ブロック解除権は契約に含まれません
俺に打てる手段はもう一つしか残されていなかった。
俺は意を決して、一学年下の妹の教室へと向かった。
まだ始業前だというのに、日和を含めたギャル三人衆が廊下でデカい声で話していた。話題は間違いなく、昨夜の俺の『大罪』についてだ。
「おい、日和。昨日のあれは――」
俺が声をかけた瞬間、廊下にいた全生徒の視線が一斉に俺へと集まった。
すかさず周りのギャルたちが騒ぎ立てる。
「うわ、犯罪者が直談判しに来たんだけど!」
「マジ無理、誰か先生呼んで!」
このままでは俺は、社会的抹殺の檻の中で一日を過ごすことになる。背に腹は代えられない。俺は男としてのプライドの全てをドブに投げ捨てた。
「おい、日和、いや――日和様。LINEで拡散、やめてもらえますか?」
「は? 謝んの、ウチじゃなくね?」
冷たく言い放つ日和だったが、ここで思わぬ救いの手が差し伸べられた。
実際に「被害」にあったはずのギャル――ユナが、気まずそうに口を開いたのだ。
「ひ、ひよりん、さすがにそれくらいにしとこ?アタシ、実際には胸じゃなく肩を触られたんだし……」
さらには、もう一人のギャル――あゆっちも言葉を重ねる。
「まあ、ユナがそう言うんならいいけどー。でもあーしらのグループLINEのスクショ消させるの、超めんどいんだよね。まあ、なんか奢ってもらって手打ちにするべ?」
おお。ギャルと言えども、血も涙もない悪魔ではなかったのだ。彼女たちのなかに確かに存在するギャル特有の優しさに、俺は胸を熱くした。
だが、直後。
「はあ? ユナもあゆっちも甘くね?」
冷酷に言い放ったのは、他でもない実の妹、日和だった。
一番救いがないのは、まさかの身内だった。
俺はガタガタと震える手で、覚悟を決めて懐から財布を取り出した。そして、中から俺の血と汗の結晶である津田梅子を抜き出し、恭しく両手で差し出した。
小六の時の、あの『お年玉袋を取り替えてくれた詐欺師の笑顔』を、俺はもう一度だけ信じるしかない。
「これで……これで日和様、なんとかなりませんか……!」
五千円札の眩い輝きが日和の瞳に映る。
「……チッ。まあ、アンタがそこまで言うなら、今回の件は『ただのドジ』ってことで訂正LINE回してあげてもいいよ」
日和は目にも留まらぬ素早い手つきで五千円札をひったくると、スマホを操作し始めた。
結局、俺は自分の社会的信用を現金で買い戻すのだった。
カツアゲは、兄妹だから親族相盗例で刑は免除……いや、これは恐喝罪だから親族間でも免除されない……つまりこれは完全なる犯罪……?
そんな虚しい法律解釈を頭の中でグルグルと回しながら、二度と取り戻すことができない五千円札への未練を残し、俺は自分の教室へと、重い足取りで戻っていった。
がっくりと肩を落として自分の教室に着くと、すっと眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げる気配がした。
今朝、俺を置いてきぼりにして逃げ出したはずの佐藤が、さも最初からそこにいたかのような顔で言った。
「やっぱり現金はギャルにも通じる最強のお札のようだね。きわめて合理的な解決だったよ、一ノ瀬君」
「……」
俺は何も言わず、死んだ魚のような目で佐藤を睨みつけた。
◇
放課後、夕日が差し込む教室の片隅。
「一ノ瀬君、まずいことになったな。君への悪意が怪異を呼び寄せている」
窓際の一番後ろの席。机に突っ伏したままの俺に、前の席の佐藤が体をひねって言った。
五時間目の前、佐藤が級長の権限で席替えを提案した。女子たちに露骨に距離を取られる俺を見かねて、俺を窓側の一番後ろの席に追いやったのだ。
俺の前の席は佐藤、左は窓、右は前田という軍陣となり、クラスの女子との交流をほぼ断たれた。俺をガチで怖がる高橋さんなどは対角線の端まで避難し、俺の心はリアルにえぐられていた。
さっきの六時間目の授業中だってそうだ。窓ガラスに爪を立てて登ってきた三匹の怪異を、佐藤は先生に「空気の入れ替えを」と微笑みながら一瞬の九字切りで消し去ってみせた。実力だけは本物なのだ。
だが、その裏で女子たちの「犯罪者がいるもんね」「空気よどんでるわw」という容赦ない私語まで消し去ることはできなかったらしい。
「噂のもとは絶ったのだから、週明けには悪意が収まるだろう」
佐藤はすっと眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、至極真面目な顔で言葉を返してきた。
「問題は、この金土の二日間だ。君への悪意の残滓が最も濃いのは今夜、そして明日だ。もしこのまま自宅に一人でいればどうなるか、分かるかい?」
「……家が、心霊スポットになるな。日和も巻き込む」
「正解。だから、仕方がない。金土の夜は僕が君の家に泊まりに行こう。共同作戦を行った仲だ、最後まで責任を持とうじゃないか」
「佐藤、お前……」
俺は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
クラスの全員からゴミを見るような目を向けられて孤立無援だった俺に、佐藤はごく当たり前のことのように「一緒に戦おう」と言ってくれたのだ。
「勘違いしないでくれよ。君をあんな目に遭わせた原因の一端は僕にもある。このまま君を一人にするのは、寝覚めが悪いからね」
佐藤は一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をして声を潜めた。
「さあ、そうと決まれば、君の家へ向かおう。――もちろん、日和さんへの報告は、すべて君の役目だけどね」
「そこは俺に丸投げかよ!!」
さっきまであれほど重く絶望的に思えた窓際の席だったが、佐藤が近くにいてくれるだけで、少しだけマシなものに思えてくるから不思議だ。
俺たちはカバンを持つと、夕暮れの教室を後にした。
校門を出たところで立ち止まり、俺はポケットからスマホを取り出す。
画面を開き、五千円を支払って「拡散停止」を了承してもらった日和のトーク画面を見つめる。文字を入力する指先が、怪異と対峙するとき以上に緊張で微かに震えた。
『今から帰る。昨日のことちゃんと説明したいから、佐藤も一緒にうちに泊める。迷惑はかけないから』
そう打ち込んで、ふと、画面の上部にある日和のアイコンに違和感を覚えた。
アカウント名の横に、小さくグレーの文字で『ブロック中』と表示されている。
「……嘘だろ」
入力途中の画面のまま、俺の指先が完全に凍りついた。
「どうしたんだい、一ノ瀬君。交渉は難航しているのかな?」
隣でのぞき込んできた佐藤が、俺のスマホ画面を見た瞬間、すっと表情を消した。
「ブロック……されているね。なるほど、五千円の契約はあくまで『これ以上の拡散停止』であって、『兄の存在自体の受容』までは含まれていなかったわけだ」
「感心してる場合かよ! これじゃ家に入れないどころか、交渉の席にすら着けないぞ!」
「……仕方がない」
佐藤が小さくため息をつき、カバンの紐を握り直した。
「一ノ瀬君、一度君の家の前まで行こう。自分の家に入るのに、彼女の許可はいらないんだろう?」
佐藤のその言葉は、あまりにも当たり前で、そして今の俺にとっては盲点だった。
俺たちは、完全に絶縁された我が家へ向けて、重い一歩を踏み出した。




