二学期早々、俺に身に覚えのない浮気疑惑が浮上した
休日のショッピングセンターは、家族連れやカップルで賑わっていた。
俺は一人、目的の文庫本が入った紙袋を手に歩いていた。お目当ての本が無事に買えた満足感とともに、さっさとこの喧騒から抜け出そうと出口へ向かう。
その時、対向から歩いてくる見覚えのある姿が目に留まった。日和の友人である、あゆっちだ。
「あ、日和のお兄さんじゃん」
彼女も俺に気づき、足を止めて小さく手を挙げた。
「ああ、偶然」
俺も歩調を緩め、軽く会釈を返す。
日和という共通の存在がいなければ、二人は本来、接点のない間柄だ。これといって盛り上がるような共通の話題が思い浮かぶはずもなかった。
「一人?」
「本屋帰り。そっちは?」
「買い物。じゃあまた」
お互いにそれ以上の言葉を探すことはしなかった。
俺が軽く手を振ると、彼女も小さく手を振り返す。それだけで、二人はすれ違い、それぞれの目的地へと再び歩き出した。
俺はショッピングセンターの喧騒を抜け出す前に、昼食を済ませていくことにした。
エスカレーターを上がり、開放的なフードコートへと足を向ける。お昼時を少し過ぎているせいか、広い店内には空席がいくらでもある。
俺は適当な二人掛けのテーブル席を確保し、トレイを置いた。
箸を割り、さて食べようかとした、その時だった。
「……ん?」
お盆を持った人影が、こちらに近づいてきた。
見上げると、そこには先ほど別れたばかりのあゆっちが立っていた。彼女のトレイの上には、そばの器が載っている。
彼女は、周囲にいくらでも空いている席があることなど気にも留めない様子で、俺の正面の椅子を引いた。
「……そこ、座るのか?」
思わず尋ねると、彼女は当然のように俺の目を見つめ返した。
「うん。いいよね?」
「いや、別にいいけど……」
俺は気圧されるようにして、小さく頷くしかなかった。
内心では、かなりの戸惑いが渦巻いていて、何を話せばいいのか、見当もつかなかった。
「いただきまーす」
彼女は俺の困惑に気づいているのかいないのか、小さく手を合わせると、静かにそばをすすり始めた。今日の彼女は、やはりどこかおとなしい。
俺も「気にしていない」という風を装い、自分の食事に視線を落とした。
フードコートの賑やかなBGMと、周囲の話し声。その中で、二人のテーブルだけが、不思議な沈黙に包まれていた。
箸を動かしながら、俺は何気なく正面の彼女に視線を向けた。
そして、彼女の右肩のあたりを見た瞬間、動きを止めた。
(……あ。乗ってるな)
それは、ごく小さな『怪異』だった。
人の心が沈んでいるときや、落ち込んでいるときに、どこからともなく寄ってくるタイプの連中だ。このサイズなら特に実害を与えるわけではなく、放っておいても、本人の気分の回復とともにそのうち自然と消えていくだろう。
しかし、それが肩に乗っているということは――今、彼女の心は何かしらの理由で沈んでいる、ということの証明でもあった。
(確か、よっちゃんの一件のときは……)
俺は、この手の怪異は取り憑いている相手を「笑わせる」と、霧が晴れるように消えてしまう性質があることを経験上知っていた。
放っておいても危険はない。彼女が何に悩んでいるのかも知らないし、男の自分がデリカシーなく詮索するのも違う気がする。何より、彼女とは共通の話題すら乏しい間柄なのだ。
けれど、こうして目の前で静かにそばをすする彼女を、どんよりとした怪異ごと見過ごすのも、どうにも寝覚めが悪い。
(……まあ、ちょっとくらいなら、試してみるか)
あゆっちが箸を動かし、そばの麺を数本、静かに持ち上げる。
その様子をじっと見つめていた俺は、ふと思いついたことをそのまま口にすることにした。
「なあ」
「ん?」
声をかけると、彼女はそばを浮かせた状態のまま、不思議そうに視線を上げて俺を見た。
「今から、俺はお前が食べようとしてるそばの気持ちになってみる」
「……は?」
彼女の顔に、明らかな困惑が浮かぶ。何を言い出すんだこの人は、という至極真っ当な反応だったが、俺は構わず、そばの立場になりきって大真面目な実況を始めた。
「ついに、この時が来てしまった。俺は今、彼女の箸に掴まれている……」
彼女の箸がぴたりと止まった。
「逃げたい。だが、俺には逃げるための足がない。ただ茹でられ、水で締められ、この瞬間を待つことしかできなかったのだ」
「ふふっ……」
彼女の口元から、思わずといった風に小さな漏れ笑いがこぼれる。
「持ち上げられた。高い。思っていたより高い。地上数十センチの世界は恐ろしい。やめてくれ、俺はまだこの器の中で、仲間たちと平和に暮らしていたいんだ。まだ、ぬくぬくとした出汁の温もりを感じていたかった……!」
「ふふっ、ちょっと……っ」
彼女の細い肩が、小刻みに揺れ始める。
俺は彼女の反応を見ながら、さらに実況を続けた。彼女の手元で、箸に挟まれたそばがゆっくりとつゆに浸かり、彼女の口元へと運ばれていく。
「ああ、つゆだ。暗黒の底へと沈められていく。俺の短い麺生も、ここまでか。さらば友よ、先に胃袋へ行って待っているぞ――」
「あははっ!ちょっと、本当にやめてよ!笑っちゃって食べられないじゃん!」
ついに耐えきれなくなった彼女は、肩を震わせながら笑い続けた。
俺はその様子を眺めながら、彼女の右肩へと視線を移した。
そこに乗っていた小さな影――怪異の姿が、霧が薄れるようにして急速に消えかかっているのが見えた。
(よし。効いてるな)
俺は内心で小さく安堵した。
やったことと言えば、目の前のそばの気持ちを勝手に代弁するという、ひどくシュールで大したことのない悪ふざけだ。それでも、彼女の心を少しだけ軽くできたのなら、お節介を焼いた甲斐はあったというものだ。
ひとしきり笑い声を響かせたあと、彼女はふう、と小さく息を吐いた。
目元に残った涙を指先で拭い、再び箸を取ってそばを口に運ぶ。そして、もぐもぐと咀嚼したあと、器を見つめたまま、ぽつりと呟くように話し始めた。
「実はさ……うちのネコが死んじゃったんだよね」
俺は、自分の食事を運ぼうとしていた箸をぴたりと止めた。
彼女は、俺と視線を合わせないまま、どこか遠くを見るような目で続ける。
「あーしが生まれる前から、ずっと家にいたんだけどね」
俺は、彼女がどうしてあんなに暗い影を背負っていたのか、その理由をようやく理解した。
「……そっか。ずっと、一緒だったんだな」
彼女はそれから、その猫との思い出をぽつり、ぽつりと語り始めた。
よくお気に入りの毛布をふみふみしていたこと、気まぐれなくせに自分が泣いているときだけは足元に寄ってきたこと。俺は食事の手を止め、ただ静かに、彼女の言葉に耳を傾け続けた。
一度笑ったからといって、悲しみがすべて消えてなくなるわけではない。大切な家族を失った寂しさは、そう簡単に癒えるものではない。
それでも、彼女が猫の思い出を話せたのなら、俺が余計なことをした意味も、多少はあったのかもしれない。
ふと俺が彼女の肩に目をやると、いつの間にか、あの薄汚れた影のような怪異は完全に消えてなくなっていた。
(……少しは飯がうまく食えるようになったのなら、それでいいか)
俺は心の中でそう呟き、再び箸を動かした。
フードコートの喧騒の中で、二人の間には、先ほどまでの気まずさとは違う、穏やかで静かな時間が流れていた。
◇
翌日。
俺は休み時間の賑やかな喧騒に包まれた学校の廊下を歩いていた。
向こうから歩いてくる女子生徒の三人組に気づき、俺は自然と視線をそらす。日和、ユナ、そして、昨日フードコートで遭遇したあゆっちだった。
すれ違いざま、日和は俺を見るなり、
「チッ……」
と、いつも通り容赦のない舌打ちを繰り出し、そのままツカツカと通り過ぎていく。もはや様式美とも言える拒絶反応に、俺も特に気にする様子もなく、そのまま通り過ぎようとした。
しかし、その横を通り過ぎるはずだったあゆっちが、ピタリと足を止めて俺を振り返った。昨日とは打って変わって、いつもの明るくエネルギーに満ちた笑顔だ。
「お兄さん、昨日はありがとー」
「あ、ああ……」
昨日の猫の一件だろう。俺が小さく頷くと、あゆっちは悪戯っぽく片目を細め、廊下に響く声でとんでもない言葉を付け足した。
「また、あーしとデートしてね」
「……は?」
俺の思考が完全にフリーズした。
隣で教科書を抱えていたユナの動きが止まる。
ユナは勢いよくあゆっちの方を振り向いた。
「ど、どゆこと!?」
俺の顔からはスッと血の気が引き、頬の筋肉を引きつらせて苦笑いを浮かべることしかできなくなった。
何をどう説明すればいいのか、自分でもさっぱりわからない。
当のあゆっちは、そんな俺の慌てぶりを見て、実に楽しそうに声を立てて笑っている。
「えっどゆことよ?二人の間に何があった!?」
「いや、それはだな……」
ユナの質問攻めに遭いながら、俺は引きつった笑顔のまま視線を彷徨わせた。
「ねえ隠さないで教えてよー!」
「あはは、ユナ食いつきすぎー!」
騒がしい声を廊下に響かせながら、二人の少女は俺を置いて日和の後を追いかけていく。
一人廊下に取り残された俺は、どっと押し寄せた疲労感にため息をつくしかなかった。




