ファミレスの期間限定セットと、返ってこないお釣り
テレビの液晶画面から流れるバラエティ番組の笑い声だけがリビングに響いている。
日和はソファに深く腰掛け、つまらなそうにテレビの画面を眺めていた。その横顔を、俺は視線の端でちらりと盗み見る。
(……気まずい)
気休めのように冷蔵庫を開け、冷えた牛乳パックを取り出した。コップに移すのも面倒で、そのまま口をつけて喉に流し込む。冷たさが喉を通り過ぎる一瞬だけ、胸のモヤモヤが紛れる気がした。
リビングのダイニングテーブルの上には、ぽつんと千円札が数枚置かれている。
『今日の晩ご飯はこれで二人で適当に食べてね。あまりはお小遣い』
母親の雑な筆跡で書かれたメモの上に、お札が乗っていた。
(まあ、別々に食べればいいか。日和が俺と二人で外食なんて、するわけないしな)
けれど、勝手にお金を分けて出ていくのも、それはそれで後から何か言われそうで気まずい。俺は牛乳パックを冷蔵庫に戻し、意を決して、恐る恐る声をかけた。
「なあ、日和。今日の夕飯なんだけど……金、半分ずつ分けるか?」
「はあ?」
日和が、ぴたりとテレビから目を離した。
冷ややかな視線がまっすぐに俺を射抜く。その迫力に、俺は思わず身を引いた。
「いや、別々に食べるなら、その方がいいかなって……」
「別々に食べる意味なくね?ファミレスでいいじゃん。いまから行く?」
「……え?」
予想外の単語に、俺の思考がフリーズする。耳を疑う俺を置いてけぼりにしたまま、日和はため息混じりに言葉を重ねた。
「だから、ファミレス。行くんじゃねぇの?」
「い、行くけど……お前いいのか?」
「はあ? 何それ。いいに決まってんじゃん」
日和はそれ以上何も言わず、面倒くさそうにソファから立ち上がった。テーブルの上にある数枚の千円札をひょいとつかんで財布に入れて、そのまま自分の部屋へと向かい、出かける支度を始めようとする。
リビングに取り残された俺は、その場で完全に固まっていた。
(待て。俺は今、日和と二人で外食することになったのか……?)
結局、特にまともな会話もないまま、俺たちは二人で家を出ることになった。
夜の帳が下り始めた住宅街。街灯がぽつぽつと灯るアスファルトの上を、二つの影が並んで進む。
日和はいつも通り、手元のスマホに視線を落としたまま、慣れた足取りで歩いていた。画面の明かりが、彼女の横顔を白く照らしている。
俺はその半歩後ろを歩きながら、隣の様子を何度も盗み見ては、胸の奥でぐるぐると渦巻く思考に囚われていた。
(学校じゃ、俺はすっかり笑いものだ。変な動画を撮られたり、変な噂を流されたり……)
クラスの女子からの冷たい視線や、すれ違いざまのひそひそ話が頭をよぎる。
(そんな俺と一緒に歩いて……日和は、恥ずかしくないんだろうか)
もし学校の誰かに見られたら……。
そんな不安が頭を過ったその時、日和が画面から目を離さずに、何気ないトーンで話しかけてきた。
「ファミレス、何食べよっかな」
「えっ?あ、ああ……好きなもの食べればいいんじゃないか」
突然の平穏な問いかけに、俺の引きつった声が裏返りそうになる。
日和はスマホをポケットに収めると、眉をひそめてこちらを振り返った。
「何それ。アンタは?」
「俺も……好きなものを食べるよ」
「ふーん」
会話はそれだけで終わった。日和はまた前を向き、少し歩調を早めた。
ファミレスの自動ドアが開くと、小気味いいチャイムの音とともに、ハンバーグの焼ける香ばしい匂いと賑やかな話し声が押し寄せてきた。
俺は無意識のうちに肩をすくめ、店内のボックス席を鋭く見回す。
「二名様ですか?空いているお席へどうぞ」
店員に案内され、俺たちは通路の奥にある四人掛けのボックス席に向かい合わせで腰を下ろした。
日和は席に着くなり、卓上の大きなメニューを開いて迷いなく料理を選び始めている。パラパラとページをめくる彼女の手元をぼんやり眺めていると、突然、日和がメニューを俺の方へと傾けて見せてきた。
「ねえ、これどうよ?」
「えっ?」
不意を突かれて間抜けた声が出る。日和が細い指先で示していたのは、ハンバーグとグラタンが並んだ期間限定のフェアメニューだった。
「このセット。単品で頼むより、スープとドリンクバーがつくこっちのセットの方がよくね?」
「あ、ああ。いいんじゃないか?お得だし」
「じゃ、これにしよ」
日和は満足したように小さく頷くと、すぐにメニューを閉じた。
(……普通に俺に話しかけてきたな。いや、そりゃそうだろ。何驚いてんだよ。俺たち兄妹なんだから)
自分で自分に呆れながら、俺は心の中でそっとツッコミを入れた。
少しだけ軽くなった手でメニューを開き、俺も自分の注文を素早く決めることにした。
料理を待つ間、テーブルには先ほどまでの気まずさとは違う、どこか落ち着いた空気が流れていた。
日和はコップの水を一口すすると、ファミレスの賑やかな店内をぼんやりと見回し、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさ。アンタ、昔から暗いところが苦手だったよね」
「……は?」
突拍子もない昔話に、俺は思わず気の抜けた声を出す。日和は肘をついて身を乗り出してきた。
「ほら、家の廊下とか。夜になると、よく『あそこに何かいる!』って大騒ぎしてさ。ウチの後ろに隠れてた」
「っ……!」
日和の言葉に、脳裏の奥にこびりついていた記憶が一気に蘇り、背筋に冷たいものが走った。
子供の頃から俺には、暗闇の中にうごめく『怪異』の姿が見えていたのだ。家の廊下の奥、誰もいない部屋の隅、クローゼットの隙間。そこから、この世のモノではない歪な形をした『何か』が、いつもじっとこちらを睨みつけていた。
『日和、あそこに何かいる!こっちを見てる!』
『えー?どこ?』
『行くなって!そっちにいるんだって!危ないから!』
『何もいないよ?』
『絶対いるんだって!今、動いたもん!』
『でも、いないよ?』
俺が怪異を見つけて怯えるたび、日和はまるで「確認係」のように暗闇へ突撃し、そして毎回「何もいない」と報告する。そのたびに俺が必死になって「本当にいるんだ!」と顔を真っ赤にして反論するので、幼い日和はそんな俺のリアクションを、まるで愉快なゲームのように面白がっていたのだ。
「だって、アンタ毎回めっちゃビビるんだもん。ウチが見に行っても、なんにもいないしさ」
日和は当時の俺の怯えぶりを思い出したのか、意地悪そうに目を細めて笑う。
「だから、お前には見えなかっただけだって!俺には本当に見えてたんだよ!」
「はいはい。昔から変な奴だったんだね、アンタは」
「納得してないだろ!」
日和は取り合わず、楽しそうに笑っていた。
俺はそれ以上反論する気も失せて、小さくため息をついた。
「お待たせいたしました。期間限定ハンバーグ&グラタンセットと、おろしハンバーグ定食です」
タイミングよく店員がやってきて、湯気を立てる鉄板と皿をテーブルに並べた。
香ばしいデミグラスソースの香りが鼻腔をくすぐる。料理が届くと、日和はナイフとフォークを手にした。
日和は熱々のハンバーグを口に運んで「ん、おいしい」と満足そうに目を細めた。
黙々と料理を食べ進める妹の姿を見つめながら、俺は自分のハンバーグに箸を伸ばす。
日和が俺の苦しみを理解してくれるわけじゃない。
それでも、こうして二人で向かい合って食事をして、些細な昔話で笑い合っている。
学校での俺の立場は何も変わらない。それでも、今は少しだけ気持ちが軽かった。
「会計、ウチがやっとくわ」
日和はそう言って、母親から預かった千円札を財布から取り出し、伝票を持ってレジへ向かった。
会計を済ませ、俺たちはファミレスの自動ドアをくぐった。
外の空気は、店に入る前よりも心なしか冷たくなっている。けれど、お腹が満たされたせいか、さっきほど身に染みるような寒さは感じなかった。
隣を歩く日和の機嫌が少し良さそうに見えるのは、さっきの昔話を思い出して、単純に楽しかったからだろう。
「あー、腹いっぱい。満足満足」
日和が両手を上に伸ばして、大きく背伸びをした。
「……そうだな。あのセット、結構ボリュームあったし」
「だね。帰ったら速攻でお風呂入ろっと」
そんな、どこにでもある、ありふれた兄妹の会話。
俺たちは並んで家への道を歩いた。
玄関の鍵を開けて我が家に入ると、日和は靴を脱ぎ、リビングを通り抜け、そのまま階段の方へと迷いなく足を向ける。
日和はトントンと軽い足取りで階段を上っていってしまった。
やがて、2階からパタンとドアの閉まる音が響く。
静まり返ったリビングに、俺は一人で取り残された。
あれ?俺の分のおつり、返してもらってないわ。




