夏休み初日、蜘蛛の糸に釣られて
期末試験という名の地獄をくぐり抜け、退屈な終業式を耐え忍び、俺はついに手に入れた。
誰にも汚されない、最高の夏休みを。
「終わった……ついに終わったんだ……!」
自室のベッドに大の字になり、俺は天井を見上げて歓喜の声を漏らした。
これで命がけで誰かを助けた結果、社会的信用が更地になっていく悪夢からも解放される。
待ち受けるのは、クーラーの効いた部屋、冷えた麦茶、そして完全なる平穏。世界はついに、この不憫な高校二年生にささやかなご褒美をくれたのだ。
──ピコン。
枕元で、スマホが非情な電子音を奏でた。
画面を開くと、そこには佐藤からのLINE。
『今から部室に集合。如月先輩から話があるそうだ』
俺の夏休みは、開始からわずか数時間で音を立てて崩壊した。
「せっかくの夏休みなのに……マジで何なんだよ……」
絶望に打ちひしがれながらも、あの生徒会長の呼び出しを無視できるはずもなく、俺は渋々と制服に着替えて家を出た。
ジリジリと肌を焼くような猛暑の中、再び戻ってきた学校は、普段とは違う奇妙な活気に満ちていた。
「ナイスボール!」「もう一本!」
グラウンドでは運動部が汗を流し、熱い中よくやるよと心の中で毒づく。教室棟の下駄箱から渡り廊下を通り、部室棟へと向かう道すがら、中庭からは演劇部が「あー! えー! おー!」と腹の底から声を張り上げているのが聞こえた。
いつもなら鬱陶しいだけの学校だが、夏休み仕様の風景はどこか新鮮に映る。
オカルト部の部室のドアを開ける。
冷房の効いた室内、その上座に、生徒会長の如月結衣はいた。
椅子に深く腰掛け、腕を組み、そして──見事な脚を組んでいた。
(……相変わらず、とんでもねえな)
俺は、吸い寄せられるようにその眩いほどの白い脚をみた。
「座りたまえ」
如月先輩が促し、俺は佐藤の対面の席に着く。烏丸はすでに端の席で、ちょこんと座っていた。
佐藤はいつも通り堅い表情を崩さない。
「あの、如月先輩。夏休み早々、また生徒会の雑用か何かですか?」
俺の問いに、如月先輩は首を横に振った。
「いや、今日は生徒会としての仕事はない。オカルト部への個人的な依頼としてここへ来たんだ」
その言葉に、佐藤がわずかに眉をひそめる。
「私の父親が、ある場所に別荘を所有していてね」
如月先輩は組んだ脚を組み替え、淡々と説明を続けた。
「その別荘のすぐ近くに、数年前から怪異が出るという噂の建物がある。建物のオーナーは父親の弟──つまり、私の叔父だ。父親も叔父も、その手の話をただのオカルトの噂話として扱っていてね。大人は本気で相手にしていない」
先輩の目が、すっと細められる。
「だが、そうも言ってられなくなった。私の従姉妹がその建物で、実際に怪異を目撃した。噂ではない、私自身が彼女から直接、恐怖に震える話を聞いたんだ。学校の管理区域外ではあるが、放置するわけにはいかない。そこでオカルト部に現地の調査、および可能であれば怪異の退治を依頼したい。……まずは各自、夏休みの予定を確認させてもらおうか」
「僕は問題ありません。いつでも動けます」
佐藤が即座に無表情で快諾する。
「私……私も、特に予定はないので……問題ないです」
烏丸も静かに頷いた。
そして、視線が俺に集まる。
(行くわけねえだろそんな危険地帯!!!)
俺の心臓は全力で拒絶を叫んでいた。
どう考えても本物の怪異案件だ。俺は霊感100%だから、行けば確実に怪異を発見してしまう。だが、俺には除霊能力も防御能力もない。つまり『霊感100%・防御力0%』のただの動く的だ。せっかくの夏休みに、わざわざ命をすり潰されにいく理由がどこにある。
「あの、俺はパスで。佐藤が一人で行けば綺麗に解決するんじゃないですか?一級怪異も一瞬で消し飛ばす一流陰陽師ですし」
俺がやんわりと拒否を告げると、隣の佐藤が眼鏡を光らせて口を開いた。
「一ノ瀬君、確かに僕には除霊の術がある。だが、隠れている怪異を確実に見つけ出す能力においては、君には及ばない。今回は実態の掴めない未知の建物だ、君がいなければ、僕は怪異を発見することすらできず、空振りに終わるリスクが高い」
「うっ……」
佐藤の完璧な正論に、言葉が詰まる。
内心で冷や汗を流す俺を見て、如月先輩は無理に説得しようとはしなかった。ただ、美しい笑みを浮かべ、代わりに『条件』を提示してきた。
「無理強いはしないさ。ただ、今回は正式な部活動の合宿として扱う。交通費や現地での諸経費は、すべて学校の予算から全額支給しよう。現地での滞在先だが、父親の別荘を無料で開放する。かなり広々とした物件だから、快適に過ごせるはずだ」
「別荘……」
その甘美な響きに、俺の眉間がピクリと動いた。
さらに、先輩は畳み掛けるようにカードを切った。
「別荘の近くにはプライベートビーチがある。調査の合間は自由だから、遊んでもらって構わん。ちなみに、今回は私も同行するつもりだ。久しぶりの海水浴、今からとても楽しみだね。私は去年の水着はサイズが変わっているから、新しく買うかな。烏丸、私と一緒に買いに行くか?」
「いいです、私、去年とサイズが変わってないから、去年ので……」
烏丸の少し悲しそうな現状維持のセリフが、部室に響く。
別荘。プライベートビーチ。自由行動。
そして何より──如月先輩が同行する。しかも、水着を新調する。サイズ!が変わった!水着を!
「俺も行きます」
光の速さで前言を撤回した。一分の躊躇もなかった。
「ほう、心変わりかな?」
如月先輩が、すべてを分かっていて意地悪そうに微笑む。
「い、いえ。学校の予算が出て、ビーチでの調査も円滑に行えるのであれば、オカルト部員として現地へ赴くのが義務であると判断しました」
必死にそれっぽい言い訳を並べるが、実際のところ、俺は如月先輩の圧倒的な美貌と、夏という魔物がもたらした極大の誘惑に、完全に入れ食い状態で釣られただけだった。
「そうか。では、決定だな」
如月先輩は、美しく不敵な笑みを深めた。
こうして、恐怖と欲望の『夏休み別荘遠征』が、完璧に確定してしまった。




