昭和の傷痕と、最後の遺物
あの不気味な廃墟から一時撤退した俺たちは、謎を抱えたまま別荘のリビングで情報の整理を続けていた。
夕方になり、外が茜色から徐々に群青色へと染まり始めた頃、玄関のチャイムが鳴った。やってきたのは、如月家のこの別荘を定期的に管理している地元の女性だった。俺たちの滞在中の夕食を作りに来てくれたのだ。
「ああ、あの高台の建物ですか?」
エプロン姿の管理人の女性は、手際よく地元の新鮮な魚介を捌きながら、如月先輩の何気ない世間話に快く応じてくれた。長くこの土地に住んでいるだけあって、やはりあの曰く付きの廃墟についても知っているらしい。
「ええ。昭和の頃からありますよ。かつては海水浴客向けの、結構賑やかな宿泊施設だったそうです。でもねえ……」
女性は包丁を止めて、少し声を潜めた。
「ある時、そこで事件が起きたんです。それをきっかけに、その宿泊施設は閉鎖されてしまって。それからはもう、ずっと使われないまま、あの建物だけが残されているんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺と佐藤は思わず視線を交わした。
怪異の原因は過去にあの建物内部で起きた、具体的な『出来事』そのものにある可能性が一気に浮上した。
「私が子供の頃には、もう閉鎖されていましたからねえ。詳しい事件の中身まではちょっと……もっと昔の人に聞いたほうがいいでしょうね。ただ、閉鎖されてからは地元の人間も気味悪がって、誰も近づかなかったんですけどねえ」
女性は困ったように笑い、煮物の鍋に蓋をした。
だが、女性は思い出したように、お玉を持ったままポンと手を叩いた。
「そういえば。今でもこの町に、昔あの宿泊施設で働いていた人が一人だけ住んでいますよ」
先輩は腕を組み、瞳を管理人の女性へと向けた。
「その方のことを、もう少し詳しく聞かせてほしい。……今も、確実にこの町に住んでいるのだな?」
「ええ、街外れの古い平屋に、お一人で静かに暮らしていらっしゃいますよ」
如月先輩はフッと唇の端を吊り上げ笑みを深めた。
「よし。ならば明日、その本人に直接会いに行こう」
先輩の即断により、翌日の行動方針は決定した。
◇
翌朝、俺たち四人は管理人の女性から聞いた情報を頼りに、街外れの古い平屋へと向かった。
木造の引き戸を叩くと、中から一人の高齢の女性がゆっくりと姿を現した。彼女こそが、かつてあの曰く付きの宿泊施設で働いていた、唯一の生き残りだろう。
「ああ……あの宿のこと」
如月先輩が丁寧に、しかし巧みに核心を突くように事情を尋ねると、老婆は縁側に腰掛け、昭和の頃の遠い記憶をぽつりぽつりと語り始めた。
「昭和の頃、私はあの宿泊施設で女中として働いておりました。そこで……事件に遭遇いたしましてね。当時は、本当に激しい恨みを抱いたものです。だから、そこを退職する際、私が長年肌身離さず使っていた古い櫛を、宿の裏手に埋めました」
宿の裏手に、櫛を埋めた。
その奇妙な呪術的行為に俺たちが息を呑む中、如月先輩がさらに一歩踏み込む。
「あなたが昔埋めた櫛について、もう少し詳しく教えてください」
しかし、問いかけられた老婆は、刻まれた深い皺を寄せて小首を傾げた。
「それが……自分が昔、宿の裏手に櫛を埋めたこと自体は、はっきりと覚えているのです。ですが、なぜそんなことをしたのか……理由が、どうしても思い出せないのです」
「思い出せない?」
「はい。当時はあれほど胸を焦がしていた激しい感情が、今の私からは綺麗に消えてしまっているのです。もう、事件に対する強い恨みも、執着も、何も残ってはおりませんよ」
穏やかに、微笑むように語る老婆。
それ以上の深追いは無意味と判断した如月先輩は、腕を組み直して「分からないのであれば、それでいい」と話を切り上げた。
高齢の女性に別れを告げ、別荘への帰り道。俺たちは炎天下のアスファルトを踏み締めながら、今の不可解なやり取りについて議論を交わした。
「おそらく、その埋められた櫛が『依り代』となり、当時の残留思念を保ち続けている可能性が極めて高い」
佐藤が眼鏡のブリッジを押し上げ、冷徹な分析を口にする。
「本来、ただの人間が吐き出した怨念や思念というものは、時間と共に空気中へ発散して消えてしまうものだ。思念だけで怪異としての形を数十年も保ち続けるのは、それこそ烏丸さんのような天然の再現性と密度がなければ不可能なはずだ。ところが今回の場合、当時の彼女の強烈すぎる感情が、長年愛用していた櫛を完璧な依り代にしてしまった」
「櫛が、彼女の残存思念を吸収し続けたってことか?」
「ああ。そして数十年が経過した。女性自身はすでに老婆になり、普通に暮らし、恨みすら忘れている。本人の感情が消えた一方で、廃墟には今も強い恨みが残っている。埋められた櫛が依り代になり、当時の残存思念を保持している可能性は高い」
俺は背筋が凍りつくのを感じた。
「だが、なぜ本人の感情がそこまで薄れているのか。櫛が本当にすべてを引き受けたのか。それは実物を確認しなければ断定できない」
人間の精神から完全に切り離され、物体に宿って数十年分の怨念だけを純化させ続けた、文字通りの呪物。
(……だから、俺の眼には『何も見えなかった』のか?)
じりじりと照りつける真夏の太陽の下、俺たちは姿の見えない、しかし確実にそこに存在する凶悪な『呪いの塊』の輪郭を捉え始めていた。




