女子ロッカーの前で相撲を取る理由
二学期が始まって、まだ数日しか経っていない放課後。
西日が差し込むロッカースペースで、陸上部の高橋はいつものように体操着を取りに来ていた。
そのとき、近くを通りかかった俺の足がピタリと止まった。
(……なんだ、あれ)
俺の目には、明らかな「異変」が見えていた。高橋が今まさに開けようとしているロッカーの隙間から、どす黒い気配が漏れ出している。
ロッカーの中に、怪異がいる。
心臓が跳ね上がった。俺の耳にだけ、じっとりと湿った声が直接響いてきた。
『……開けて』
怪異の意図までは分からない。しかし、俺のこれまでの経験上、言葉を話す怪異は間違いなく厄介な部類だった。明確な意思を持ち、標的に執着することが多いからだ。
――絶対に開けさせてはいけない。
本能的な直感が、俺の背中を突き動かした。
「開けるな!」
俺は思わず大声を張り上げ、高橋のロッカーの前に割って入った。
「え? なんで?」
高橋は目を丸くし、差し出された俺の手をまじまじと見つめた。
「とにかくダメだ! 開けるな!」
「いや、体操着に着替えたいんだけど……」
高橋の反応は、あまりにも当然のものだった。
これから陸上部の厳しい練習が始まる。ロッカーにはそのための着替えが入っているのだ。それなのに、理由も告げずに「開けるな」とだけ言われても、困惑するほかない。
しかし、俺には怪異の危険性を説明する言葉がなかった。
「中に怪異がいる」なんて話したところで、信じてもらえるはずがない。何より、今は一刻の猶予もない。ロッカーの奥から、再びあの声が聞こえ始めている。
結局、俺にできることは一つだけだった。
俺はロッカーの前にぴったりと立ちはだかり、高橋の手を扉から引き剥がすようにして、力ずくでその開放を阻止した。
「ちょっと、何なの本当に!?」
高橋の非難の声が響く。周囲のロッカースペースにいた生徒たちの視線が一斉にこちらに集まった。周りから見れば、俺が女子生徒の着替えを理不尽に邪魔している、ただの不審な男子にしか見えない。突き刺さるような白い目が痛かったが、背に腹は変えられなかった。
高橋が困り果てているそのわずかな隙を突き、俺はポケットから素早くスマホを取り出した。画面を乱暴にタップし、ある人物の番号を呼び出す。
コール音が鳴るか鳴らないかのうちに、俺は受話口に向かって必死に叫んだ。
「佐藤、今すぐうちのクラスのロッカースペースに来てくれ!」
この一触即発の騒ぎを聞きつけたのか、野次馬の波を割って一人の男子生徒が歩み寄ってきた。高橋の彼氏でもある前田だ。
「どうしたんだ? 高橋」
前田が怪訝そうな顔で高橋の肩に手を置く。高橋は待ってましたとばかりに、俺を忌々しげに指さした。
「一ノ瀬が私のロッカーを開けさせてくれないんだけど」
事情を聞いた前田は、すぐに俺へと向き直った。
「和哉、何やってんだ。どけよ」
「ダメだ」
俺はロッカーに背中を押し付けたまま、頑なに首を振った。
「いや、高橋が着替えられないだろ」
「それでもダメだ!」
叫びながら、俺の胃のあたりは焦燥感でキリキリと痛んでいた。
怪異がこの中にいる。それを取り憑かせるわけにはいかない。だが、説明できるはずもなかった。前田が俺の肩を掴もうと一歩踏み込んでくる。
「お前、今度は何なんだよ。高橋が困ってる。どけよ」
「いや、ダメだ! 開けたければ俺を退けて見せろ!」
掴まれそうになった前田の手をパシッと叩き落とし、俺は半ばヤケクソで、頭に浮かんだ最悪の解決策を叫んでいた。
「……相撲で勝負だ!」
「……は?」
前田の動きが完全に止まった。口を半開きにして、俺の顔を凝視している。
だが、俺は真剣だった。前田を真っ向から見据え、ぐっと腰を落とす。
ここで退くわけにはいかないのだ。あの不気味な怪異を、高橋が家に持ち帰るような事態になるくらいなら、自分がどれだけ恥をかこうが、どれだけ変人扱いされようが、力ずくで止めてみせる。
「おい、何で相撲なんだよ!」
「いいから、こい!」
「わけわかんねえよ!」
そして、なぜか俺たちはロッカースペースの狭い通路で、がっぷり四つに組むことになってしまった。
前田も完全に困惑していた。だが、俺がどうしても退かない以上、力ずくで排除するしかないと腹をくくったのだろう。俺の制服を掴む前田の手に力がこもる。
「はっけよい、のこったあああ!」
高橋は、目の前で繰り広げられる地獄のような光景を前に、完全にフリーズしていた。
自分の着替えが入ったロッカーの前で、彼氏とクラスメイトの男子が、なぜか汗をにじませて真剣に相撲を取っているのだ。理解しろと言う方が無理がある。
「また一ノ瀬?」
「女子ロッカーの前で相撲とか……マジで引くわ」
遠巻きに見ていた周囲の生徒たちも完全に足を止め、俺たちを珍生物を見るような奇異の目で眺め始めていた。
「お前たち、そこで何をしているッ!!」
ロッカースペースに地鳴りのような怒号が響き渡った。野次馬たちが一斉に蜘蛛の子を散らすように道をあける。現れたのは、体育教師の五里――通称「ゴリラ」だ。
筋肉の塊のような巨体を揺らして迫ってくる教師の目に映ったのは、女子生徒のロッカーの前で、汗を散らしながらがっぷり四つに組んで相撲を取っている男子二人。
「先生! そのロッカーを開けてはいけません!」
俺は前田の制服を掴んで耐えながら、必死の形相で叫んだ。ロッカーの前から一歩でも動くわけにはいかない。
「理由を説明しろ!」
ゴリ先生の鋭い眼光が俺を射抜く。
「説明できません!ですが、開けてはいけないんで!すっ!」
俺は最後の力を振り絞って腰をひねり、前田の巨体を強引に投げ飛ばした。見事な「うっちゃり」が決まり、前田の体が床に転がる。俺はすかさず、再びロッカーの前に立ちはだかって仁王立ちになった。
「説明できないのに、何を言っているんだお前は!」
当然、ゴリ先生は怒髪天を突く勢いで俺を問い詰める。だが、俺にはこの中にいる怪異の存在を証明する手段が何一つない。
先生も、いよいよ力ずくで俺を排除しようと太い腕を伸ばしてきた。
万事休すか。そう思ったその時、人混みを割って佐藤が歩み寄ってきた。
佐藤は問題のロッカーを一瞥すると、すぐに状況を察知したようだった。その目が細められる。
「……なるほど。こいつか」
佐藤は周囲の不審な視線を気にする様子もなく、懐から手際よく呪符を取り出した。俺がロッカーの前で壁になり、ゴリラ先生や前田、高橋の視線を遮っているその隙に、佐藤はロッカーの隙間へと滑り込ませるようにして除霊に取りかかる。
「おい、委員長!お前まで何をして――」
先生が声を荒らげるが、俺は一歩も引かずに先生の前に立ち塞がり続けた。
やがて、俺の背後でパッと、眩い除霊の光が弾けた。
もちろん、その神聖な光は霊感がある俺や佐藤にしか感知できない。ロッカーの奥から、さっきまでのいやな気配が、霧散していくのが分かった。
「もう大丈夫だ」
「……ふぅ」
その言葉を聞いて、俺はようやく全身の肩の力を抜いた。
高橋はなおも不審そうな目を俺に向けながら、恐る恐るロッカーの扉を開けた。
パカン、と気の抜けた音が響く。
中には、いつも通りに畳まれた彼女の陸上部の着替えが入っているだけだった。
高橋は着替えを取り出すと、胸に抱えながら、俺に対して完全に困惑しきった表情を向けた。
「……結局、何だったの?」
「いや、それは……」
俺は言葉に詰まった。
誰もが納得するような大嘘をその場ででっち上げることも不可能だった。
「とにかく、もう大丈夫だから。……気にせず部活行ってよ」
「……ふーん?」
高橋は眉の根を寄せ、全くもって釈然としない様子だった。だが、これ以上時間を無駄にすれば、陸上部の練習に遅れてしまう。
高橋は着替えを持ったまま足早に更衣室へと向かっていった。前田も振り返って俺を見たが、黙って人混みの向こうへと消えていった。
嵐が去ったロッカースペースで、ゴリラ先生から「一ノ瀬、生徒指導室だ」と重いお説教の予告を食らい、ようやく野次馬たちも散り散りになる。
残された俺の肩を、佐藤がポンと叩いた。
「よくやったな、一ノ瀬君」
佐藤が眼鏡の奥の目を細めて、小さく労ってくれる。
彼が小声で教えてくれたところによると、あのロッカーにいた怪異は、人や物に取り憑いて移動するひどく厄介な性質を持っていたらしい。
誰がいつ、あの怪異を学校のロッカーに持ち込んでしまったのかは分からない。だが、あのまま俺が止めずに高橋が着替えを取り出していれば、彼女は間違いなく怪異を自宅まで連れ帰っていただろう。
高橋にとっては、今日の出来事は、ただの迷惑な災難だ。
しかし、現場を目撃した多くの生徒たちの記憶には、俺が女子生徒のロッカーの前で、前田と汗だくで相撲を取っていたという衝撃的な光景が、鮮明に刻まれてしまった。
俺の校内での評判が、二学期早々に再び地の底まで落ちるには十分すぎる出来事だった。
生徒指導室でのゴリラ先生による長いお説教をどうにか耐え抜き、ようやく学校から解放されたときには、空はすっかり綺麗な茜色に染まっていた。
重い足取りで校門を出て、駅へと続く坂道を下りていると、後ろから聞き馴染みのある声に呼び止められた。
「よう、和哉」
振り返ると、そこにいたのは前田だった。図らずも、俺たちは夕暮れの帰り道を二人で並んで歩くことになった。
気まずさに耐えかねて、俺は先に口を開いた。
「前田……、さっきはすまん」
「あ? ああ、相撲のことか」
前田は短く応じた。
どれもこれも、分からないことだらけに違いない。
並んでしばらく歩き、踏切の手前まで来たところで、前田がぽつりと口を開いた。
「なあ、和哉」
「ん?」
「お前が何をしたかったのかは、正直さっぱりわからん」
前田は前を向いたまま、淡々と言った。
「だけど、俺はお前を信じてる」
「え……」
俺は思わず足を止め、隣を歩く前田の横顔を凝視してしまった。
「……なんだよ、人の顔じっと見て」
俺の視線に気づいた前田が、怪訝そうに眉をひそめてこちらを見る。
俺は、張り詰めていた顔の筋肉をふっと緩めて笑った。
「いや……高橋さんは、本当に男を見る目があるなと思ってさ」
「は? 何言ってんだ」
前田は呆れたように息を吐き、少し歩調を速めて前を向く。
俺も小さく笑いながら、前田の隣に並ぶために少し駆け足になった。
俺たちは、伸びていく二つの影を引き連れながら、夕闇の迫る家路を歩き続けた。




