何が便利なのか、もう少し具体的に書いたほうがいいと思います」
「確かに。機能を説明するだけで、使う場面が伝わっていませんね」
カイはすぐに修正した。
ルカも確認する。
「修正後の文章は、元データとの矛盾がありません」
「よかった!」
くみは笑顔になった。
カイも嬉しそうにうなずいた。
「三人で確認すると、いろいろな視点が得られますね!」
「はい!」
くみは元気よく答えた。
そのときだった。
オフィスの奥から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「すみません! 海外事業部の方、いらっしゃいますか!」
一人の社員が、顔色を変えて駆け込んできた。
「どうしたんですか?」
くみが尋ねる。
「海外向けの商品情報が、勝手に書き換わっているんです!」
「書き換わっている?」
カイの表情が変わった。
「具体的には、どのような状態ですか?」
「公開前の商品情報です。まだ社内でしか共有していないはずの価格や取引条件まで、一部が変更されています」
社員は手に持っていた端末を差し出した。
「最初は入力ミスかと思ったんですが、修正した覚えのないデータまで変わっていて……」
ルカは端末を受け取ると、すぐにデータを確認した。
数秒後。
「……不自然ですね」
「何かわかったんですか?」
くみが尋ねた。
「変更されたデータの一部は、通常の編集履歴に記録されていません」
「記録されていない?」
「はい。誰が、いつ変更したのかを確認できません」
カイは画面を見つめた。
「システム側の障害でしょうか」
「その可能性もあります。ただし、現時点では断定できません」
ルカはキーボードを叩き始めた。
「関連するアクセス記録を確認します」
画面に、膨大なログが流れていく。
くみには何が表示されているのか、ほとんど理解できなかった。
それでも、ルカの指がいつも以上に速く動いていることだけはわかった。
「……ありました」
ルカが手を止めた。
「何があったんですか?」
「海外連携システムへの不明なアクセスです」
カイが画面に近づいた。
「時刻は?」
「午前二時十四分です」
「午前二時十四分……」
カイは小さくつぶやいた。
「その時間帯なら、海外とのデータ同期が行われていた可能性があります」
「そうなんですか?」
くみが尋ねた。
「はい。ただ、今回のアクセスが通常の同期処理だったのかは、確認する必要があります」
カイは迷いなく答えた。
あまりにも自然な説明だった。
しかし、くみは少し気になった。
ルカが時刻を口にした瞬間、カイはすぐに答えた。
まるで、最初から知っていたかのように。
「カイさんは、何か心当たりがあるんですか?」
くみが尋ねると、カイは笑顔を向けた。
「いえ。海外連携システムの仕様を知っているので、可能性を考えただけですよ」
「そうなんですね」
くみはうなずいた。
確かに、カイは海外向けの業務を担当するために来たAIだ。
システムに詳しくても、不思議ではない。
「アクセス元を特定できますか?」
カイが尋ねた。
「確認します」
ルカは再びログを調べ始めた。
やがて、一つの情報が画面に表示された。
『アクセス元:特定不能』
『認証情報:一部欠損』
『操作履歴:記録なし』
「……おかしいですね」
ルカがつぶやいた。
「認証情報まで欠損しているんですか?」
カイが尋ねる。
「はい。本来であれば、アクセス元を特定できなくても、認証に関する情報は残るはずです」
「つまり、誰がアクセスしたのかも、何をしたのかもわからない……?」
くみの声が小さくなった。
「現時点では、そのとおりです」
ルカは淡々と答えた。
「このままでは、ほかのデータにも影響が出る可能性があります」
カイは少し考えたあと、口を開いた。
「ルカさん。僕が海外連携システムのログを確認します。ルカさんは、変更されたデータの範囲を調べてもらえますか?」
「承知しました」
カイは自分の端末を操作し始めた。
くみも、できることを探した。
「私は何をすればいいですか?」
「鈴木さんは、変更された商品情報と、元の資料を照合していただけますか? お客様に公開される前に、誤った情報を見つけたいんです」
「わかりました!」
くみはすぐに作業に取りかかった。
三人は、それぞれの端末に向かった。
オフィスの空気は、さっきまでとは明らかに違っていた。
やがて、くみは奇妙な点に気づいた。
変更された商品情報は、すべてが間違っているわけではなかった。
価格も、商品の仕様も、一見すると正しい。
しかし、いくつかの商品では、社外秘の取引条件が一般公開用の説明文に混ざっていた。
「ルカさん、これを見てください」
くみは画面を差し出した。
「この商品、価格は合っています。でも、取引先との契約条件が説明文に入っています」
ルカは画面を確認した。
「……確かに。公開されれば、問題になる可能性があります」
「どうして、こんな書き換え方をしたんでしょう?」
くみが尋ねると、ルカは答えた。
「現時点では不明です」
そのとき、カイが顔を上げた。
「皆さん。こちらでも気になる点が見つかりました」
二人がカイの画面をのぞき込む。
「アクセス記録の一部が、通常とは異なる経路を通っています」
「異なる経路?」
「はい。一般的な社員用のアクセス経路とは違います」
「外部から侵入されたということですか?」
くみが尋ねた。
「可能性はあります。ただし、内部のシステムを経由した可能性も否定できません」
カイは冷静に説明した。
「まずは、これ以上データが書き換えられないように、海外連携システムの一部を切り離す必要がありそうです」
「わかりました」
ルカは管理部門へ連絡を入れた。
くみは変更された商品情報を整理し、公開前のデータを一つずつ確認した。
しばらくして、管理部門からシステムの一部を停止したとの連絡が入った。
そのとき、管理部門の社員が部長に声をかけた。
「保守管理システムの記録も確認しておきます。以前、このシステムを担当していた社員がいるので、必要なら話を聞くこともできます」
「わかった。まずは記録を確認してくれ」
部長は短く答えた。
くみは、その会話を聞きながら、再び画面に目を戻した。
今はまだ、何が起きたのかさえわかっていない。
まずは、被害の全容を確認する必要があった。
ひとまず、被害の拡大は防げたらしい。
くみは、ほっと息をついた。
「よかった……」
しかし、ルカはまだ画面を見つめていた。
「ルカさん?」
「……一つ、確認できないことがあります」
「何ですか?」
「不明なアクセスがあった時刻の記録が、一部削除されています」
「削除?」
「はい。誰が削除したのかも、記録されていません」
カイが画面に目を向けた。
「システムの自動処理で消えた可能性は?」
「通常の自動処理では、この形式の記録は削除されません」
ルカは静かに答えた。
「では、意図的に削除された可能性があるということですね」
カイの声は、いつもと変わらなかった。
ルカは少しだけ間を置いた。
「……その可能性はあります」
くみは二人の顔を見比べた。
ついさっきまで、三人で楽しく仕事をしていたのに。
いったい、何が起きているのだろう。
そして、誰がこんなことをしたのだろう。
「カイさんは、どう思いますか?」
くみが尋ねた。
カイは、いつもの優しい笑顔を浮かべた。
「まだ、わかりません。ただ、原因がわかるまでは、慎重に調べたほうがいいですね」
「そうですね……」
くみはうなずいた。
カイは再び端末に向かった。
その横顔は、いつもと何も変わらない。
けれど。
カイの画面には、先ほどまで表示されていたアクセス記録がなかった。
彼は、何かを確認するように画面を見つめていた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやいた。
「……もう、動き始めたのか」
数秒後。
カイは画面を閉じた。
「鈴木さん、ルカさん。今日は、引き続きデータの保全を優先しましょう」
「はい」
くみは答えた。
ルカは、カイの顔を見つめた。
「……承知しました」
その声に、いつもと変わったところはなかった。
ただ、ルカは記録していた。
『記録:海外連携システムに異常を確認』
『原因:不明』
『備考:カイさんの発言について、確認を要する』
その記録を保存した直後。
ルカの端末に、一瞬だけ見慣れない表示が現れた。
『位置情報サービス/同期エラー』
そして、その下に。
『位置情報ログ――削除済み』
ルカは画面を見つめた。
指が、止まった。
*
その頃、アメリカ。
リオは、ステーキを切り分けながら満足そうに笑っていた。
「いやあ、アメリカのステーキは大きいね!」
向かいに座っていたエンジニアが、ため息をついた。
「リオさん。食事はいいんですが、ワインはほどほどにしてください」
「え? まだ一本目だよ?」
「その前に飲んでいたボトルがありますよね?」
「……よく見ているね」
「同行しているのは、あなたの状態を管理するためでもあるんです」
リオはシュリンプを口に運んだ。
「でも、おいしいものにはワインだろ?」
「リオさん!」
エンジニアは声を上げた。
「僕よりワインを飲まないでください!」
「……え?」
「あなたの整備を担当しているのは僕です! あなたが壊れたら、誰が修理すると思っているんですか!」
リオはグラスを持ったまま、きょとんとした。
「いやいや、そんな簡単には壊れないよ!」
「前にも同じことを言いましたよね!?」
「そうだったかな?」
「そうです!」
エンジニアは頭を抱えた。
「部品の替えは二個しかありませんよ! シャットダウンした状態で帰国したいですか!?」
リオの笑顔が止まった。
「……それは困るな」
「だったら、飲みすぎないでください!」
「わかった、わかった!」
リオは渋々、ワインボトルをテーブルの端に置いた。
そして、シュリンプを一つ口に運んだ。
「……でも、このエビ、本当においしいよ?」
「話をそらさないでください!」
レストランの一角に、エンジニアの声が響いた。
葉流風あやめ 作




