霊感ゼロの妹と柴犬、最強につき
コテツを追い、俺も廊下へと駆け出す。
結界の隙間から這い出た瞬間、廊下の空気は氷点下まで凍りついた。視界を埋め尽くすのは、ギチギチと蠢く無数の腕、そして天井から垂れ下がる生首の群れ。まともな人間なら一瞬で失神するレベルの地獄絵図に血の気が引く。
だが、その地獄のど真ん中を、当のコテツは「楽しい遊びの時間だ!」とばかりに尻尾をプロペラみたいに振って爆走していた。天井から伸びたドス黒い手が、コテツの白い毛並みに触れようとしたその瞬間。コテツは天才的なドッグアジリティばりの鋭いUターンをキメて階段をトトトトッと駆け降りる。
「――一ノ瀬、まて!防御呪符だ」
佐藤は俺の背中に呪符をバチンと貼り付ける。俺は覚悟を決めて怪異の群れへと肉弾突撃を敢行した。
怪異が何度も背中に触れようとしてくるが、そのたびにバチバチと激しい火花が散り、肉が焦げたような嫌な臭いが鼻をついた。佐藤の呪符の効き目は本物だ。その絶大な防御力のおかげで、俺は何とか五体満足のまま、コテツを追って一階のリビングへと滑り込むことができた。
リビングを埋め尽くす怨霊の集団。それらが一斉に牙を剥いた瞬間、佐藤が一歩前に立ち、目にも留まらぬ速さで両手の呪符を宙に撒いた。
宙で静止した呪符が互いに光の線で結ばれ、怨霊たちをリビングの四隅へと瞬時に圧着していく。逃げ場を失った怪異の群れを冷徹に見下ろしながら、鋭く呪文を唱えた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前――ッ! 」
彼の手元に残された最後の一枚が、太陽のごとく猛烈に発光する。
「悪霊伏滅、急々如律令――ッッ!!」
ズドォォォォンッ!!
鼓膜を震わせるほどの爆音と、視界を白く染め上げる猛烈な光。一流の陰陽師としての本領を発揮した佐藤の一撃により、リビングの怨霊は一瞬にして消し去られた。
もちろん、この光と音が聞こえているのは霊感100%の俺たちだけだ。普通ならこれで「一件落着」のはずだった。
あまりの眩しさにしばし目をつむり、再び開けた。
――そこには、バスタオルを巻いた日和が仁王立ちしていた。お風呂上がりで湯気を立ち上らせながら、俺を睨みつけている。
「日和、俺だけならいいが、いくらなんでも俺の友達の前でその格好は――」
兄の尊厳と公序良俗をギリギリ守るため、俺が必死に声をかける。しかし、日和は冷たく言い放った。
「は? 友達? どこにいんの?」
「いや、だからここに……」
俺が隣を振り向いた瞬間、言葉が喉に詰まった。さっきまで呪符を構えて怪異と激しい衝突をしていたはずの佐藤の姿が、どこにもない。リビングに残されているのは、俺と、バスタオル姿の妹だけ。
……あいつ、逃げやがった!!
『共同作戦を行った仲だ、最後まで責任を持とうじゃないか』とか、放課後の教室で格好いいことを言っていた眼鏡の顔が脳裏をよぎる。気配を消しての撤退速度だけは、さすがプロのそれだった。
「ねえ、マジでキモいんだけど。暗闇で独り言言った後に虚空見つめてフリーズするのやめてくんね?」
日和の手元で、スマホの画面が不穏な輝きを放ち始める。完全に孤立無援となった俺の脳裏に、再び警察署へ直行するルートがはっきりと見え始めていた。
「待て待て待て日和! 通報だけはストップ! ここで俺がタイホされたら世間的にお前が被害者だ。お前のカーストも死ぬぞ! 利害の一致!」
「はぁ? 何が利害の一致だし……つーか鍵もないのにどうやって入ったわけ?」
「そ、それは、ほら、二階のベランダから……」
「はぁ?ウチがLINEブロックしたからって、普通ベランダから侵入する? 泥棒ムーブそのものじゃん」
日和は相変わらず冷たい目で俺を見下ろしているが、スマホを握る指の力はわずかに緩んでいた。さすがにギャルの脳内シミュレーションにも引っかかったらしい。
「それは……玄関も開かないし、お前に連絡もつかないし、仕方なくだよ」
するとそこへ、コテツがタカタカタカタカタカ!と軽快な爪音を立てて駆け寄ってきた。そして、俺と日和の足元のわずかな隙間を、楽しそうに「8の字」を描きながらぐるぐると回り始めたのだ。
「あ……」
俺はその光景を見て、思わず呆然と声を漏らした。
コテツの小さな肉球が、床をじわじわと這い寄ってきていた新しい怪異を、容赦なく踏み散らかしていく。
ああ、そういうことか。
コテツも日和と同じ、霊感ゼロかマイナスの犬だったんだな。
「ちょっとコテツ〜、お風呂上がりのウチの周りで暴れないでよ〜」
日和は相変わらず、背後の生首には1ミリも気づかないまま、しゃがみ込んでコテツの頭をワシャワシャと撫れ回した。
一級怪異の怨念すら、この霊感ゼロの主従にとっては、存在すらしない。俺と佐藤が命がけで繰り広げていた除霊バトルは、この最凶ギャル妹と一匹の柴犬の前では完全に形無しだった。
「まあ、不法侵入じゃないならいいけど。てか、アンタのせいで湯冷めしたわ。ウチ、風呂に戻って入り直すし」
日和はコテツをひょいと抱き上げると俺に押しつけ、バスタオルをなびかせながら風呂へと向かって歩き出した。
その歩みの先では、ギチギチと蠢く無数の怪異の腕が待ち構えている。だが、日和にどんなに怪異が絡んでこようが、すべて無なのだ。
「……最強かよ」
どうやら我が家は、俺の財布の中身以外は完全に安全なようだった。
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