何も映らない眼
己の社会的死が噂ではなく事実に起因することを突きつけられた俺は、魂を半分ほど口からこぼしながらみんなについて別荘へと戻ってきた。
「さて。まずはテラスから敵情視察と行こうか」
如月先輩の言葉に促され、俺たちは海を一望できる開放的なテラスへと向かう。
そこから潮風を浴びながら小高い丘の方を見上げると、目指す建物が肉眼ではっきりと確認できた。別荘からは目と鼻の先、徒歩で十分もない距離だ。
「……古い宿泊施設、ですかね」
俺はその建物の外観を見つめながら呟いた。年季の入った鉄筋コンクリートの構造や、等間隔に並んだ窓の配置からして、元ホテルか宿泊所だったんじゃないかと直感的に推測できる。
「ふむ。佐藤、君の目から見てあの土地はどう映る?」
如月先輩が、腕を組んだまま佐藤に話を振った。佐藤はいつものお堅い表情のまま、建物だけでなく、周囲の山の傾斜や海の配置、高低差といった地形全体を厳しく見据えている。
「……土地そのものに怨念を溜め込んだり、怪異を自然発生させるような風水的な特殊性は一切ない。立地そのものには何の問題もないと思う」
佐藤は眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、淡々と鑑定結果を告げた。
「土地に怪異を発生させるような特殊性はない。少なくとも、土地そのものが原因とは考えにくいですね。そこに先日のお騒がせYouTuberの動画が起爆剤となり、肝試し目的の若者やオカルトマニアが急速に集まるようになったのでしょう」
「マニア、か」
「ええ。オカルトマニアという生き物は、最初からここに怪異がいると思い込んで現場に侵入してくる。そうなると、ただの風の音や建物のきしみ、影の揺らめきだけで出たと勝手に騒ぎ立てる傾向にある。如月先輩の父親や叔父上が、これまでこの建物の噂をただの笑い話として片付け、全く真剣に受け止めなかったのも、現実的な処理だ」
佐藤の極めて合理的な分析に、なるほどと頷く。大人の理屈としては、完全にそれが正解だ。
別荘での軽い休憩を終えた後、俺たち四人は徒歩で移動し、件の古い建物へと潜入した。荒らされたエントランス、カビと埃の匂いが立ち込める薄暗い廊下。
「……これは、残存思念です」
静まり返った空気の中で、ぽつりと声を漏らしたのは烏丸だった。
人の呪詛に特化した彼女の言葉に、佐藤が即座に周囲の空気を探るように目を細める。
「確かに。この肌にまとわりつくような、ねっとりした思念は……典型的な残存思念のパターンに感じるが……」
二人の会話を聞きながら、俺は自分の視界に意識を集中させた。
霊感100%。この世のあらゆる怪異が人間と同じように完璧に見えるはずの、俺の眼。たとえそれがただの残存思念であろうと、そこにオカルトのエネルギーが存在しているなら、何かしらの視覚情報として俺には見えるはずだった。
なのに──何も見えない。
(おい、嘘だろ……?)
どんなに目を凝らしても、ただの薄暗い廃墟の廊下があるだけだ。色も、表情も、輪郭も、空間内の位置すらも、俺の眼には一切何も映らない。完璧に、ただのゼロ。これまでにない未知の異常事態に、俺の背筋に冷たい汗が伝わった。
俺が一人で困惑に冷や汗を流していると、烏丸が、小さく肩を震わせた。
「……女の人です」
その言葉に、俺と佐藤は勢いよく彼女の方を振り向いた。
「え?」
「すごく強い恨みです。……これ以上は、まずいです」
烏丸の顔は、一瞬にして完全に真っ青に染まっていた。見習いとはいえ、人の怨念の密度を正確に測れる彼女が、本能的な恐怖でガタガタと震えている。
「会長。お札で強制的に浄化させるか?」
懐から呪符を取り出しながら、佐藤が提案する。プロの陰陽師として、これ以上の深追いを避けつつ、その場ですべてを力技で一網打尽にしようという判断だろう。
秩序を最優先する如月先輩も、佐藤のその提案に視線を落とした。
「そう、だな……」
二人が強硬手段に出ようとしたその瞬間、俺は叫んでいた。
「待て、それはダメだ!」
俺の切迫した大声に、佐藤と如月先輩の動きがピタリと止まる。
「俺には怪異が見えていない。こんなことは初めてだ。俺は普段なら、クラスメイトの日常的な悪意や悪口すら、残存思念として完璧に認識することができる。なのに、烏丸がこれほど怯えるほどの怨念の渦中で、俺の眼には完璧に何も見えないんだ」
俺の言葉に、佐藤がハッとしたように目を見開いた。
「妖怪でも怨霊でも残存思念でもない、別の何かかもしれない。まだ何も分かってないんだ。正体不明のまま強制浄化なんて危険すぎる!」
霊感100%の俺にとって、怪異とは「なんとなく感じる」デマのようなものではない。人間と同じようにそこに存在する、確かな視覚情報だ。その俺の眼が完全に機能していないという事実こそが、この建物に潜む存在の異常性を証明していた。
俺のただ事ではない警告と、その確かな根拠を受け、如月先輩は即座に方針を転換した。
「一ノ瀬の言う通り……だな。佐藤、札を収めろ。一度ここを出るぞ」
「……分かりました」
佐藤が呪符を懐へと戻し、俺たちは即座に踵を返した。四人は不気味に静まり返る建物から退出した。
真夏の眩しい太陽の下に戻ってきても、体の芯の冷えは収まらなかった。
俺たちは一度落ち着くため、いったん如月家の別荘へと戻り、情報の整理を行うことにした。
土地の立地には何の問題もないはずの廃墟、烏丸が怯えるほどの「女の非常に強い恨み」。
そして何より──霊感100%の俺の眼にだけ、完璧に『何も見えなかった』という致命的な謎。
早くも底知れない底無し沼のような不気味さを孕み始めていた。




