「一生徒として」の一言が、すべての引き金だった
体育館特有の、湿気とワックスが混ざり合った熱気が肌にまとわりつく。
全校集会。退屈そうに首を回す奴や、立ったまま居眠りを決め込もうとしている奴らで溢れる空間が、その名前が呼ばれた瞬間にわずかに波打った。
『――女子水泳部、清水青葉』
マイクが拾った教頭の声が、スピーカーを通じて天井に反響する。
俺の数列前に並んでいた背中が、すっと伸びた。
清水だ。
インターハイ予選で見事な成績を収めた我が校のエースが、全校生徒の視線を一身に浴びながら、迷いのない足取りで壇上への階段を上っていく。
賞状を受け取り、深く一礼する。その一連の動作の堂々たる佇まいは、彼女がどれだけの時間をプールの中でストイックに積み重ねてきたかを物語っていた。
パチパチと、最初はまばらだった拍手が、やがて体育館全体を包み込む地鳴りのような音へと変わっていく。
拍手を送りながら、俺は壇上の清水を見つめていた。
全校集会が解散になり、体育館から吐き出された生徒たちが、ガヤガヤと騒がしく校舎への渡り廊下を歩いていく。
俺もその人の流れに身を任せ、教室へ戻ろうとしていた、その時だった。
「あ、一ノ瀬先輩!」
後ろから、少し弾んだ声が俺の背中を叩いた。
振り返ると、人混みを縫うようにしてこちらへ歩み寄ってくる姿があった。さっきまで壇上で拍手を浴びていた清水青葉だ。
「ん?清水か。どうした?」
「さっきの全校集会、見てました?」
清水は少し上目遣いで、俺の顔を覗き込んできた。心なしか、期待に満ちた目をしている。
「全校集会?ああ、表彰されてたな」
「はい。インターハイ予選で優勝したんです」
少し胸を張って、嬉しそうに報告してくる清水。
その姿を見ていると、俺の脳裏にいつかの光景がよみがえった。
かつてプールで勝負したとき、俺の横を凄まじいスピードで突き抜けていった清水のダイナミックな泳ぎ。
世界が違う、とさえ思わされたあの圧倒的な実力を、俺の身体はよく覚えている。
――そりゃ優勝するだろ。あの泳ぎなら。
「清水なら当然って感じだけどな」
素直な感想を口にすると、清水は一瞬だけ意外そうに目を見開いた。
「……そうですか?」
すぐにその表情が、ふわりと少し明るくなる。さっき壇上で見せていた「エースとしての凛とした顔」ではなく、年相応の、どこかホッとしたような少女の笑顔だった。
「一生徒として誇らしいよ」
「…………は?」
清水の顔から、すっと笑顔が消えた。
「……一生徒として?」
「うん?」
「へえ。そうですか」
「いや、だってすごいじゃないか。インターハイ予選で優勝なんて」
「そうですね……」
言葉遣いこそ丁寧だが、明らかに機嫌を損ねている。なぜ急にこんな態度になったのか分からず、俺は内心で首を傾げた。
清水はそんな俺の様子を見て、ますます腹が立ってきたようだった。
「そりゃ、夏休みにオカルト部の合宿で如月会長の脚ばかり見ていた一ノ瀬先輩は、私の競技結果なんて興味ないでしょうね!」
「…………は?」
俺の思考が完全に停止した。
背筋を冷たい汗が伝う。――なぜ、それを知っている!?
合宿中、如月先輩の脚に熱い視線を送っていたことは、俺にとって墓場まで持っていかねばならない絶対の秘密だった。誰にも悟られていない、完璧に隠し通せていたはずだった。
それなのに、なぜ今、目の前の後輩の口からその事実が飛び出してくる?
「ちょ、ちょっと待て。なんでそんなこと……」
「見てれば分かりますよ」
清水は吐き捨てるように言った。
「……じゃあ、失礼します」
それだけ言い残すと、清水は踵を返し、さっさと人混みの向こうへ歩き去ってしまった。
俺はその背中を、ただ呆然と見送ることしかできない。
――見てれば分かるって、どういうことだ?
――見られていない。知られていないはずだ。あの合宿にはスマホのカメラがなかったのだから。
考えれば考えるほど、恐ろしい疑問が頭をもたげ、泥沼にはまっていく。
清水自身は、もう俺のことなど気にも留めていないだろう。
しかし、普段カメラのレンズに怯えている俺が、それを「ただのこと」として受け取れるはずがなかった。
その日の夕方。俺は昼間の清水の一言による精神的ショックをずるずると引きずったまま自宅へと帰宅した。
玄関のドアを開け、重い足取りでリビングへ向かうと、そこには妹の日和がいた。
「おかえりー」
「……ただいま」
日和はいつも通り、ソファに寝転がって気楽そうにスマホをいじっている。
だが、俺は妹の姿を見た瞬間、心臓が跳ね上がり、その場にぴたりと動きを止めた。
長ズボンだ。
日和が、足首まで隠れる長ズボンを穿いている。
普段の家での日和は、大抵が短パン姿だ。そもそもあいつのようなギャルは、足を露出してナンボ、出すのが美徳とばかりに、短パンかミニスカしか穿かない生き物のはずだった。
――長ズボン……だと……?
ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。脳裏に、昼間の清水の冷ややかな声が蘇った。
『如月会長の脚ばかり見ていた一ノ瀬先輩は――』
――まさか。
――清水のやつ、日和にあのことを話したのか……!?
「なに?突っ立って」
「……いや、なんでもない」
「ふーん」
日和はすぐに興味を失ったように、再びスマホの画面に目を落とす。
だが、俺は妹の服装からどうしても目をそらすことができなかった。
誤解のないように言っておくが、俺は日和の普段の短パンやミニスカに興味など全くない。むしろ、そんなはしたない格好をするのはみっともないとさえ思っていた。
だが、よりによって『このタイミング』でズボンを穿かれるのは――
――いや、待て。落ち着け。整理しろ。
――清水は合宿のことも知っていた。
――如月先輩が同行していたことまで、正確に把握していた。
――どうしてだ? まさか、あいつ……どこまで知っている?
俺の脳内で、昼間の出来事と目の前の光景が、恐ろしい精度で勝手につながり始めていく。
清水は、如月先輩が合宿にいたことも知っていた。
俺が如月先輩の脚を見ていたことを知っていた。
そして今、普段は生足を晒しているはずの日和が、長ズボンで防御を固めている。
――日和まで、俺を『不埒な脚フェチ』として軽蔑し、警戒するようになったのか……!?
俺は、妹の何気ない日常の姿を前に、リビングの片隅でひとり勝手に世界の終わりを迎えていた。
せめて、寒さのせいだと言ってくれ。そう願いながら、震える声で尋ねる。
「……今日は、寒いよな?」
「そう?普通じゃね?」
日和はスマホから目を離さずに答える。
「ブランケット、いる?」
「いらね」
……終わった。
冷え対策ですらない。ということは――やはり俺に対する純粋な拒絶。防衛策。
リビングを包む絶望の淵で、俺の脳細胞はフル回転を始めていた。
なんとかして、日和が清水からどこまで話を聞いているのか、その「防衛ライン」を探る必要があった。
俺は平静を装い、できるだけ自然なトーンを意識して声をかける。
「……なぁ、日和」
「んー?」
日和はスマホの画面を見たまま、生返事を返す。その無防備な横顔が、今は恐ろしかった。
「お前……その、し、清水と連絡取ったりした?」
「はあ?」
「清水青葉」
「青葉?話してねーけど。それが何?」
――話していない。
その言葉に、一瞬だけ胸をなでおろしかけた。だが、俺はすぐに別の可能性を弾き出す。
「いや、本当に何も聞いてないか?例えば、俺の……オカルト部の合宿のときの話とか」
「は?合宿?」
「そう、合宿。……俺が、その、誰かの……を、こう、じっと見てたとか……そういう噂を清水から……」
そこまで言ったとき、日和の目が完全に据わった。
それまでの退屈そうなギャルの顔から、あきらかに危険生物を見るような目へと変わる。
「……何それ。誰のどこを見てたって?」
「いや、だから、如月先輩の、その……」
「結衣ちゃんの?アンタ最低じゃん」
「ち、違う!誤解だ!俺はただ――!」
「うわ、キモ。まじキモ。しばらく視界に入らないでくれる?」
日和はそう吐き捨てると、スマホを持って、バタバタと自分の部屋へと階段を駆け上がっていってしまった。
パタン、と激しくドアの閉まる音が響く。
静まり返ったリビングで、俺は呆然と立ち尽くしていた。
日和は本当に何も知らなかった。
それを、俺が勝手に勘違いし、探りを入れようとした結果――自ら暴露してしまった。
「……終わった」
誰もいなくなったリビングで、俺はガクリと膝をついた。
秘密を守るための尋問が、妹に秘密を自白するための尋問になっていた。




