テイク・ユワ・マーク
この勝負、負けたら怪異は解決しない。
青葉の心にこびりついた「男子の身体能力の差への悔しさ」が残存思念の正体だ。ならば、ここで俺という「男」が圧倒的な実力を見せつけ、絶望的なまでの実力差をその身に刻みつけてやればいい。
その未練ごと、俺が力ずくで上書きしてやる。
水の中、壁に足をかけた状態からのスタートになった。
「じゃあいくよー。……た〜けゆあまーくす……」
ユナの気の抜けた、けれど妙に通るスタートの掛け声が、夕暮れのプールに響く。
俺と青葉の身体が、同時に限界まで張り詰めた。
「……ドンッ!!」
バシャアアアアッ!!!
鼓膜を震わせる轟音とともに、激しく水面が弾けた。
25メートル一本勝負のスタート。俺は小学校時代のスイミングスクールの記憶を総動員し、全力で壁を蹴った。
だが、現実は残酷だった。
(――速っ、え!?)
スタートの瞬間から、俺は清水青葉に決定的な後れを取っていた。
水の抵抗を一切感じさせない無駄のないフォーム。爆発的な推進力。横のコースを泳ぐ青葉の身体は、まるで一本の魚の矢のように、白く激しい水飛沫を残して、スタートからわずか数秒で俺の視界の先へと突き抜けていった。
地区大会優勝候補という肩書きは伊達じゃない。自称『イルカ』の男子高校生が、ただの気合で追いつけるような次元ではなかった。
(クソッ! どんどん離されていく……!)
焦る俺の視界の先、プールのちょうど真ん中の水底に、霊感100%の俺の目が「それ」を捉えた。
ゆらりと立ち上がる、不気味な男の影。
それは青葉が接近するにつれて、まるで彼女を捕食しようと待ち構えるかのように、その輪郭を急速に濃くしていった。
このまま青葉がトップで駆け抜ければ、怪異は消えるどころか、彼女のトラウマをさらに深く刺激して肥大化する。
(頼む、動け俺の筋肉……!イルカだろ!?俺は子供水泳教室のイルカだったんだろ!!)
しかし、俺がどれだけ水を濁らせようと、清水青葉の背中が、どんどん遠ざかっていく。
ぐんぐんと引き離され、俺の敗北は誰の目にも明らかだった。
だが、青葉がプールのちょうど真ん中——あの不気味にゆらめく「男の影」の真上に差し掛かった、その瞬間だった。
ピキリ、とプールの空気が凍りついたような錯覚を覚えた。
「え……っ!?」
前方で、青葉の美しいフォームが不自然に激しく乱れた。
彼女の推進力がぴたりと止まり、バシャバシャと水面を無様に叩く。激しい気泡の向こうで、青葉が自分の右太ももを押さえて顔を歪めているのが見えた。脚が引き攣っている。
(クソ、そういうことか……!)
俺の目には、はっきりと見えていた。
水底の残存思念から伸びた無数のドス黒い「男の手」が、青葉の両脚にまとわりつき、彼女を水底へと強引に引きずり込んでいる光景が。
これはただの身体的なアクシデントじゃない。
中学の成長過程で、男子たちの体格差に負けてしまった彼女自身の過去の絶望と未練。その呪縛が「男との勝負」という条件によって最悪の形でフラッシュバックし、彼女自身の足を引っ張ったのだ。
「ごふっ……げほっ……!」
息を吸い損ねた青葉の身体が、水面下へと沈んでいく。
スポーツ万能の地区大会優勝候補が、自分の生み出した過去の幻影に囚われ、誰もいないプールの真ん中で溺れかけている。
「青葉——!?」
プールサイドからユナの悲鳴が上がる。
おいおい、冗談じゃねえぞ。
これじゃ自分が作った怪異に青葉が殺されちまう。
「清水!!」
俺は大きく息を吸い込むと、ドス黒い影が渦巻くプールの最深部へと、海パン一丁で深く潜航した。
ゴボゴボと気泡が弾ける水中で、清水青葉は苦しげに四肢を悶えさせていた。
彼女の脚に絡みつき、深く冷たい水底へと引きずり込もうとしているドス黒い男の影。それは他ならぬ、青葉自身の未練と悔恨が形を成した思念体だ。
(……なら、俺には無関係だ!)
俺は水底の影を完全に無視し、沈みゆく青葉の細い身体を、背後からがっしりと両腕で抱きかかえた。
ピクン、と青葉の身体が驚愕に跳ねる。
邪魔をするものは、もう誰もいなかった。
俺は自称『イルカ』のキック力をすべて両脚に込め、青葉を抱いたまま、濁る底面を蹴って一気に水上へと突き進んだ。
プハァッ!!
水面を割り、激しく呼吸を貪る。
「げほっ! ごふっ……!」
青葉が俺の腕の中で、激しく水を吐き出しながら咳き込んだ。
「お兄さん! こっち!!」
視界の先、プールサイドからユナが叫びながら、オレンジ色の救命用浮き輪を全力で投げ込んできた。
俺は必死に手を伸ばしてそのロープを掴み取る。
「一ノ瀬くん、引っ張る、から……っ!」
烏丸さんが細い腕でロープを握りしめ、ユナと一緒に全力でこちらへ引き寄せ始める。2人の必死の牽引によって、俺と青葉の身体は滑るようにプールサイドへとたどり着いた。
「ハァ……ハァ……クソ、死ぬかと思った……」
濡れたコンクリートに青葉が上がり、俺もその場に大の字にひっくり返る。
夕暮れの冷たい風が、海パン一丁の俺の身体を容赦なく冷やしていく。あの不気味な男の影は、水の中に霧散するように消え去っていた。
青葉の脚に絡みついていた黒い手も、いつの間にか跡形もなくなっている。
俺の惨敗も、めちゃくちゃなキックも、あいつにとっては「壁」ですらなかったらしい。
「……大丈夫、か」
息を整えながら青葉を見下ろすと、彼女はまだ右太ももを押さえ、濡れた前髪の間から、信じられないものを見るような目で俺を見上げていた。
「なんで……アンタが……」
呆れたような、でも少しだけ力の抜けた声だった。さっきまで俺を置き去りにしていた背中とは、まるで別人みたいだった。
「言っただろ、子供水泳教室のイルカだって」
俺が限界のドヤ顔でそう告げた、まさにその時。
ドタドタドタッ!
体育館の渡り廊下から教師が二人、血相を変えてプールサイドに突入してきた。
プールサイドに、水泳部の女子たちの「犯人はアイツです」と言わんばかりの冷徹な指差しと、教師たちの怒号が響き渡る。
「おい!一ノ瀬、おまえ、 そこで何をしている!」
突入してきた教師二人は、濡れたコンクリートの上に転がる俺を見るや否や、一瞬の躊躇もなく突進してきた。その目は完全に、女子プールに不法侵入した凶悪な変質者を捉えるそれだった。
「ちょっと待ってください! 違うんです、俺はただ――」
「言い訳は聞かん! 現行犯だ!」
ガシッ! と、頑丈な丸太のような教師たちの腕が、俺の両脇の下に差し込まれる。
そのまま、俺の身体は有無を言わさず地面から浮き上がらされた。
「あ、あの、自分で! 自分で歩けますから! 下ろしてください!」
「問答無用だ! 暴れるな!」
教師たちは俺が逃亡を図るとでも思ったのか、ますます力を込めて俺を両側からがっちりとホールドした。
結果として俺は、黒い競泳用海パン一丁の姿のまま、両脇を教師に抱えられて宙ぶらりんになり、外へと連れ出される羽目になった。
背後を振り返ると、救出された清水青葉がまだ呆然とした顔でこちらを見ていた。
その横では、ユナが「お兄さんドナドナじゃんw マジ最高w」と、連行される俺の姿をバッチリ動画で撮影しながらゲラゲラと笑っている。
烏丸さんにいたっては、この世の終わりを目撃したかのように両手で顔を覆ってガタガタと震えていた。
俺は海パン一丁のまま、夕暮れの渡り廊下へと連れ出された。
放課後のこの時間、まだ校内には部活帰りや居残りの生徒たちが大勢残っている。
「え、何あれ……ヤバ……」
「変質者?てか、また一ノ瀬?」
すれ違う生徒たちの、ゴミを見るかのような容赦ない視線とヒソヒソ声が全身に突き刺さる。あまりの羞恥に、俺の魂は口から半分ほど飛び出していた。
こうして俺は、夕日に赤く染まる渡り廊下のど真ん中を、海パンの姿のまま、教師二人に挟まれて生徒指導室へと連行されていった。




