御(み)世(よ)出づ(いづ)の洞窟
土曜日、俺たちは再びあの山へと足を踏み入れていた。
すでに一度登っているとはいえ、今回の目的地は整備された道路沿いのトンネルではない。佐藤が地図上で導き出した、直角三角形の『内心』の先――生い茂る木々をかき分けた、完全な山林の奥深くだ。
案の定、異常なまでの身体能力を誇る佐藤はさっさと山中へ先行し、俺は遅れる烏丸さんの歩調に合わせながらのんびりとトンネルへの坂道を登っていった。
烏丸さんを伴って、ようやくトンネルの入り口の道祖神にたどり着いた時、木々の隙間からひょっこりと佐藤が姿を現した。
「見つけたよ。三つ目の道祖神だ」
開口一番、佐藤は息一つ乱さずにそう告げた。
「……本当に、見つかったのか?」
「ああ。地図で推測した場所の、寸分の狂いもない位置にあった」
佐藤は肩にかけた鞄から折り畳んだ地図を取り出すと、近くにあった手頃な平らな岩の上に広げた。そして、胸ポケットから赤のボールペンをノックする。
「入り口の道祖神がここ。出口がここ。そして、今見つけた三つ目がここだ」
佐藤は、三角形の直角を示す角をペンの尻でトントンと叩いた。
「三つ目の道祖神は壊されていなかった。入り口の道祖神も修復した。これで三点は完璧に揃っているはずなんだ」
広げた地図を凝視したまま、佐藤がぽつりと呟いた。その声には、いつもの絶対的な自信の代わりに、微かな困惑が混じっている。
「じゃあ、もう怪異は消えてるはずじゃないのか? 盾が元通りになったんだろ?」
「そうなるはずだった。理論上はね」
佐藤は地図から目を離さなかった。赤いボールペンで結ばれた綺麗な直角三角形を、穴が開くほど見つめている。
「だが、現実は違う。未だに周囲の怪異は収まっていない。……つまり、僕の仮説はなにかが足りないんだ」
「結界の場所が間違ってるとか?」
「いや。三点の配置は、地図上の計算と完全に一致している。三対四対五の構造にも間違いはない。だとすれば……」
佐藤は、三つのバツ印を順番に指先でなぞった。
「結界を構成する道祖神ではなく、その内側に封印されている側に問題が起きた可能性がある」
「封印されている側?」
「ああ。長い年月の間に、封印されていたモノ自体が変質した。あるいは、風化によって封印の意味そのものが変わってしまったのかもしれない。結界をただ元の形に戻すだけでは、もう抑え込めないほどにね」
佐藤はパタンと地図を畳むと、鬱蒼と生い茂る森の奥へと視線を向けた。
「とりあえず、封印の中心と予測できる場所へ行ってみよう。……ここからは本格的な山道になるが、烏丸、平気か?」
「はい。平気、です」
烏丸さんはいつもの大人しい調子で、健気にこっくりと頷いた。
――いや、平気なわけがないだろ。
ここまでの、まだ舗装されていた坂道でさえ、何度かハムスターのごとくちゅうちゅうと水分補給を挟んで、ようやく登ってきたのだ。これから向かうのは、道なき道を行くような本物の獣道だ。
どう見ても無理だし、ここで倒れられたらそれこそ大惨事になる。
「烏丸さん。悪いけど、ここで俺たちの荷物を見ていてくれない?」
「……え?」
烏丸さんが一瞬、きょとんとした顔で俺を見た。
「ここから先は、俺と佐藤だけで行くよ。すぐ戻るからさ」
烏丸さんは何か言いたげに、その大きな瞳を少し揺らした。だけど、やがて小さく、申し訳なさそうに頷いた。
「……わかりました。無理はしないで、気をつけてください」
「ああ、ありがとね。何かおかしなことがあったら、すぐスマホで連絡して」
俺は自分のリュックを地面に下ろし、佐藤と顔を見合わせた。
「行こう、佐藤」
「フッ……そうだね」
俺たちは重い荷物をまとめて置いて烏丸さんに預け、身軽になった体で、日光さえ遮るほど深い森の奥へと続く山道に足を踏み入れた。背後から、烏丸さんの「いってらっしゃい」という小さな声が、静かに聞こえた。
先頭を行く佐藤の足取りには、やはり微塵の迷いもない。
というか、相変わらず異常に速い。
「おい、佐藤。もう少しペースを――」
言いかけたときには、あいつはすでに数メートル先を木々の間に消えかかっていた。
俺も必死に後を追った。
苔むした木の根を避け、ぬかるむ斜面を登り、行く手を阻む枝を強引にかき分ける。
それでも、佐藤との距離はじわじわと開いていく。
どれほど進んだ頃だろう。ようやく、佐藤がぴたりと足を止めた。
「ここだ」
「……はぁ、はぁ……っ、何が、あったんだ……?」
膝に手を置き、息を整えながら顔を上げる。
鬱蒼とした木々の向こう、斜面の岩肌に、ぽっくりと黒い穴が口を開けていた。
不気味なほど静まり返った、洞窟だ。
入り口には、動物の侵入を防ぐためか、頑丈な金属製の金網が張り巡らされている。
ただ、山の中にある自然の洞窟にしては、その周辺には石が平らに敷き詰められており、妙に人の手が入った厳かな痕跡があった。
俺は言い知れぬ不審を抱きながら、金網に顔を近づけ、その隙間から洞窟の奥の暗闇を覗き込んだ。
冷たい空気が這い出てくる暗闇の奥に――『人影』があった。
誰かが、そこにぽつんと座っている。
白を基調とした、神事に使う装束のような衣服。それは汚れ一つなく、暗闇の中で妙に白く浮き上がって見えた。その人物は背筋をピンと伸ばし、微動だにせず、こちらに背を向けたままだ。
顔は見えない。こんな山奥の、金網で閉ざされた洞窟の中に、なぜ人がいるんだ?
俺が声をかけようと、口を開きかけた、そのときだった。
トン、と強く肩を叩かれた。
ビクッとして振り向くと、すぐ後ろに佐藤が立っていた。
佐藤は洞窟の奥を一瞥すると、何も言わずに親指をくいっと外へ向けた。
(戻るぞ)
声は出さなかったが、その目が雄弁に物語っていた。いつもの余裕ぶったあいつの表情はそこになく、張り詰めた緊張感で顔が強張っている。
俺は本能的な恐怖に急かされるまま、小さく頷き、佐藤の後を追って一目散に森を引き返した。
洞窟から十分に離れ、烏丸さんを待たせている場所が近くなったところで、ようやく俺は我慢できずに口を開いた。
「おい、佐藤! どうしたんだよ急に。中に人がいただろ。迷い込んだ神主か何かじゃ……」
「そうか」
佐藤は足を止め、ゆっくりと俺を振り返った。
短い返事。そして、呆れたように深いため息を吐く。
「君には、あれが『人』に見えたか」
「……は? 何言ってんだよ、白い服着た人が座ってただろ」
「――霊感が強すぎるのも厄介だな」
佐藤は、先ほどまでいた洞窟の方角へ、緊張した面持ちで振り返った。
「君が見たものは、人間じゃない。あれは――」
佐藤の言葉が途切れる。
「……そうか。結界が元に戻っても怪異が収まらない理由は、そこにあったのか」
佐藤は、洞窟の方角を睨みつけた。
「あの三角形は、怪異を寄せつけないためのものじゃない。あそこにいる何かを、この山から出さないためのものだったんだ」
佐藤の口から、乾いた声が漏れた。
「三、四、五……三、四、五(み、よ、ご)……。いや、待て。あれは【御、世、出づ(いつ)】だ」
「何の話だよ?」
「御世出づ――御身が世に出づる」
「この土地に溜まったすべての穢れ。その『穢れ神』がこの世に這い出てくるための出口……それが、あの洞窟なんだ。道祖神の三四五結界は、あの穴から何かが『出てくる』のを防ぐためのものだったんだよ」
佐藤の言葉に、俺は疑問が浮かんだ。
「穢れ神?」
「ああ、仮にそう呼ぶしかないものだ」
「待てよ。俺たち、あの洞窟のすぐ近くまで行ったよな?」
「そうだね」
「でも、前に祖父の家で遭遇した神様は、近づくことすらできなかった。今は、あそこまで近づけたじゃないか」
佐藤は、来た道を振り返った。
「三角形の結界が壊れたことで、地脈の乱れを抑えられなくなった。だから、トンネル周辺に怪異が発生し始めたんだ。だが、洞窟そのものに施された封印は、まだ生きているらしい」
「じゃあ、あの神様は……」
「今も洞窟の中に封じられている。三角形の結界とは別の封印によってね。だから霊感のある僕らでさえ、あれだけ近づけてしまった。さらに君は普段は正確な認識を支えている感覚情報が欠落したため、かえって視覚情報に引っ張られて人間と誤認した」
佐藤は、眼鏡の位置を直した。
「だが、勘違いしないほうがいい。近づけることと、近づいても安全なことは違う。あれがこちらを認識していたら、どうなっていたか分からない」
俺たちは背筋に走る冷たい悪寒を抱えたまま、烏丸さんの待つ場所へと急いだ。




