社会的死の夜には、二人分の夕飯がある
昼休みの1年3組の教室は、いつも通りの喧騒に包まれていた。
スクールカーストの頂点に君臨する一ノ瀬日和の周りには、今日も当然のようにギャル仲間が集まっている。
「ねえ見てよこれ、日和のお兄さん。超ウケるんだけどw」
ギャル仲間のユナが、スマホの画面を突き出しながら笑う。画面の中で再生されているのは、今朝更新されたばかりの新聞部の公式SNS動画だ。
「ちょ、まじ画面無駄に綺麗だし!日和のお兄さん、毎回最高だわw」
あゆっちが派手にヘアピンを揺らしながらゲラゲラと大笑いし、近くにいた軽薄そうな男子二名も「一ノ瀬の兄貴やべえな!」と調子を合わせて盛り上がっている。
動画の中で、和哉は誰もいない空間に向かってビニール傘を全力で振り回し、最終的に何もないところで豪快にダイブして吹っ飛んでいた。高画質カメラのおかげで、その必死な形相が恐ろしいほど鮮明に映し出されている。
しかし、日和だけはスマホの画面に一切視線を向けなかった。
「ひよりんは見ないの?」
ユナが覗き込むようにスマホを近づけてくるが、日和は鬱陶しそうに手でそれを払いのけた。
「いらね。ウチ、そいつの顔を見るとイラつくんだわ」
冷淡に吐き捨てる。兄と同じ苗字であることへの、リアルな嫌悪感だった。
「それより今日の帰り、あそこ寄らね?」
日和が強引に話題を切り替えると、あゆっちが「あー、あそこ? いきたい!」と即座に身を乗り出した。
「いいね、俺らも連れてってよ」と鼻の下を伸ばす男子たちを、あゆっちが「女子だけだしー」と秒で一蹴する。
三人はそのまま、放課後の女子トークへと完全に意識を切り替えた。
夕方、一ノ瀬家の静かなキッチンに、規則正しい包丁の音が響いていた。
学校から帰宅した日和は、特に何も考えることなく夕食の準備を始めていた。
冷蔵庫の扉を開ける。
棚に並んだ卵パックに手を伸ばし、一個取り出そうとして――ほんの少し指先を躊躇わせた後、日和は小さく舌を打つと、自然な動作で卵を二個、パックから取り出した。
ご飯を炊き、味噌汁を温め、手際よく卵料理とおかずを皿に盛り付けていく。
結果として、テーブルの上には二人分の夕食が完成した。
◇
「……はぁ」
一ノ瀬家の玄関前で、俺――和哉は本日何度目になるか分からない深い溜息を吐いていた。
今日の学校は地獄だった。新聞部の公式SNSにアップされた例の動画のせいで、廊下を歩くだけで全校生徒の注目の的だった。悪い意味で。
当然、日和の耳にも届いているはずだ。
家に帰れば、容赦のない言葉ですり潰されるに違いない。
ガチャリ、と極力音を立てないように鍵を開け、玄関に滑り込む。
リビングのドアの前で一度、深く息を吸い込んだ。意を決して、おそるおそる、そっとドアを開ける。
ちょうど日和は夕食を食べ終えたところだった。
リビングのドアが開いても、日和は俺の方を見ようともしない。ただ無表情のまま、手元のスマホをいじり続けている。
「た、ただいま……」
かすれた声で、どうにか言葉を絞り出す。
日和は画面に視線を落としたまま、
「おかえり」
感情の起伏が一切ない、淡々とした声を返してきた。
日和はそのまま食べ終わった自分の皿をシンクへ持っていき、流れるような動作で二階の自室へと戻っていく。
その間、俺の顔を見ることは一度もなかった。
ぽつんとリビングに取り残された俺の目に飛び込んできたのは、ダイニングテーブルの上だった。
そこには、ラップがかけられた温かい夕食が、綺麗に並べられていた。
ご飯、味噌汁、卵料理、おかず。紛れもない、一人分の食事だ。
「……これ、俺の分?」
思わず声に出していた。
家族なのだから、家に帰れば夕飯が用意されている。
そんなもの、当たり前だと思っていた。
けれど、今日の俺にとっては、その当たり前がありがたかった。
学校では社会的信用を失い続けている。
新聞部にも不審者扱いされた。
SNSでも笑いもの。
それなのに、家に帰れば、自分のための温かい食事がちゃんとそこにある。
和哉は密かに感動する。
「……ありがたいな」
ぽつりと呟き、胸の奥がじんわりと熱くなるのを覚えながら、俺はダイニングテーブルについた。静まり返ったリビングで、一人、温かい夕食を口に運ぶ。
食後、日和の分も含め、二人分の皿をシンクで洗う。
するとしばらくして、日和が二階から降りてきた。
やはり和哉には一瞥もくれない。
ピッ、とリモコンの電子音が鳴り、テレビがつく。画面の中ではバラエティ番組の賑やかな音声が流れ始めた。兄がいることなど、最初から視界に入っていないかのような態度。
俺は心臓の鼓動を少し速めながら、その様子を横目で窺う。
皿を洗い終え、水気を拭き取った俺は、意を決してソファの妹へと恐る恐る声をかけた。
「日和……さん」
日和はテレビの画面から一切目を離さない。
「ジュース飲みます?」
俺が尋ねると、日和はただ短く答えた。
「ん」
視線はバラエティ番組に向けられたまま。けれど、すっと手だけが、迷いなく俺の方へと差し出された。
俺は冷蔵庫から冷えたジュースを取り出し、その手のひらにそっと乗せる。
日和は再び「ん」とだけ言ってそれを受け取ると、何事もなかったようにジュースの缶を開け、テレビを見続けた。
会話らしい会話なんて何もない。
けれど、俺は心底安堵していた。
怒ってない。無視されてない。キモいとも言われてない。
ただジュースを渡しただけ。それだけなのに、「……よかった」と、胸をなでおろした。
日和は別に俺を心配しているわけでもないのは分かっている。
それでも――家では、二人分の夕飯を作り、帰ってきたら普通に「おかえり」と言い、当たり前のようにジュースを受け取る。
日和にとっては、それがただの「いつもの生活」の風景なのだ。
俺だけが、その「いつもの生活」に救われ、勝手に感動している。
その時。
カツ、カツカツ。
静まり返った足元から、小気味いい、木琴のような音が響いてきた。
見れば、コテツが、リビングのローテーブルの前にちょこんと座っていた。コテツは木製の天板の上に前足を乗せ、「自分にも何かくれ」と言わんばかりに、リズミカルに爪を打ち付けてこちらを見上げている。
「おっと、お前もか、コテツ」
俺は苦笑しながら、棚から犬用のペットドリンクを取り出し、コテツ専用の器に注いでやった。
差し出されたドリンクを、嬉しそうにペロペロと勢いよく舐め始めるコテツ。日和もテレビを見たまま、空いた片手でよしよしと優しく撫でていた。
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