夏の海と、平穏な一日
櫛を無事に封印し、街のファミレスで遅めの昼食を取っていた。
「ハンバーグ定食、お待たせしました」
ジューシーな肉の匂いがテーブルに広がる。
ドリンクバーのメロンソーダをストローで啜りながら、俺はこの遠征を承諾した本当の目的。如月先輩の水着について考えていた。
そう、如月先輩の「去年の水着はサイズが変わっているから、新しく買う」という、あの破壊的なセリフである。
今まさに、目の前に座っている如月先輩は、冷房の効いた店内で涼しげにアイスティーを嗜んでいる。ファミレスの安っぽい照明の下でも、その凛とした佇まいは全校のアイドルのままだ。
「ところで先輩、どんな水着なんですか?」
完全に、口が滑った。
「ぶふっ……!?げほっ、げほっ……!」
斜め向かいで静かにパフェを突ついていた烏丸が、盛大にむせてスプーンを落とした。隣の佐藤は「やれやれ」と言わんばかりに、俺を睨みつけてくる。
一瞬でテーブルの周りの空気は凍り付いたが、当の如月先輩は、ピクリとも動じなかった。
それどころか、グラスをコト、とテーブルに置くと、腕を組み、笑みを唇の端に浮かべた。
「ほう。一ノ瀬、私の水着がそんなに気になるのか?」
「い、いや! 別にそういう意味じゃなくてですね! その、ほら、純粋な機能面での懸念というか!」
慌ててそれっぽい大義名分を並べ立てるが、完全に手遅れだった。
言い訳すればするほど墓穴を掘る。さっきまで凝視していた先輩の肢体を脳内で水着に変換していたことが、その場にいる全員に筒抜けである。
「機能面、ねえ」
如月先輩は面白そうに目を細めた。
「まあ、安心したまえ。……君の期待を裏切らないものを選んだつもりだよ」
先輩はそう言って、わざとらしく流し目を送ってきた。
(くっそ……! 完全に遊ばれてる……!)
自分のチョロさを猛烈に後悔しながらも、俺の脳内は「期待を裏切らない水着」というパワーワードによって、もうすぐ目の前に現れるであろう『夏の奇跡』への期待を、どうしても捨てきれずにいたのだった。
ファミレスでの昼食を終え、別荘に戻った俺たちは、海水浴に向けてそれぞれ水着に着替えることになった。
部屋でさっさと海パン一丁に着替えた俺は、女子二人がリビングに降りてくるのを今か今かと待ち構えている。あまりの落ち着きのなさに、我ながら貧乏揺すりが止まらない。
たまらず、俺は佐藤に話しかける。
「なあ、佐藤。先輩、どんな水着なんだろうな?」
「知らん」
佐藤はピシャリと切り捨てた。その声にはわずかな情緒も含まれていない。
「お前、興味ないの?」
「全くないな。むしろ、一ノ瀬君がなぜそこまで他人の衣服の面積を気にしているのか、僕には理解できん」
「いや、他人の衣服の面積って……如月先輩だぞ!?あの全校生徒の憧れの人の水着姿をこれから拝めるんだぞ!?男としてちょっとはソワソワするだろ!」
「僕にしてみれば、なぜ君がそこまで浮かれているのかが理解不能だ。君は蜘蛛の巣の美しさに目を奪われて、自分から絡まりに行く羽虫のようだ」
目の前に特大のご褒美がぶら下がっているというのに、佐藤はまるで関心がないのだ。
俺には理解できない。
結局、俺は待ちきれずに一足先にプライベートビーチへと飛び出していた。
じりじりと照りつける太陽、どこまでも青い空、そして優しく打ち寄せる波の音。絶好の海水浴日和の中、俺が砂浜でそわそわと歩き回っていると、別荘の階段の方から軽やかな足音が聞こえてきた。
「待たせたな、一ノ瀬」
その声に弾かれたように振り返った俺は、目の前の光景に危うく心臓を停止させかけた。
そこにいたのは、深い赤のワンピース水着を身にまとった如月先輩だった。
長い黒髪と、落ち着いた赤のコントラスト。普段の制服姿とは違う華やかさに、俺は一瞬、言葉を失った。
(……最高すぎるだろ、夏!!!)
普段は生徒会長として凛々しく、誰も近寄らせないほどの絶対的な存在感を放つ如月先輩。その彼女が、今、目の前で色気を全力で放ちながら砂浜に立っている。そんな彼女と、今日はこのプライベートビーチで一緒に遊べるのだ。男子高校生の俺にとって、これはもう完全に夢のような時間だった。蜘蛛の巣だろうが羽虫だろうが構うものか、俺は今、猛烈に感動している。
「あ、あの……一ノ瀬くん、変、じゃないですか……?」
先輩の圧倒的なオーラの後ろから、おずおずとついてきたのは烏丸だった。
彼女は淡いラベンダーのワンピース水着を着ており、胸元には自分の体と同じくらいの大きさの、大きなヒマワリ柄の浮き輪をぎゅっと抱きしめている。
なるほど、ヒマワリか。ハムスターはヒマワリの種が好きだったな。
「いや、すごく似合ってるよ。……ところで烏丸、その浮き輪は?」
俺が問いかけると、烏丸はさらに浮き輪をぎゅっと抱きしめ、消え入りそうな声で呟いた。
「……泳げないんです、私」
「なるほど」
その謙虚すぎる佇まいとハムスターのような怯え方に、俺は妙に納得してしまった。
「さあ、一ノ瀬。せっかくのプライベートビーチだ、早く海に入ろうじゃないか」
如月先輩がいたずらっぽく微笑んだ。
怪異事件も片付き、目の前には如月先輩の水着姿。ついにご褒美の時間が始まったのだ。
海に入る直前、俺は先ほどからずっと頭の片隅に引っかかっていたことを、確認のために尋ねてみることにした。
「そういえば先輩、あの建物の件はどうなりました?」
俺の問いに、如月先輩は美しい髪をかき上げながら、事も無げに答えた。
「ああ、それならすでに叔父の管理会社へと連絡を済ませておいた。立ち入りを防ぐための頑丈な柵の設置対応や、今後の定期的な管理についても、速やかに進める手はずが整っている」
さすがは切れ者の生徒会長、仕事が早すぎる。
「さらに、無断侵入して動画を撮影していたあの投稿者についてもね。叔父の会社を通じて公式に動画の削除要請と、法的措置をチラつかせた警告を行う予定だ。二度とあの場所に悪ふざけで近づく者は現れないさ」
その徹底した事後処理の手腕に、俺は心底感心せざるを得なかった。
「なるほど……。それなら、ひとまず安心ですね」
「ああ。面倒な話はここまでだ」
如月先輩はそう言うと、どこまでも広がる青い海へと視線を向け、不敵で、しかしどこか少女のような眩しい笑みを浮かべた。
「海に入りましょうよ!」
俺はテンションに身を任せて、如月先輩と烏丸に声をかけた。
すると、俺たちより先に一歩だけ海へ向かって歩いていた、相変わらず堅物な顔をした佐藤が不意に振り返った。
「一ノ瀬君、あちらの岩場には近づくなよ」
「岩場?」
佐藤が顎で示した先へ、俺はふいと目を向ける。
──リアス式海岸特有の、複雑に入り組んだ岩場の陰。
そこには、真夏の太陽光を完全に無視した、ねっとりとした『黒い影』のようなものがうごめいていた。長い腕のようなものが岩の隙間からニョキニョキと伸びた悍ましい姿をしている。
霊感100%の俺の眼には、当然、その不気味な姿がカラーの高画質ではっきりと見えていた。
しかし──。
今の俺にとって、最も気になるのはそんな怪異ではなかった。
「わかった。近づかなきゃいいんだろ?」
俺はあっさりと了承し、一秒で海の方へと向き直った。
怪異が見えていないわけではない。位置も形も完璧に把握している。
ただ、今はそれ以上に意識を向ける価値が、あの岩場の黒いモヤモヤにはひとかけらもない。
人間、欲望のパワーが勝っている時は、悍ましい怪異すら背景の雑草と同じ扱いになる。
「……一ノ瀬君、いいの……?」
岩場の気配に気づいているのか、烏丸が浮き輪の影から心配そうに呟く。
「いいんだよ烏丸、触らぬ怪異に祟りなしだ。それより泳ごうぜ!」
こうして、待ちに待った海水浴がいよいよ幕を開けたのだった。
「それっ! 如月先輩、喰らえ!」
「ほう、やるじゃないか一ノ瀬。だが私に水をかけるからには、それ相応の報いを受けてもらうぞ」
俺は如月先輩とバシャバシャと激しく水を掛け合い、これ以上ないほど海水浴を満喫していた。
いつもは生徒会長として圧倒的な威厳に満ち、学校の秩序を支配している如月先輩。そんな近寄りがたいはずの彼女が、今は濡れた髪を煌めかせながら、少女のように楽しそうに応戦してくれている。男子高校生の俺にとって、これはもう一生分の運を使い果たしたんじゃないかと思えるほどに、貴重で贅沢な時間だった。
ふと視線を横に向けると、淡いラベンダーの水着を着た烏丸がいた。
彼女はひまわり柄の浮き輪の真ん中にすっぽりと収まり、波のほとんどない浅瀬でプカプカと静かに漂っている。
「烏丸、楽しいか?」
「……はい。足がつきますし、これなら、大丈夫です……。すごく、楽しいです」
無理に深いところへ連れて行って泳がせることもなく、彼女は彼女なりのペースで、この夏の海を穏やかに楽しんでいるようだった。
そのころ佐藤はといえば、一人でかなり沖のほうまで進んでいた。
そして──。
「……あいつ、何やってんだ?」
俺は思わず動きを止めて、沖の佐藤を凝視した。
佐藤は常軌を逸した驚くほどの速度で、右へ、左へと激しくクロールで移動を繰り返していた。
「……あいつ、あれで本当に楽しいのか?」
「さあね。佐藤なりの合理的なリフレッシュ方法なんじゃないか?」
如月先輩がくすくすと笑う。
確かに、わざわざ沖まで行って「楽しいか?」と聞きに行くほどのことでもない。
岩場の陰には相変わらず黒いモヤモヤとした怪異がうごめいているが、俺たちは誰もそこへ近づかない。
俺は先輩と笑い合い、烏丸は浅瀬で揺られ、佐藤は沖を爆走している。
それぞれが、それぞれの楽しみ方をしている。
今回の遠征は怪異の封印も完璧で、社会的信用を爆破してくるギャルたちもここにはいない。不審者動画を撮られる要素は、この美しいプライベートビーチには完全に存在しなかった。
(勝った……。俺はついに、理不尽まみれの世界から『完全な勝利』をもぎ取ったんだ……!)
青い海にぷかぷかと身を委ねながら、俺は幸福感の中で確信していた。
最高の夏休みが、今ここに幕を開けたのだと──。
しばらく水遊びを楽しんだあと、俺は用意してきたボールを拾い上げ、一つの提案をした。
「せっかくだし、みんなでビーチバレー、やりませんか?」
浅瀬で軽くボールを打ち合うことになり、浮き輪から降りた烏丸も参加することになった。
如月先輩は烏丸に対してはきっちりと力加減を調整し、ふわりと返しやすい優しい球を送っている。
しかし、ターゲットが俺になった瞬間、如月先輩の目がスッと据わった。
「それっ、一ノ瀬!」
先輩の手から放たれた球は、烏丸の時とは打って変わって容赦のない鋭い軌道を描く。とはいえ、先輩が放ったのは、普通に構えていれば十分にレシーブできる範囲の、ごく一般的な返球だった。
問題は、先輩の側にではなく、完全に俺の側にあった。
如月先輩がボールを打ち返した、その瞬間。
ジャンプした先輩の美しい肢体、そして濡れた長い黒髪から飛び散る水飛沫──真夏の太陽に照らされたその眩しすぎる全貌に、俺の意識は一瞬、男子高校生としての煩悩的な意味で完全に別の宇宙へと飛んでしまった。
結果──。
完全なノーガード状態となった俺の顔面に、バレーボールが吸い込まれるように直撃した。
「ぶべっ!」
盛大な音を立てて、俺は浅瀬の海水へとド派手に吹っ飛んだ。鼻の奥をツンとした痛みが走り、盛大に水を吹き出す。
「……一ノ瀬?」
水しぶきを上げてひっくり返った俺を見て、如月先輩は不思議そうに小首を傾げた。
「今のは普通に返せただろう? なぜわざわざ、顔からボールに当たりにいったんだ?」
「い、いや……これは、その……ッ」
説明できるわけがない。
先輩の水着姿があまりにも眩しすぎて脳のヒューズが飛びました、なんて口が裂けても言えない。
如月先輩は「何をしてるんだ」と言いたげな納得のいかない顔をしているが、それ以上の追及はしてこなかった。
「一ノ瀬君、大丈夫……?」
烏丸は本気で心配そうな目で俺を見つめた。
「何をやっているんだ君は」
沖から上がってきた佐藤が冷ややかな視線を向けた。
ビーチバレーを終え、俺たちは一旦パラソルの下で休憩することにした。
ふと、視線を波打ち際に向けると、佐藤が砂浜にポツンとしゃがみ込み、寄せては返す波をじっと観察しているのが見えた。
「……何してんだ、あいつ?」
呆れつつも、俺は近づいて声をかける。
「おい、佐藤。何やってんだ?」
「フラクタルを観察していた」
佐藤は水滴のついた眼鏡の奥の目を波から離さずに、至極真面目なトーンで答えた。
「……フラクタル?」
聞き慣れない単語に俺が眉をひそめると、佐藤は波の満ち引きを見つめたまま、理路整然と説明を始める。
「自然界には、拡大しても似たような構造が繰り返し現れる幾何学的な概念がある。海岸線や雲、そしてこの波の波形にも、そうした自己相似的な特徴が見られることがあるんだ」
「へえ……」
「これは怪異でも同じことが言えるよ。怪異も詳細に観察すれば、全体の形状と部分的な構造に、ある種の相似性が見られる可能性がある」
「……」
「もしそれが確認できれば、未知の怪異の分類や、発生原理そのものを論理的に考える上で──」
「訳わからん」
俺は即座に佐藤の言葉を遮り、会話を強制終了させた。
なぜ俺が真夏の太陽の下で、陰陽師による怪異の研究発表を真面目に聞かされなければならないのか。
佐藤は俺に話をぶった斬られても特に気にする様子もなく、淡々と、再び波へと視線を戻した。
「面白いんだがな」
「そうかよ……」
岩場の陰には相変わらず黒い影がうごめき、佐藤は波打ち際で数式を組み立て、烏丸は浅瀬で漂い、如月先輩はパラソルの下のサマーベッドで寝転がり、それらを笑顔で見つめている。
それぞれのスタイルで満喫する、理不尽だけどどこか愛おしいオカルト部の夏。
俺は青空の下、心地よい潮風に包まれて大の字に寝転ぶのだった。
◇
夕方。
海が鮮やかな夕焼けに染まり、水平線の向こうへ太陽がゆっくりと沈み始めるころ、俺は赤く染まった海を眺めながら、今日一日を振り返る。
昭和の怨念が蓄積した怪異事件は完全に解決した。
如月先輩が現実側の後始末を完璧に手配してくれたので、今後の心配もひとまずない。
そして何より──。
如月先輩と一緒に、全力で遊べた。
新調された深い赤のワンピース水着の破壊力は凄まじかったし、ビーチバレーで顔面レシーブをかますという大失態はあったものの、普段は遠い存在と、こんなふうに同じ時間を共有できたのだ。
それだけでも、大切な夏休み初日を潰して今日ここへ来た価値は十分すぎるほどにあった。
さらに、もう一つ。
今日はスマホカメラの存在を1ミリも気にする必要がなかった。
いつもなら、命がけで誰かを怪異から救うたびに、最悪な不審者ムーブとしてギャルたちに動画を撮影され、翌日にはSNSで大拡散されている。
しかし、今日は違う。
ここは完全なプライベートビーチ。
誰にも撮られていない。
誰にも晒されていない。
穏やかに、最高のままで一日を終えられそうだ。
俺はこれまでにない充実感に包まれながら、満足げに深く息を吐き出した。
「……今日はいい一日だった」
ぽつりと呟いた。
そのとき、サク、と隣の砂浜が、わずかに沈んだ。
見ると、烏丸がそっと立ち止まっていた。
「烏丸?」
声をかけると、烏丸は小さく頷き、ちょこんと膝をそろえて座った。
それから、俺と同じように、赤く染まる海をじっと眺めた。
しばらく、会話はなかった。
聞こえるのは、寄せては返す、静かな波の音だけ。
「……きれいですね」
「だな」
「……楽しかったですね。私、こんなに楽しかったの、初めて」
ぽつりと言った彼女の横顔は、穏やかに、嬉しそうに目を細めて微笑んでいた。
「――そうか」
俺は短く答えた。
烏丸は、それ以上何も言わなかった。
ただ、夕日に染まる海を静かに眺めていた。
俺たちの間には、波の音だけが静かに流れていた。




