夏祭りの夜、烏丸と 前編
じっとりと肌にまとわりつく夏の夜気。その不快感を吹き飛ばすように、神社の境内は提灯の明かりと、威勢のいい屋台の呼び込みに満たされていた。
夏休み半ば。俺は、オカルト部の同級生である烏丸と二人で、街の夏祭りに来ていた。
最初は、三人で来るはずだったのだ。
『祭り?時間の無駄だ。君たちだけで勝手に行きたまえ』
佐藤は祭りよりも古書をめくる方がよほど有意義らしい。
というわけで、結局二人きり。
人混みが苦手な烏丸の袖口を引くようにして、なんとか境内の少し開けた場所まで辿り着いた。
「……一ノ瀬くん」
振り返ると、烏丸が少し離れた屋台をじっと見つめていた。
「……焼きトウモロコシも、おいしそうです」
「さっきイカ焼きを食べてなかったか?」
「はい」
「その前にたこ焼きも食べてたよな?」
「はい」
「……まだ食べるのか」
「……だめ、ですか?」
烏丸は少しだけ、俯き加減のままこちらを見上げてきた。前髪の隙間から覗く大きな瞳に見つめられると、妙な罪悪感が込み上げてくる。
「いや、だめじゃないけど」
口では抵抗しつつも、俺はすでに財布を取り出していた。
烏丸を人が密集した屋台の列に並ばせたら、買い終える前に文字通り押し潰されてしまうだろう。だから、俺が代わりに彼女の欲しがるものを買ってくるシステムがいつの間にか出来上がっていた。
「ここで待ってろよ。すぐ戻るから」
財布から小銭を抜き出し、俺は再び熱気渦巻く人の波へと足を向けた。
(……俺、もしかしてこいつを養ってるのか?)
ふと頭をよぎった疑問に、自分で苦笑してしまう。
当の烏丸はといえば、俺の手元からトウモロコシが渡されると、一生懸命に齧り始めた。小動物めいたその姿を見ていると、まあ、財布が軽くなるくらいは安いものか、という気がしてくるから不思議だ。
空き容器をゴミ箱へ放り込んだ頃、俺たちはようやく人混みの薄いエリアを見つけた。境内の隅、大きな御神木の影にひっそりと置かれた古びた木製ベンチだ。
遠くからお囃子の音が心地よく響いてくる。
「ふぅ……。ちょっとここで休むか」
ベンチに腰を下ろすと、夜風が火照った肌を優しく撫でていく。烏丸は、俺の隣にちょこんと腰掛けた。
祭りの熱気から少しだけ切り離されたような、穏やかな時間が流れる。
――だが、その平穏は突如として破られた。
「頼む!きみ、助けてくれ!」
切羽詰まった叫び声とともに、法被を着た中年の男が、血相を変えてこちらに走ってきた。額には大粒の汗が浮かび、顔は青ざめている。ただ事ではない雰囲気に、俺は思わず身を固くした。
「あの、どうしたんですか?」
「太鼓を叩く予定だった人間が、急に腹を壊しちまってな!もうすぐ本番が始まるんだが、代わりがいないんだ!」
「えっ、それは災難ですね……って、ええ!?」
男は俺の肩をガシッと掴むと、すがるような目を向けた。
「頼む!これ、本当に今夜のメイン神事なんだ!君、お願いだから代わりに叩いてくれ!」
「いや、俺、太鼓なんて叩いたことないですよ!?」
「リズムに合わせて叩いてくれればいい!太鼓のバチさえ握れれば誰でもいいんだ!頼む、このとおりだ!」
男は今にも泣き出しそうな顔になり、その場で深く頭を下げた。
そんな無茶な、と断る言葉が口を突いて出かける。しかし、必死に頭を下げ続ける男の姿を見ていると、どうしても突き放すことができなかった。ここで見捨てて立ち去ったら、今夜の祭りはどうなってしまうのだろうか。
「……くそっ、分かりました!」
俺は覚悟を決めると、隣でじっと事の顛末を見つめていた烏丸を振り返った。
「烏丸、ちょっとここで待っててくれ!」
「……うん。いってらっしゃい、一ノ瀬くん」
烏丸は小さく頷いて、手を振った。
こうして俺は、夏祭りをのんびり楽しみに来たはずなのに、なぜか見ず知らずの男に連行され、烏丸と離れて裏手のテントへと全力で走る羽目になった。
「おい、時間がない! こっちだ、早く登れ!」
男に腕を引かれ、嵐のような勢いで連れてこられたのは、広場の中心にそびえ立つ巨大な櫓の上だった。
すでに他の演奏者たちは位置につき、バチを構えて開始の合図を待っている。もちろん、練習する時間なんて一秒たりともない。それどころか、俺はある重大な事実に気がついた。
「あの、衣装は?……俺、これしか着てないんですけど!?」
周りは全員、お揃いのいなせな法被姿だ。対する俺は、私服のTシャツにチノパンという完全な余所者スタイルである。
「ああ、そうか!伝統で、太鼓は上半身裸なんだ。上さえ脱いでくれればそのままでいい!ほら、時間がないんだ!」
「本当にこれで叩くんですか!?」
「始まっちまうぞ!」
男の気迫に圧され、もう何を言っても無駄だと悟った。
俺は半ばヤケクソになりながら、着ていたTシャツを勢いよく脱ぎ捨てる。
結果として出来上がったのは、下半身は普段着のズボンにスニーカー、しかし上半身だけは真っ裸というスタイルだった。祭りの厳かな演奏者の中に、明らかに場違いな男が一人混ざっている。
――カーン、と開始の鐘が鳴り響いた。
「じゃ、じゃあ……いきます!」
俺は周囲の視線を振り払うように、見よう見まねで重たいバチを構えた。
――ドンッ! ドン、ドンッ!
お腹の底に響くような轟音が響く。
(……あれ? 思ったより難しいぞこれ!?)
ただ叩けばいいと思っていたが、和太鼓の反動は想像以上に凄まじかった。バチの扱いすらぎこちない俺は、一打ごとに腕を持っていかれそうになる。
完全に腰が引け、足元も落ち着かないまま、やみくもに腕だけでバチを振り下ろす。周りの演奏者たちの動きを目で追いながら、必死にそのリズムに合わせようとしがみついた。
「ハッ、セイヤッ!」という周囲の威勢のいい掛け声に、心の中で(すいません、すいません……!)と平謝りしながら腕を振る。何度かリズムを外しかけ、背中に冷や汗が流れたが、それでも俺は必死だった。
せっかくの祭りなのだ。ここで俺がトチって、中止にさせるわけにはいかない。困っている運営の人たちの顔が頭をよぎり、ただその一心で、無我夢中で太鼓に向き合った。
しかし――事情を一切知らない観客から見れば、意味不明だった。普段着のズボンとスニーカーを履いた半裸の男子高校生が、必死な形相のへっぴり腰で、猛烈に太鼓を乱打している。
境内の盛り上がりとは別の意味で、櫓の上の一角だけが、猛烈に奇妙な空気を放ち始めていた。




