今まで一度も出なかった場所
窓の外は、バケツをひっくり返したような土砂降りだった。
グラウンドを叩きつける激しい雨音のせいで、ただでさえ薄暗い部室棟は、いつも以上の閉塞感に包まれている。
オカルト部室のドアを開けると、ユナがパイプ椅子に深々と腰掛け、スマホをいじっていた。
「ユナ、お前いつの間に来たんだよ……」
俺は、ユナに呆れて声をかけた。
「えー? ホームルーム終わってすぐだし。アタシらのクラス、今日マジ爆速で解散だったからさー」
悪びれもせずケラケラと笑うユナを見て、俺は小さくため息をついた。
同時に、なぜか今日に限って、いつもならとっくに部室にいるはずの『佐藤』が姿を見せない理由を察する。
(なるほどな……)
あいつは、この部室にユナというギャルが紛れ込んでいる気配を察知して、入室を断念したのだ。
今頃、校舎のどこかで身を潜めながら、ユナが帰るのをじっと待っているに違いない。ユナが消えれば、何食わぬ顔で入ってくるはずだ。
「つーかさ、雨でチア部の練習休みになったし、アタシもオカルト部入ろっかな! 文化部なら掛け持ちオッケーっしょ?」
突拍子もないユナの提案に、俺は思わず身を乗り出した。
「却下だ」
「えー、平部員のお兄さんが反対するとかウケるんだけど! お兄さん、権力あるーw」
クスクスと小馬鹿にするように笑うユナに頭を抱えそうになった、その時。
「あ……あの、よかったら、どうぞ……」
おずおずとした声と共に、ユナの前のテーブルに、温かい緑茶の入った湯呑みが差し出された。
烏丸は、いつも部室にやってくる如月先輩にお茶を出すのが完全にルーティン化している。そのため、部室に誰かが入ってきたというだけで、体が反射的に動いてお茶を淹れてしまったらしい。
「ありがとー! 烏丸っち優しい!」
「えっ、あ、はい……」
ユナのストレートな感謝に、烏丸はあわあわと視線を彷徨わせる。
俺はすかさず、ユナに向けて釘を刺した。
「おいユナ、調子乗るなよ。それに烏丸は2年生だぞ。お前より先輩だ」
「えっ!? 烏丸っち、2年なの!? マジで? ウケる!」
ユナは目を丸くして、小柄な烏丸をまじまじと見つめた。
烏丸は先輩としての威厳を示すどころか、ギャルの至近距離からの視線に耐えかねて、顔を真っ赤にして縮こまっている。
「でもアタシさー、こういうちっちゃくて可愛い子にお茶出してもらうの、密かに夢だったんだよねー。ラッキー☆」
「お前、本当に物怖じしないっていうか……」
俺は大きなため息をつきながら、急に騒がしくなった部室の天井を見上げた。
「てかさ、ここオカルト部なんでしょ? UFOとか雪男とかの本ないの?」
湯呑みを両手で包み込みながら、ユナが部室の古びた本棚を見回した。
「ない。俺たちが扱ってるのは、もっと特殊なやつだ。心霊とか怪異とか、そういうの」
「お化けかー」
ユナはさほど怖がる様子もなく、ふーふーとお茶を吹きながら頷いた。
彼女はふと何かを思い出したように、いつもの軽い笑みを収めて俺を見た。
「あ、そういえばさ。青葉の時、ありがとね」
「……青葉?」
唐突に出てきた名前に、俺は眉をひそめる。
「うん。あの後、青葉むっちゃ元気になったし」
ユナはいつもの屈託のない調子で、にこりと笑った。
「ありがと、お兄さん」
「……そのあと俺はドナドナされたけどな」
「あはは。それは自業自得じゃん?」
これ以上、青葉の件を掘り下げても仕方がない。どうせ、このギャルに伝わるとは思えなかった。
「お化けと言えばさ、アタシのクラスの男子が変なこと言ってたんだけど」
ユナは思い出したように顔を上げた。
「榊坂の上にあるトンネルに、幽霊が出るんだって。マジウケるよね」
「トンネル?」
「うん。男子に一緒に行ってみないかって誘われたんだけど、興味ないから断ったんだよねー」
おそらく、そのクラスメイトの男子はユナに好意を抱いていて、吊り橋効果的なものを狙って誘ったのだろう。だが、ユナにとってはクラスメイトの好意も、トンネルの怪異も、等しく「興味の対象外」だったというわけか。
「あ、でも、お兄さんが行くなら、アタシも行ってみたいかも」
「行くわけないだろ、そんなところ。噂になる場所には、大抵『いる』んだよ」
「へえー、そうなんだ」
ユナはつまらなそうに相槌を打った。
そうでなくても、動画ネタになるのは勘弁だ。
その時、テーブルの上のスマホが激しくバイブレーションした。
画面を見たユナの顔が、ぱっと華やかに輝く。
「あ、青葉からだ! カラオケ? 行く行く!」
ユナはメッセージを確認するや否や、勢いよく立ち上がった。
「じゃ、お兄さん、またね! 烏丸っちも、お茶ごちそうさま!」
「は、はい……」
烏丸と俺に手を振って、ユナは、部室を飛び出していった。
「……騒がしいやつだな」
俺がようやく深いため息をついた、その直後だった。
ガラリ、と再び部室の引き戸が開いた。
「お疲れ様」
現れたのは佐藤だった。
何事もなかったかのような涼しい顔をして、いつもの席に座ると、カバンから取り出した本を静かに開く。
俺はジト目で佐藤を睨みつけた。
「お前、隠れてただろ」
「今来たところだ」
「嘘つけ」
「榊坂トンネル。興味深いね」
「お前、やっぱり隠れて聞いてたんじゃないか!」
佐藤のその一言で、ドアの外で聞き耳を立てていたことが確定した。
ギャルからは全力で逃げるくせに、怪異の噂だけはきっちり回収する。我が部のエースには、ほとほと呆れるしかなかった。
「何が興味あるんだ? ただの怪異の話だろ。そんなもの、どこにでも転がってる」
俺が呆れたように言うと、佐藤は開いていた本からゆっくりと顔を上げた。その目は、いつになく真剣だった。
「いや、そうでもない」
「どういうことだ?」
思わず聞き返した俺に、佐藤は淡々とした、しかしどこか不穏なトーンで告げる。
「あのトンネルの『地脈』に問題があることは、我々の間ではよく知られている」
地脈。
その専門用語に、俺は思わず眉をひそめた。
「だったら、なおさら怪異が出てもおかしくないんじゃないのか?」
「そうだね。むしろ、出ても不思議ではない場所だ」
佐藤は小さく頷いた。
「だが、あのトンネルでは今まで怪異が確認されたことがない」
「……一度も?」
「少なくとも、我々が把握している限りではね」
パタン、と佐藤は静かに本を閉じた。
「それが、なぜ今頃になって急に噂に上るほど話題になっているのか……。興味深いと思わないか?」
佐藤の言葉が、部室の冷たい空気に溶けていく。
「今週末の土曜日に行ってみよう」
佐藤はそう決断を下すと、満足したように再び手元の本を開いた。そして、ページに目を落としたまま、ボソリと付け加える。
「くれぐれも、ユナさんには内緒でな」
「……わかってるよ」
お前、ギャルがどれだけ苦手なんだよ。
怪異の巣窟に突っ込む度胸はあるくせに、今どきのギャル一人の存在はそこまで恐ろしいのか。
俺は心の中で激しくツッコミを入れながら、佐藤の横顔を見た。
彼はもう、何事もなかったかのように静かな読書の世界に戻っている。窓の外では、激しい雨の音が依然として響き続けていた。




