今だけは、放っておいてくれ
オレンジ色に染まり始めた夕空が、穏やかな波間に溶けていく。
別荘から目と鼻の先にあるプライベートビーチでは、心地よい潮風に乗って、炭火の香ばしい匂いが漂い始めていた。
「よし、炭の火加減はこれでバッチリだな」
トングを片手に、如月先輩が満足げに微笑む。
普段の学校では見られない、髪を後ろでラフにまとめた私服姿の先輩は、手際よくバーベキューの準備を進めていた。
「この肉、もう焼けているんじゃないか?」
網の上でじわじわと音を立てる肉を、佐藤が真面目な顔で見下ろしながら言った。相変わらず、焼き加減や食材の配置に対して合理的な意見を述べる男だ。
「いや、まだだろ。もう少し焼いたほうが……」
俺はただ仲間たちと食事を満喫できる時間が嬉しくて、つい網の上の肉をじっと凝視してしまっていた。
「一ノ瀬、さっきから同じ肉を見つめているぞ。食べないのか?」
不意に、すぐ隣からクスクスと楽しげな声が降ってきた。
振り返ると、如月先輩が少し身を乗り出すようにして、俺の顔を覗き込んでいる。距離が、近い。
「食べます! もちろん食べます!」
慌てて声を裏返しながら肉を皿に移す俺を見て、如月先輩は嬉しそうに目を細めた。
「……あ、おいしい」
そんな俺たちのやり取りとは完全に無関係なところで、烏丸が小さく呟いた。
見れば、網の端っこでじっくり育てられていた焼きおにぎりを、両手で大事そうに抱えてモグモグと食べている。
「烏丸、さっきから焼きおにぎりしか食べていないな」
佐藤が呆れたように、しかしどこか面倒見のいいトーンで指摘した。
「……好きなので」
「肉もあるぞ」
「……焼きおにぎりが、いいです」
烏丸は少しだけ体を丸める。その様子を見て、如月先輩が「ふふっ」と声を立てて笑った。
「いいじゃないか、佐藤。烏丸が満足なら。――ほら、一ノ瀬も。よく噛んで食べろよ?」
そう言って、如月先輩はトングで新しく焼き上がった肉を俺の皿にぽんと乗せてくれる。
すっかり日が落ちた砂浜に、波の音だけが静かに響いていた。
そのあと、BBQの片付けを終えた俺たちは、買ってきた花火の袋を開けた。佐藤が手際よく水の入ったバケツを用意し、それぞれが手持ち花火に火をつけ始める。
「……きれいですね」
烏丸が、パチパチと火花を散らすひねり花火をじっと見つめながら呟いた。
チカチカと明滅する光に照らされた彼女の横顔は、ほんの少しだけ明るく、嬉しそうに見える。
「ああ」
俺は相槌を打ちながら、自分の持った線香花火の火種が落ちないよう、そっと息をひそめた。
「こういう時間も、たまには悪くないな」
ふいに、少し離れたところで如月先輩の声がした。
赤や青、黄金色の火花の向こうで、如月先輩が柔らかく目を細めていた。
――思わず、目を奪われた。
(俺は今……如月先輩と一緒に、夏の夜を過ごしているのか?)
学校のアイドルである如月生徒会長と、こうして同じ花火を見ている。その事実の特別さに今更ながら気づいてしまい、急に胸の奥がドクンと跳ねた。
「一ノ瀬、それ、もう火が落ちそうだぞ」
佐藤の冷静な声に引き戻され、俺は慌てて「お、おう」と生返事を返す。
自分の手元を見ると、線香花火の小さな丸い火種が、静かにポトリと砂の上に落ちるところだった。
その後も、誰かが大騒ぎするわけでもなく、俺たちはただ静かに、残りの花火を一本ずつ楽しんだ。パッと咲いては消えていく光の余韻を惜しむように、穏やかな時間が流れていく。
「よし、ゴミはまとめたな。そろそろ別荘に戻るか」
佐藤の合図で、俺たちは夜の潮風に後ろ髪を引かれながら、明かりの灯る別荘へと歩き出した。
◇
お風呂から上がった俺は、別荘の広々としたリビングのソファに深く体を預けていた。
適度に冷房の効いた部屋は快適そのもので、BBQと花火の心地よい疲労感も手伝って、体がいい具合に脱力している。
少し離れたローテーブルの対面では、同じく入浴を済ませて髪をごく自然に下ろした烏丸が、お茶の入ったマグカップを両手で包むようにして静かにくつろいでいた。
ピロリン♪
静かな部屋に、スマホの軽快な通知音が鳴り響いた。
「……ん?」
何気なくポケットから端末を取り出し、画面を見る。
『ユナ』
「…………」
俺は無言で、すっとスマホを画面ごとソファの上に伏せた。
――いや、待て。
まだメッセージの内容すら確認していない。
なのに、なぜ俺は今、こんなにも嫌な予感がしているんだ?
ゴクリと生唾を飲み込み、恐る恐るスマホをひっくり返して画面をタップする。
通知のポップアップを開いた瞬間、まばゆいばかりの輝きを放つ画像が、次々とタイムラインへと流れ込んできた。
画面を埋め尽くしていたのは、プールで楽しそうにしている日和たちの写真だった。
ユナ『今日マジ最高だったー!!』
ユナ『ひよりんもあゆっちも超盛れてるwww』
背景には青くきらめく水面と、眩しい太陽。その中心で、日和、ユナ、あゆっちの三人が、これ以上ないほど満面の笑みでカメラにピースサインを向けている。
「……ふん。ずいぶん楽しそうじゃねえか」
俺は思わず、鼻からフッと息を漏らした。画面から放たれる圧倒的な「陽のオーラ」に当てられそうになり、再びスマホを画面ごと伏せる。
そして、視線を窓の外へと向けた。ガラスの向こうには、静まり返った真っ暗な夜の海がどこまでも広がっている。
(だが、こっちだって負けてはいない)
俺は胸の中で、ユナのメッセージに向かって静かに言い返した。
(プライベートビーチに、BBQに、花火。しかも、如月先輩までいる)
そうだ。あっちが華やかなプールなら、こっちは大人の隠れ家的なプライベートビーチだ。
肉を焼き、波の音を聞きながら花火を見上げ、学校一の美女である如月先輩と同じ時間を共有したのだ。これ以上の贅沢があるだろうか。
(……俺だって、十分リア充じゃないか!)
誰に聞かせるでもなく、俺は胸の内でひとり満足げに頷いた。隣のソファで烏丸が「……?」と不思議そうな視線をこちらに向けていたが、今の俺の充実感を止めることはできなかった。
「……一ノ瀬、何をひとりで頷いているんだ?」
不意に背後から声をかけられ、俺はソファの上で文字通り跳び上がった。
「うおっ!? い、いえ、何でもありません!」
慌てて振り返った俺は――その瞬間、完全に言葉を失った。
そこに立っていたのは、湯上がりの如月先輩だった。
お風呂から上がったばかりの先輩は、オーバーサイズのラフなTシャツにショートパンツという、驚くほど無防備な私服姿だった。いつもきっちりと整えられている艶やかな黒髪は、まだ少し湿り気を帯びて肩に流れている。
学校での凛とした制服姿からは想像もつかない、柔らかくて、どこかあどけない雰囲気がそこにはあった。近づいただけで、さっきまでの炭火や潮の匂いをすべて吹き消すような、シャンプーの甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
(…………っっっ!!!)
脳内が真っ白に染まる。本人は特に何も意識していない様子で、普段どおりに小首を傾げているのが、逆に破壊力抜群の「不意打ち」となって俺の胸に突き刺さった。
「どうした?何かついているか?」
如月先輩は自分の頬のあたりをトントンと指先で触りながら、不思議そうに顔を覗き込んできた。顔が、近い。湯上がりのせいか、いつもより少しだけ肌が火照っているように見えるのは気のせいだろうか。
「い、いえ!何も!」
心臓の音を悟られないよう、俺は引きつった笑顔で全力で首を横に振った。
如月先輩は「そうか?」と俺の様子を不思議に思いつつも、それ以上は追及せず、壁の時計に目をやった。
「ならいいが。明日は帰るんだ。あまり夜更かしするなよ」
「は、はい……!」
「よし、じゃあ私はお先に。おやすみ、一ノ瀬。烏丸もね」
「……おやすみなさい、先輩」
烏丸が小さく手を振り返すのを見届けてから、如月先輩はパタパタと軽い足音を立てて、奥の客間へと去っていった。
パタン
ドアが閉まる音がリビングに響く。
俺は胸を押さえたまま、しばらくその場から動くことができなかった。遅れてやってきた猛烈な熱さが、一気に顔へとのぼってくる。
(……訂正しよう)
俺は心の中で、さっき伏せたスマホの画面に向かって、深く深く頭を下げた。
(俺はリア充なんてレベルじゃない)
ユナたち、すまん。プールで盛れた写真がなんだ。こっちには湯上がりの、あの如月先輩の破壊力抜群の笑顔がある。
(人生の勝ち組なのでは……?)
そんな誇らしさと、まだバクバクと鳴り止まない鼓動を抱えながら、俺はもう一度、夜の海に向かって静かに深く頷いた。
ピロリン♪
だが、そんな余韻を切り裂くように、再びスマホから軽快な通知音が鳴り響いた。
「……ん?」
現実に引き戻され、怪訝に思いながら画面を見る。
『ユナ』
「……」
俺は無言でスマホを裏返した。
「……今だけは、放っておいてくれ」
せめて今夜くらいは、如月先輩との幸せな時間に浸っていたい。
俺はそう自分に言い聞かせ、再び夜の海へと視線を戻した。




