プールの人影
放課後のオカルト部は、最近になって少しだけ雰囲気が変わっていた。
小柄な少女——烏丸穂乃花が、ちょこんとパイプ椅子に腰掛けている。すっかりこの部室に定着した彼女は、今日もマイペースにコンビニのツナマヨおにぎりをハムスターのように小さく食んでいた。
放課後の部室棟。俺への侮蔑や奇異の視線もない静寂。落ち着く。
バァン!
そんな静寂を破るように、勢いよく部室の扉が開け放たれた。
「えー、何ここ! すごい綺麗じゃん!」
部屋に乱入してきたのは、ツインテールの脱色インナーカラーを揺らしたピンクギャル、ユナだった。
まばゆいばかりのカースト上位オーラが室内に流れ込んできた——その瞬間。
空間が歪むように、俺の隣にいた学級委員長・佐藤の存在がブレた。
ん? と思って俺が視線を向けた時には、そこに佐藤の姿はない。忽然と、文字通り消え失せていた。
(ギャル危険察知能力によるステルス撤退……! 相変わらず早すぎるだろ、佐藤!)
そんな俺の内心など露知らず、ユナは勝手に空いていた椅子を引きずってドカリと座る。
すると、烏丸さんがいつの間にか電気ポットで淹れたお茶を盆に乗せて、チョコチョコとした小動物のような動きで運んできた。
「あんがとー」
ユナは気さくにお茶を受け取ると、机の上に広げてあった俺のポテトチップスを当然のように勝手に食い始める。
他人のテリトリーへの侵入速度がバグっている。俺は深くため息をついた。
「……で、何しに来たんだよ」
「えー、オカルト部に来たんだからオバケの話に決まってんじゃん。ウケるーw」
まるでこちらが分かっていないのがおかしい、と言わんばかりの口ぶりだ。
理不尽だが、突っ込む気力は起きない。我が家にはユナ以上のギャルの日和がいる。ギャルの生態には慣れっこだった。
「アタシさ、水泳部の青葉とダチなんだけど。え? 清水青葉。1年なのに地区大会の優勝候補だよ?ぶっちゃけ超有名人じゃん。しらないの?」
「知らん」
「マジ? ウケるw」
ユナの口から語られた清水青葉という女子は、水泳部のエースで、明るくて、体育会系。オカルトとはおよそ無縁の人間らしい。
なのに、最近その青葉の様子がおかしいのだという。
「青葉がさ、最近プールで人影を見るんだよね。でも、見ようとするとそこには誰もいないの。すぐ消えちゃうらしくて気持ち悪いって話してた。どんな人か聞いても『分からない』って言うんだけど、なぜか『男だ』ってことだけは分かるみたいなんだよねー。姿は見えてないのにさ。これ、絶対オバケっしょ!」
なるほど、姿は見えないのに気配だけは分かる、か。
おそらくその清水青葉という女子の霊感ステータスは、常人並みなのだろう。だから、気配だけを察知してしまっている。
「……あのな」
俺はポテチを咀嚼するユナを冷たく見据えた。
「オカルト部だからって、オカルトすべてを即座に解決できると思うなよ」
「分かってるってー。よっちゃんの時みたいにさ、パパッとよろしくね!」
パチッとあざといウインクを飛ばされる。
分かっていない。確実に話が通じていない。
あの時の、俺のすべてを投げ打った上半身裸の『オレ・俺・マッスル』絶唱ストリップを「パパッと」で済まされては、俺の失った人間の尊厳が報われない。
その後もユナは、俺にとって1ミクロンも興味のない「最近買ったコスメ」や「他校のイケメン」の話をマシンガントークで繰り広げた。ただただ俺の時間が無駄に浪費される虚無だ。
しばらくして、ユナのポケットでスマホが激しく震えた。
「あ、ひよりんが用事済んだって。じゃあ帰るわー。暇つぶしに丁度いいね、ここ。またねお兄さん!」
嵐のようなユナはそう言い残し、部室を去っていった。
オカルトに関係のある話は最初の導入だけだった。本当にただの暇つぶしだった。
パタン、と扉が閉まったその瞬間――
ガラッ! と窓が勢いよく開き、外から佐藤が滑り込んできた。
「彼女の話は興味深いね。正式な依頼ではないが、見に行ってみよう」
「お前は忍者か!?」
ギャルがいなくなった途端にプロの除霊師の顔に戻る佐藤にツッコミを入れつつ、俺たちは下校時間までの残り少ない時間を使って、校内プールへと向かうことにした。帰り支度を整え、烏丸さんを伴った三人で移動する。
プールに到着すると、ちょうど水泳部が片付けをしているところだった。
この学校の水泳部は、男子と女子で日付を変えてプールを使用している。そして今日は、女子の日だ。
男子禁制の空間に男子二人が踏み入れた瞬間、水泳部の女子部員たちが露骨に嫌な顔をして俺たちを睨みつけてきた。
そりゃそうだろう。
(……ん? いや、待てよ。俺たちじゃない?)
よく見ると、女子たちの冷酷な視線は、佐藤を綺麗に避けて俺の姿だけに集中していた。
俺は、過去の事件もあり、ただの「女子プールを覗きにきた不審者」として認識されていた。
佐藤が「清水青葉と話がしたい」と告げると、部員の一人が「青葉ー!」と呼んでくれる。
その佐藤が話しかけた女子部員は俺の視野に入らないように、佐藤を挟んだ対角線上の位置をキープしていた。
地味に、いや、派手に傷つく。
「何の用ですか?」
体から水滴を滴らせながら、健康的なショートカットの女子——清水青葉が歩いてきた。
三人組を見て最初は怪訝そうな顔をしていたが、俺が完全に視野に入った途端、その顔がこれ以上ないほど露骨な嫌悪感に染まった。
佐藤が淡々とオカルト部だと自己紹介をし、俺も紹介しようとする。
しかし、青葉は俺を冷たく一瞥して言葉をかぶせてきた。
「知ってる。ひよりんの兄でしょ」
冷酷極まりない言い放ちだった。
佐藤はそんな青葉の嫌悪を一切スルーして、本題であるプールサイドの怪異について聞き込みを始める。
「ああ、それね」
青葉は少しだけ肩をすくめ、プールの中央を顎で指した。
「私の気のせいかもしれないけど、時々、誰かがプールのど真ん中に立っている気がするんです。まあ、見ようとすると誰もいないんだけど」
佐藤と俺は、言われたプールの中心を凝視した。
だが、この世のあらゆる怪異が完璧に見えるはずの、霊感ステータス100%の俺の目をもってしても、そこには何も映らない。
ただ、不気味に波打つ水面の上に、うっすらとした「怪異の残滓」のような残り香だけが漂っていた。
「……今は、いないな」
俺が小さく呟くと、佐藤も眼鏡の奥の目を細めて頷いた。
出現する時間帯によるものなのか、あるいは何らかの特殊な制約があるのかはわからない。これ以上ここにいても水泳部の女子たちの視線に俺が耐えられないため、俺たちは「後日、人がいないときに改めて調べてみよう」と言い残し、校門で解散することにした。
帰り道、烏丸さんとは途中まで道が一緒だった。
気まずい沈黙の中、並んで百メートルほど歩いたところで、烏丸さんがポツリと声を漏らした。
「あの……あれ、怪異じゃないと思います。人の……残存思念、だと、思う」
そう言えば、彼女は呪術師としての天然の才能が極めて高い。怪異そのものよりも、人間が吐き出すドス黒い感情や呪詛に特化している。だからこそ、あのプールに漂う「人の思念」を鋭く感じ取ったのかもしれない。
「……ありがとな、烏丸さん」
俺が短くお礼を言うと、烏丸さんは顔を真っ赤にして、またハムスターのように足早に去っていった。
一人になり、夕暮れの道を歩いて自宅へと向かう。
玄関を開けると、日和のローファーがあった。もう帰っているらしい。
ふと、この間の生姜焼き定食の日のことを思い出す。
あの時は、ほんの少しだけ、妹との距離が縮まったような気がしたのだ。
(……少しずつでも、あいつと歩み寄れたらいいな)
そんな健気で淡い期待を胸にリビングのドアを開けたが、夕食のテーブルを見て俺は硬直した。
広いテーブルの真ん中に、ポツンと、市販の食パンが袋ごと置いてあった。無慈悲な光景だった。
ソファーに座ってスマホを弄っていた日和が、ゴミを見るようなジト目で俺を一瞥する。
「アンタ、なんか今日、水泳部覗きに行ったらしいじゃん。ユナがグループLINEに投下してたよ。『水泳部の青葉が、ひよりんのお兄ちゃんに太ももをジロジロ見られてマジキモかった』って連絡来たって」
(…………見てたけど!余分な脂肪のないスラッとした健康そうな脚だな、と確かに見てたけどっ!)
どこへ行っても、理不尽に不審者扱い。
今日も俺の心は、パキィンと綺麗な音を立てて粉々に折れた。




