エピローグ サヨナラ、真夏の幻影
放課後の水泳部の練習が終わり、清水青葉は一人でプールサイドに腰掛けていた。
夕焼けに染まる水面が、静かに揺れている。
数日前まで、この場所は少しだけ怖かった。誰もいないはずなのに、プールの真ん中に強大で冷酷な「男子の幻影」が立っている気がして、息が詰まりそうになっていた。
だけど今日は違う。
青葉は水面の中心をじっと見つめるが、そこにはもう、誰もいない。
夕日を反射する水面は、不思議なくらい綺麗だった。
「……ほんとに消えたんだ」
ぽつりと、乾いた声が漏れた。
中学二年の夏。昨日まで勝てていた男子たちが、自分を次々と追い抜いていった。
大した技術もないくせに、ただ純粋なパワーと身体の成長だけで、水を爆発させるような音を立てて進む男子の背中。
それが悔しくて、怖くて、努力じゃ届かない壁の象徴として、ずっと胸の奥にこびりついていた。
だから、あの日の勝負も構えてしまったのだ。
また、圧倒的な男子の身体能力を見せつけられるんじゃないかと。
「バカみたい……」
思わず苦笑する。あんな昔の劣等感を、まだ引きずっていたなんて。
そして青葉の脳裏に、あの日の光景が鮮烈に蘇った。
『清水!!』
声なんて、届くはずのない冷たい水の中だった。
けれど、ゴボゴボと激しい気泡を吐き出しながら、お世辞にも上手いとは言えないめちゃくちゃなフォームで、声にならない叫びをあげて近づいてきた、あの男の姿。
「なんなのよ、あの人……」
思わず口元が緩む。
あんなに、あんなに恐れていた『男子の身体能力』だったのに。
目の前であそこまで無様に、泥臭く、けれど全力で泳がれてしまったら。
自分が数年間も何に絶望していたのか、本当に呆れるくらいバカバカしくなってしまったのだ。
追いつけなかった男子の背中は、もう怖くなかった。
あんなに苦手だったはずの背中が、今ではただの、あの変な先輩の背中に上書きされている。
その時、ポケットの中でスマホが激しく震える。
メッセージの送り主はユナだった。
『海パンお兄さん、生徒指導室行きw』
楽しげな文面に添付されていたのは、一枚の写真。
そこには、頑丈な教師二人に両脇を抱えられ、宙ぶらりんのドナドナ状態で連行されていく一ノ瀬和哉の無惨な姿が写し出されていた。
最後までどこまでも、本当に格好のつかない人だ。
「ぶっ……!」
青葉は盛大に吹き出した。
誰もいない夕暮れのプールサイドに、久しぶりに、心からの笑い声が響き渡った。
◇
数日後。
水泳部の練習が終わり、青葉は部員たちと一緒に更衣室へ向かうため、校舎の廊下を歩いていた。
すると、廊下の向こうから見慣れた人影が歩いてくる。
ヨロヨロの学ラン姿。少し猫背。なのに、妙な存在感だけはある男――一ノ瀬和哉だ。
プールの中央。沈む自分。
暴れるようにして、必死に飛び込んできた姿——。
数日前の一幕がフラッシュバックし、思わず吹き出しそうになる。
だが、向こうもこちらに気付いたらしい。パチッと目が合った。
その瞬間、一ノ瀬和哉は露骨に顔を引きつらせ、これ以上ないほど美しい挙動で、見事な回れ右を決めた。全力で逃げる気だ。
その背中は完全に、あの日の水泳勝負のときよりもキレがあった。
(なんで逃げるのよ)
青葉は呆れながら、その背中に声をかけた。
「……ちょっと」
和哉の肩がビクッと大きく震え、恐る恐る振り返る。
「な、なんでしょうか、清水さん」
なぜか他人行儀な敬語だった。
青葉は少しだけ黙った。
本当は何を言えばいいのか、自分でもよく分かっていなかったからだ。
下手くそな泳ぎで助けてもらった。それは事実だ。感謝もしている。
でも、素直にお礼を言うのも、なんだか負けた気がして少し悔しい。
だから、ぐるぐると回る思考の末に、本当に自然に口から出た言葉は、
「ありがとう、一ノ瀬先輩」
だった。
和哉は数秒間、完全に停止した。
まるで理解不能な外国語でも聞きかされたみたいな顔をして、目をパチクリとさせている。
「え? 今、なんて?」
「だから!」
青葉は少しむすっとした表情で、視線を逸らしながら続けた。
「プール!助けてもらいました!」
「いや、あれは別に……」
「それでも、助かったから。……本当に、バカバカしいくらい」
短い沈黙が流れる。廊下を夕方の冷たい風だけが通り過ぎていく。
すると、和哉は気まずそうにポリポリと頭を掻いた。
ヒーローらしい格好良い決め台詞の一つも出てこないのが、実になんというか、この先輩らしい。でも、その情けなさが、今の青葉にはたまらなく心地よかった。
「一ノ瀬先輩って、すごく変ですよね」
「よく言われるよ」
「ふふっ」
つい笑ってしまった、その瞬間だった。
「あー!!」
「いたいた!」
「オカルト部の海パン先輩じゃん!」
「青葉ー! 逃げなー!!」
廊下の角から現れた水泳部の女子部員たちが、大声を上げてこちらを指差した。
青葉の顔が固まり、和哉の顔も同時に引きつる。
数秒後、和哉は無言で踵を返した。
「じゃあ俺、行くわ」
「え?」
「海パン先輩」という不名誉極まりない二つ名を背負った和哉は、女子たちの爆笑に包まれながら、一目散に廊下の向こうへとダッシュで消えていった。
青葉はその情けない背中を、ただ見送った。
少しだけ、本当に少しだけ、口元が緩んでいるのを自覚しながら。
もうそこには、男子への悔しさも、追い抜かれた過去への未練も、何もなかった。
——本当に、変な先輩だな。
青葉の心には、そんな温かい感想だけが、夕日の中にぽつんと残されていた。
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