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夏祭りの夜、烏丸と 後編

和哉が人波の向こうへと消えていってから、烏丸は一人、ベンチに座っていた。


遠くの櫓から、地響きのような太鼓の音が響き始める。普段着のまま上半身を晒した和哉が、必死な形相でバチを振るっているのがここからでも薄らと見えた。


――が、烏丸の意識は、すぐに別の異変へと向けられることになった。


「う、うぷっ……急に気持ち悪く……」


「おい、大丈夫か? 顔色が真っ青だぞ」


近くを歩いていた参拝客の男性が、突如として腹を押さえてその場にしゃがみ込んだ。それだけではない。その向こうでも、若い女性がめまいを覚えたように額を押さえ、近くの木に寄りかかっている。


太鼓の演奏者が一人倒れたという、先ほどの男の話が脳裏をよぎった。


烏丸はベンチから立ち上がり、ゆっくりと周囲を見渡した。


「……おかしい」


ただの集団食中毒や、夏の暑さによる熱中症ではない。

人の負の感情に極めて敏感な彼女の肌が、ピリピリとした不快な痛みを感知していた。人々の間に、重く濁った気配が、霧のように立ち込めて広がっていくのが見える。


烏丸はその気配の「川上」を探るように、じっと目を凝らした。

澱んだ空気の流れをたどっていく。境内の喧騒から外れた、薄暗い社殿の裏手――古びたゴミ集積所の隅に、それは放置されていた。


「これ……ですね」


ぽつりと、烏丸の口から言葉が漏れる。

そこに転がっていたのは、薄汚れた木目込みの人形だった。その人形を中心に、禍々しい呪いの波紋が周囲へ向かって絶え間なく放出されていた。


烏丸は一度、背後を振り返った。

櫓の上では、和哉がまだ必死に太鼓を叩いている。佐藤も、ここにはいない。


「……私が、やらないと」


いつもなら、二人の後ろに隠れているだけの自分だ。けれど、今ここで自分が動かなければ、祭りに来ているたくさんの人たちが苦しみ続けることになる。

烏丸は人形の前に小さくしゃがみ込んだ。

脳裏に浮かべるのは、部室で佐藤が何度も実践して見せてくれた、最も基本的な封印術の手順だ。


「……落ち着いて」


自分に言い聞かせるように、小さくつぶやく。

人形から溢れ出る気配の「流れ」をじっと読み、その結び目となる、封じるべき中心点を指先で探る。


「……ここ」


烏丸は、記憶にある通りの指を組み、一気に術を施した。

瞬間、指先から脳を直接刺すような、ゾッとするような嫌な感触が走る。


「……っ」


奥歯を噛み締め、それでも絶対に手を引き離さなかった。


冷や汗が頬を伝い、視界がチカチカと明滅する。それでもじっと耐え、佐藤の言葉を思い出しながら、呪いの結び目を強く、強く縛り上げるイメージを重ねた。


やがて――人形から周囲へ怒涛のように流れ出していた重い気配が、目に見えて弱まっていった。

完全に消し去ったわけではない。けれど、呪いの口を固く縛ることで、これ以上周囲に害を及ぼすことはないはずだ。いわば、応急処置の一時的な封印。


指を離すと、烏丸は張り詰めていた緊張を一気に解き、小さく息を吐いた。


「……できた」


周囲を見渡すと、先ほどまでうずくまっていた人たちが「あれ、急に楽になった」と首を傾げながら立ち上がり始めている。

普段なら頼ってばかりの彼女が、異変を察知し、自らの足で発生源を見つけ、習った術を使って一人で被害を食い止めた。烏丸の小さな胸の中に、確かな達成感がじんわりと広がっていった。


◇


俺は、ただただ必死に太鼓を叩き続けていた。

周囲の演奏者たちのバチ捌きに必死で食らいつき、腕の感覚がなくなるほどに木胴を打ち鳴らす。へっぴり腰のまま、叫ぶようにして最後の大きな一撃を響かせたとき、ようやく神事の終わりを告げる笛の音が夜空に抜けていった。


「――お、終わった……」


やりきった。中止にはさせなかったぞ。

運営の男たちが「ありがとう、君のおかげで助かった!」と涙ぐみながら拍手を送ってくれるが、今の俺にはそれに応えるだけの体力は残っていなかった。


櫓を降り、這うように楽屋テントへと戻る。

手渡された粗品のスポーツタオルで、顔や首筋に浮き出た大量の汗をガシガシと拭き取った。

時刻を確認するために、Tシャツと一緒に預けていたスマホの液晶画面を点灯させる。


メッセージアプリの通知アイコンが目に飛び込んできた。

送り主は――他校の知人、パンクギャルのよっちゃんだ。


「……動画?」


そこには数秒の動画ファイルが添付されていた。周囲の喧騒の中で、何だろうと首を傾げながら再生ボタンをタップする。

画面が明るくなり、スピーカーからドンドコと激しい太鼓の音が漏れた。

そこに映し出されていたのは――。


下半身は普段着のチノパンにスニーカー、しかし上半身は完全な真っ裸。あられもない姿で、思いきり腰を引きながら、やみくもにバチを振り回している俺自身の姿だった。


「…………」


一瞬、思考が完全に停止した。

いや、待て。おかしい。何だ、この地獄のような映像は。


俺は真剣だった。祭りを中止の危機から救うため、困っている運営の人たちのために、文字通り身を粉にして必死に演奏したはずだ。

なのに、客観的なカメラのレンズが捉えていたのは、どう見ても「お祭りに乱入して奇行に走っている不審な男」でしかなかった。へっぴり腰のせいで、必死な形相が余計に怪しさを際立たせている。


呆然と立ち尽くす俺の画面に、追い打ちをかけるようにピコン、と続けてメッセージが届いた。


『またやってくれたじゃん、最高w』

『私らの学校のLINEグループで共有しといたわw』


「……は?」


思わず、スマホを持つ手が微かに震えた。

祭りを助けた。それは間違いない。人助けをしたはずだ。だが、この切り取られた短い映像だけを見れば、なぜ俺があんな恥ずかしい格好で太鼓を叩いているのか、その高潔な意図などミリ単位も伝わらない。


俺のあずかり知らぬところで、俺の半裸の熱演が、よっちゃんの学校の人たちのスマホへとリアルタイムで拡散されている。


絶望に打ちひしがれる俺のスマホが、追い打ちをかけるように再びポケットの中で震えた。間髪入れずに届いたのは、今度はユナからのメッセージだった。


『よっちゃんから連絡きたよ』

『やるじゃんお兄さんw』

『アタシらのグループにも共有しといたw』


「………………」


今度こそ、言葉を失った。

俺はただ、困っている人を助けただけだ。誰かを救うために全力を尽くしただけなのに、どうして結果として、俺の尊厳だけがこうも無残に削られていくのだろうか。


もはやバイブレーションの振動すら恐怖に変わりつつあるスマホの画面に、トドメと言わんばかりの通知が表示された。クラスメイトの前田からだ。


『お前、何やってんだ。クラスのLINEで回ってるぞ』

『夏休みに入ってせっかく悪評が沈静化してたのに、自分から話題を作るとか、社会的自殺か?』


つまり、俺の半裸の熱演は、今や学校全体、部活の繋がり、果ては他校のコミュニティまで、全方位に同時に誘爆した。


「…………」


いや、待ってくれ。俺は人助けをしただけだ。太鼓を叩いたのだって、運営の男に泣きつかれて、頼まれたからであって、決して自分から好んで「よーし、夏休みだし一肌脱いじゃうぞ!」と上半身裸になったわけではない。


一学期の間、俺を散々苦しめた奇行の悪評。それを、まさか夏休みの折り返し地点で、俺自身が新たなネタを提供して蒸し返す形になるとは。前田の言う通り、客観的に見れば自爆以外の何物でもない。


俺は光るスマホの画面をただじっと見つめた。


◇


夏祭りの喧騒が嘘のように静まり返った、翌日の午後。


俺たちオカルト部の三人――俺と烏丸、そして佐藤は、再びあの神社を訪れていた。セミの鳴き声だけが容赦なく降り注ぐ境内の裏手、ゴミ集積所の隅で、俺たちは烏丸が発見した薄汚れた人形と対峙していた。


「……これが、その人形か」


佐藤がしゃがみ込み、冷ややかな視線で薄汚れた木目込みの人形を観察していた。


「烏丸が封じたのか?」


「……はい。佐藤さんに教わった方法で」


「そうか」


佐藤はそれ以上、余計なことを言わなかった。だが、その淡々とした声音には、どこか烏丸の機転と勇気を認めるような響きが含まれている気がした。


佐藤は人形に残された呪いの質を確かめるように指先を近づけたあと、懐から呪符を取り出した。


人形に呪符を合わせ、静かに呪文を唱える。手順を踏むごとに、人形にこびりついていた澱みが、陽炎のように揺らめきながら消滅していくのが分かった。


「……これでいい」


作業を終えた佐藤は、完全に呪いの抜けたただの古人形を見下ろすと、あらかじめ用意していた小さなシャベルで地面に穴を掘り、それを丁寧に土へと埋めた。


「……よかった」


烏丸が小さく肩を下げて微笑んだ。昨夜、一人でこの恐怖に立ち向かった彼女の表情には、昨日よりも少しだけ自信のようなものが宿っているように見えた。


「それにしても、一体誰が、何のためにこんなものを神社に置いたのかな」


俺がそうつぶやくと、土を均し終えた佐藤は、その場所を見下ろしたまま、感情の起伏のない声で淡々と言った。


「さあね。世の中には、何の理由もなく人を呪う人間もいる」


俺は、その言葉に何も返せなかった。

誰が何のためにこんなものを置いたのかは、分からないままだ。


けれど、少なくともこの人形の呪いで、もう人は苦しまなくていい。

それだけは確かだった。



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