見えなかったから、救えた命
元女中の老婆から聞いた「退職する際、宿の裏手に櫛を埋めた」という言葉を頼りに、俺たち四人は再びあの曰く付きの廃墟へと向かった。
建物の真裏。生い茂る夏の雑草を掻き分け、裏手へと回り込む。櫛が埋められている場所に、一歩近づいた瞬間だった。
「……っ!?」
俺の視界に、初めて明確な怪異が映し出されたのだ。それは極限まで濃縮された、ドス黒くねっとりとした禍々しいエネルギーの塊。
怪異の本体は、建物の中を彷徨っていたのではない。この地中深くにある『依り代』そのものと、強烈に結びついていたのだ。
「佐藤、そこだ!その下に確実にある!」
「ああ。烏丸さん、会長、少し下がってください。護符をつけている僕以外は危険だ」
佐藤が携帯用のスコップを取り出し、土を迷いなく掘り起こしていく。ザク、ザク、と湿った土が跳ね上げられ、次第に地中深くだった場所が剥き出しになっていく。
土の中から、古びた櫛が出てくる。
その瞬間だった。
「…………」
俺の目に、女が現れた。
長い髪を振り乱し、こちらを怨嗟の表情で激しく睨みつけている。その全身からは、禍々しい赤黒い霊気が津波のように噴き出していた。数十年もの間、地中で純化され続けた剥き出しの恨みが、俺の視界を真っ赤に染め上げる。
「一ノ瀬君、見えたね!?」
「ああ、バッチリ見えてる! 髪の長い女だ、全身から赤黒いモヤを出しながら、親の仇みたいな顔でこっちを睨みつけてる!」
俺の言葉に、佐藤は即座に手元の櫛を睨みつけた。
「これが怪異の依り代であり、すべての大元だ。建物内で烏丸さんが感じていたのは、依り代から漏れ出した残存思念の影響だ。本体そのものは、あの櫛に結びついていたんだ」
佐藤の合理的な分析が、俺の眼の前に広がる光景と完全に一致する。怪異の姿が見えなかったのは、怪異がそこにいなかったから。これほど単純で、これほど不気味な答えはなかった。
「どうする、佐藤。浄化するのか?」
如月先輩が、目を細めて怪異を視認しようと努力しながら、問う。
すると、佐藤は首を振った。
「呪術には『呪詛返し』というものがあります。相手に向けられた呪いを、そのまま術者や発信者に返す方法です」
佐藤は手元の古びた櫛を凝視したまま、冷や汗を流して言葉を続けた。
「一般的な呪詛返しとは少し違いますが、似た現象が起こる可能性があります。この櫛に溜まった恨みを強制的に祓えば、消えるとは限らない。行き場を失った思念が、本来の持ち主へ逆流するんです」
「本来の持ち主って……まさか、さっきの」
「ああ、あの女性です。彼女はまだ生きている。しかも、何十年分もの恨み。そんなものを一気に生身の人間へ返したら……命に関わる」
佐藤の言葉に、俺はドクンと心臓が跳ね上がるのを感じた。
建物から退出した直後に佐藤が提案した『札による強制浄化』を思い出していた。
もし、あの時点で佐藤がお札による強制浄化を実行していれば──あの穏やかな老婆に、数十年分の呪詛が直撃して命を落としていた可能性があったのだ。
「一ノ瀬君……僕の知識だけでは判断できなかった。君が『自分には見えない』という理由だけで僕を止めてくれたことが、結果的に彼女の命を救うことにつながったんだ。強制的に払わなくて本当によかった。……今回は勉強になったよ」
佐藤は静かに術者としての学びとして胸に刻むように呟いた。
「じゃあ、どうするんだ?」
「──『封じる』」
佐藤は即答した。
懐から取り出した特殊な呪詛封じの箱に、古びた櫛を慎重に入れる。そして、その上から何重もの符で厳重に封印を施した。
パチン、と箱の蓋が閉じた瞬間。
俺の視界を真っ赤に染めていた女の姿と、周囲に渦巻いていた赤黒い霊気が、嘘のように完全に消え失せた。
怪異を無理に討伐して持ち主へ怨念を還流させず、外部へ漏れ出すことも防ぐ。危険な呪詛を封じるという形で、この事件は静かに解決を迎えた。
「今回の調査結果は、従姉妹には私から報告しておく」
事件がオカルト的に決着したところで、仕掛け人である如月先輩が口を開いた。
「如月先輩。父親や叔父上には報告しないんですか?」
「説明しても信じないさ」
先輩は笑いながら即答した。大人たちの現実的な理屈は、そのままにしておくのが最も合理的だからだ。
「この建物は私の叔父の所有物だ。今後、誰かが勝手に侵入して封印した依り代を掘り返すようなことがあっては困る。建物は興味本位ではいられないように、立ち入り禁止の警告看板を即座に立ててもらう」
「そして、動画を撮影したYouTuberについても、叔父の管理会社を通じて、無断侵入の事実を根拠に動画の削除や警告を要請しよう」
叔父の物件の財産価値を守り、マニアの不法侵入を防ぎ、警告看板の設置まで手配する。
如月先輩の徹底した現実側の後始末により、曰く付き物件の怪異は綺麗に片付いた。




