三・四・五の祈りと、石肌の三つの点
烏丸さんの待つ場所へと引き返す道中、佐藤はブツブツと何事かを呟きながら、歩きながらでも地図を睨みつけようとしていた。
「……三つ目の道祖神の配置、そしてあの『御世出づ』の洞窟。構造の破綻はないはずだ。修復によって三四五の比率は完璧に戻った。それなのに、なぜ地脈の歪みが正されない? まだ何か、僕が見落としている高次の術式や、隠された幾何学的座標が存在するのか……?」
完全に思考の迷宮に迷い込んでいる。
俺は一歩前に出て、佐藤の肩をぽんと叩いた。
「……なあ、佐藤」
「なんだ?」
「お前、ちょっと難しく考えすぎじゃないか?」
佐藤が不快そうに眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「いやさ、昔の人がみんなお前みたいに、陰陽道だの幾何学の理論だのを完璧に使いこなして封印を作ったとは限らないだろって話。もっとこう……土地に伝わる昔からの信仰とか、長年の勘とか経験とか、そういう泥臭いもので無理やり封じたんじゃないのか?」
「だが、三つの道祖神の配置には明確な規則性がある。三対四対五の直角三角形が偶然形成される確率など――」
「それはそうかもしれないけどさ」
俺は佐藤の言葉を遮った。
「神社や祠があるような古い土地なら、三四五結界があるからって、それ自体が封印の『すべて』だとは限らないんだろ」
佐藤がピタリと足を止め、黙り込んだ。
眼鏡の奥の瞳が、激しく揺れ動いている。
「……後世の人間が、もともとあった素朴な封印に対して、勝手に上から綺麗な三角形の結界を付け足して『意味づけ』しただけ……ということか?」
「そうそう。元の封印はもっと別の、単純な方法だったのかもしれない」
佐藤はゆっくりと手元の地図を見下ろした。
「……なるほど。僕は、目に見える幾何学的な美しさに引っ張られすぎていたのかもしれないな」
「そういうこと。もっとシンプルに、当時の人間が何をやったかを考えようぜ」
佐藤はしばらく考え込んだあと、ふっと憑き物が落ちたような顔でゆっくりと顔を上げた。
「だとすれば、僕たちがこれから探すべきなのは、複雑な結界の構造じゃない。当時の人々の『信仰の痕跡』だね」
ようやく、俺の言葉が通じたらしい。
俺は体の力が抜けるような思いで、ほっと大きな息をついた。
幾何学的なことは、俺にはさっぱりわからないし、ついていく気も起きない。
だけど、大昔の人間が何を怖がって、どうやって身を守ろうとしたのか。そういう『人間の気持ち』を想像するくらいなら、俺にだってうまくできるはずだ。
俺と佐藤が森の奥から息を切らせて引き返すと、烏丸さんは荷物を律儀に抱えたまま、道端にひっそりと立つ古びた案内板をじっと見つめていた。
「烏丸さん、待たせてごめん。何を読んでるんだ?」
「あ、お帰りなさい! ……なんだか、このあたりから、不思議と心が落ち着く温かい気配がしたんです。気になって見てみたら、ここに古い言い伝えの看板が……」
そう言って烏丸さんが小さな指で指さしたのは、古びた木製の案内板だった。
その中央には、文字を刻んだ黒ずんだ鉄の板が、無骨な鋲で打ち付けられている。
「言い伝え……?」
佐藤の表情がガチリと変わった。先ほどまで地図の上で複雑な数式や幾何学構造を追いかけていた男が、今度は案内板の掠れた文字を一字ずつ貪るように読み始める。俺もその横から、一緒に文章を追った。
そこに書かれていたのは、三四五結界の理論でも、陰陽道の高度な術式でもなかった。この土地に暮らしていた名もなき人々が、何を恐れ、それに対して何をしてきたのか。それだけを、簡素な言葉で伝える土着の伝承だった。
『昔、この山には、夜になると人の姿をした神様が現れたという。
神様は白い衣をまとい、洞窟の奥に座していた。
その姿を見た者は、声をかけてはならない。
供え物を持って近づいてはならない。
ましてや、その御姿を外へ連れ出そうとしてはならない。
神様が山を下りれば、村に災いが起こる。
そこで村人たちは、山の入口に石の神様を祀り、洞窟へ続く道を守らせた。
以来、村人たちは毎年決まった日に、石の神様を清め、山の神様を鎮める祈りを捧げたという。
その習わしがいつ始まったのか、今となっては誰も知らない。
ただ一つ、古くから伝わる言葉がある。
――御世より出づる神を、山の外へ出すな。
その言葉だけは、今も残されている。
――昭和五十六年三月・廃村に伴い 榊坂集落住民一同 記 ――』
読み終えた俺の背中に、嫌な汗がどっと吹き出した。
「おい、佐藤……」
「本当によかったね。もし君があの時、声をかけていたら、あちらにこちらの存在を認識されていたかもしれない」
佐藤はいつになく真剣な声で言い、それから深く息を吐いた。
「一ノ瀬君の言う通りだったよ。この土地の本当の封印は――『道祖神を定期的に清め、祈る』という、村人たちの地道な習俗そのものだったんだ」
「つまり、行政がいくら石像の形だけを新しく直したところで、その道祖神を『清めて祈る』という儀式が伴っていなければ、山の神を鎮める力は発動しないってことか」
俺の言葉に、佐藤が小さく頷いた。
時代が下るにつれて、いつしか怪異の由来も、祀る意味も忘れ去られてしまった。けれど、「山の神様を起こすな」という恐怖の戒めだけが、この看板にひっそりと残されていたのだ。
「……あの」
それまで静かに聞いていた烏丸さんが、おずおずと手を挙げた。
「それじゃあ、私たちがその……石の神様を、お清めして、お祈りすれば……怪異は収まるんでしょうか?」
烏丸さんの真っ直ぐな瞳が、俺と佐藤を交互に見つめる。
派手な退魔の術式も、オカルト本に書かれているような複雑な儀式も必要なかった。
俺たちがやるべきことは、ただ一つ。大昔の村人たちがそうしていたように、この土地の道祖神を自らの手で磨き、清めること。それだけだった。
役割分担はすぐに決まった。
佐藤はトンネルの出口側、烏丸さんは行政が修復したばかりのトンネルの入り口側、そして俺は、先ほど佐藤と見つけた森の奥にある三つ目の道祖神を引き受けることになった。
烏丸さんから分けてもらった予備のタオルを水で濡らし、森の奥に佇む古い石像と向き合う。
「よし……。綺麗にしてやるからな、地脈と山の神様をちゃんと抑え込んでくれよ」
誰に言うでもなく呟き、布で丁寧に石の表面を拭いていく。
こびりついた乾いた泥が落ち、長年こびりついていた青々とした苔が剥がれていくにつれ、石本来の荒々しい灰色の肌が少しずつ甦っていった。静かな森の中に、ゴシゴシという布の擦れる音だけが規則正しく響く。
「……ん?」
石像の裏側、ちょうど首の付け根にあたる部分を磨いていた俺は、不意に指先へ奇妙な感触を覚えて動きを止めた。
泥を拭い去ったその石肌に、何かが刻まれている。
それは風化による傷でも、文字でもなかった。
人為的に穿たれた、小さなくぼみが、三つ。
三角形を描くように、ぽつん、ぽつん、ぽつんと、三つの点が刻まれていたのだ。
「三つの、点……」
石像の裏側に刻まれた、三つのくぼみは、ただの傷にしては、妙に整った配置だった。
俺は指先でくぼみをなぞった。
これが何を意味するのか、俺にはわからない。
ただ、大昔の誰かが、何かを伝えようとしていた。そのことだけは、なぜか確かな気がした。
石像の裏にある三つのくぼみに触れていたそのとき、ポケットの中でスマホが激しく震えた。
俺はタオルを片手に持ち替え、画面を見る。
まずは、烏丸さんからのメッセージだった。
『トンネル入口の道祖神、きれいにできました。お祈りもしました!』
続いて、間髪入れずに佐藤からのメッセージが画面にポップアップする。
『トンネル出口の道祖神、清掃および巡拝終了した』
俺も、最後に「石の神様、よろしくお願いします」と祈る。
『よし、こっちも終わったぞ』
俺が2人への返信を送信しようとした、まさにその時。
(……っ!?)
びりり、と大気が震え、視界の端を鋭い何かが走った。
「……え?」
スマホを落としそうになりながら、俺は周囲の木々を見回した。
山の向こう、烏丸さんがいるはずのトンネル入り口の方角から、天空を焦がすような細い光の筋が、地を這うようにしてまっすぐに伸びてきたのだ。
一本の光が、佐藤のいるトンネル出口の道祖神の方角へと突き刺さる。
そこから間髪入れずに、二本目の光の筋が方向を変え、俺の目の前にある三つ目の道祖神を目指して、猛スピードで斜面を駆け上がってきた。
そして、俺の足元にある石像に光が触れた刹那――。
三本目の光の筋が、ここから烏丸さんのいる入り口へと向かって弾丸のように走り、互いの端を力強く結んだ。
それは鬱蒼とした山の斜面を丸ごと切り取るようにして、トンネルの入り口、出口、そして山中の道祖神を結ぶ、あまりにも巨大な三角形を描き出していた。
「……すげえ……」
呆然と呟きながら、俺はその光景に圧倒されていた。
いや、それはただの三角形じゃない。
光の筋は、まるで地面の下に埋もれている『何か』をなぞるように、淡く、しかし確固たる輝きを放っていた。
チカ、と手元のスマホが再び明滅する。
佐藤からの、極めて短いメッセージだった。
『結界が発動した。空気の歪みが、完全に消失していくのを感じる』
俺は息を呑み、もう一度山を見つめた。
「感じる……か」
佐藤には、この光は見えていないのだ。あいつは、術式が発動したことを『感知』しただけ。
対して、俺にあるのは、圧倒的な『視覚』だ。
光の三角形は、やがて地表に染み込むようにして静かに消えていった。
だが、俺にはわかっていた。目に見える輝きは失われても、あの強固な光の障壁は今も確かに、この山全体を包み込んでいる。
俺が山を下りてトンネルの入り口に戻ると、烏丸さんと佐藤がそろっていた。二人の顔には、もう先ほどまでの緊迫感はない。
「一ノ瀬くん、お疲れ様です……!」
「ああ、烏丸さんもお疲れ。ありがとね」
「どうやら、本当に終わったようだね」
佐藤は眼鏡の位置を直しながら、手元の地図をカバンに仕舞い込んだ。
「三四五結界は、確かに封印を支える構造の一部だったんだろう。人が道祖神を清め、祈ることで初めて機能する仕組みだったんだ……少なくとも、今の僕にはそうとしか考えられない」
そして、結界を維持していたのは「山の神様を起こすな」と恐れ、毎年決まった日に道祖神を磨き、手を合わせ続けた、名もなき村人たちのささやかな営みだったのだ。
俺たちは、静けさを取り戻した山を後にし、坂道を下り始めた。
◇
週明けの放課後。オカルト部の部室に、如月先輩がやってきた。
優雅な足取りで入ってきた先輩は、いつものように上座のパイプ椅子に腰を下ろすと、小さく息をついた。
「そういえば、あの道祖神の件だが、」
その言葉に、佐藤が読書の手を止めて顔を上げた。
「行政にすぐ動いてもらうのは、結構大変だと思っていたんだがな。あのトンネルは一応『市道』沿いにあるんだが、肝心の道祖神は古くからそこにあるせいで、所有者や管理主体がはっきりしなくてな」
「……それは、すみません。如月会長に余計な手間をかけさせました」
佐藤が珍しく素直に頭を下げた。
「いや、気にするな。それに、結果から言えばそこまで手間でもなかった。窓口で『榊坂トンネルの道祖神だ』と伝えた途端、すぐに話が通ったからな」
「すぐに?」
「ああ。対応を渋っていた若い職員の奥から、年配の職員が出てきてな。その人が手続きを終わらせてくれたんだ。清めにいかないとな、とかなんとか言いながらな」
あれほど恐ろしく、そして不可思議な出来事を経験したというのに、最後には「行政の手続き」と「管理主体の曖昧さ」という現実的な話だとは。このギャップに、俺の胸の中には何とも言えない奇妙な感情が渦巻いていた。
「……世の中、いろいろ大変なんだな」
ぼそりとつぶやく俺を見て、如月先輩はフッと涼しい顔で微笑んだ。




